1.初めての旅
シエラはいつになく緊張していた。入社してからしばらくはオルテンシア号の修理のため運航が休止していたが、いよいよそれが解かれるのだ。
そして、運航するとなればシエラにとっての初仕事である。今までは会社の雑務が主だったが、今度はオルテンシア号に乗船しての仕事となる。
先輩であるウィンに色々と指導されはしたが、助けてもらった時の手伝いとはわけが違う。佇まいから挨拶の仕方までしっかり叩き込まれてシエラはオルテンシア号の中にいた。
運航が再開したオルテンシア号が乗せるのは、たった一人の青年だった。
「小さな船だから、乗船するお客様も少ないんですよ」
そうアデーレはシエラに説明したが、逆に貸切のようにも思えてシエラは緊張が強まってしまう。
時刻は午前十時。春先の霞が勝った空は、日差しが差し込んでいてもどこがぼんやりとしている。風は暖かく心地よいが、それがシエラの緊張をほぐしてくれるわけでもなかった。
「シエラちゃん、大丈夫だよ。教えた通りにやってれば」
青年を待つ間、ウィンがシエラの背をぽんぽんと叩いて緊張をほぐそうする。
「ウィン先輩……」
「それにうちにくるお客さんなんてそう変な人はいないし、みんな人がいいもんだよ」
不安な様子のシエラにウィンはそう豪語してみせたところで、乗降口のハッチが開いた。
いよいよお客様が来たのだ。
その青年は雰囲気こそ穏やかだが、どことなく表情に翳りが見えた。四角いメガネは生真面目そうな印象を与えるが、服は少し手入れを怠っているのか裾がよれている。
「いらっしゃいませ、デニス様。この度はラピエス社をご利用いただき誠にありがとうございます」
ウィンがメイド服のスカートをつまんでカーテシーをする横で、慌ててシエラもお辞儀をする。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
デニスはメガネの奥の瞳を寂しげに細め、消え入るような声で「よろしく」と言った。
「お客様、客室までご案内いたします。どうぞこちらへ」
ウィンが流れるような所作で客室に続く廊下を先導していく。デニスが通り過ぎた後、エーヴェルがデニスの荷物だろうトランクを持って乗降口から乗り込んできた。
「シエラちゃん、お客様の荷物、運んでいってくれ。俺はここ閉めておくから」
「は、はいっ」
エーヴェルが片手で軽々と持っているトランクも、シエラが持つと両手で持たないといけないほど重い。シエラはトランクを抱えたままウィンと青年の後を追い、客室までトランクを運んでいく。
「こちら、お客様の客室となります。各種ルームサービスもございますので、ご用の際はテーブルの呼び鈴をお使いください」
「お客様の荷物、こちらに運ばせていただきます」
努めて重さを顔に出さないようにし、シエラは客室の荷物置き場にトランクを置く。デニスは寂しそうな目のまま会釈をし、シエラもそれに応じてお辞儀をした。
デニスの悲しげな顔がシエラの心に引っかかる。せっかくの旅だというのに、どうしてあんなに浮かない顔をしているのだろう。シエラは不思議でならなかった。
だが、顔に出してはいけない。ウィンがルームサービスの説明を一通り済ませたあと、シエラに目配せをする。
「では、失礼致します」
ウィンのお辞儀に合わせシエラもまたお辞儀をし、一緒に客室を出ていく。ドアを閉め、廊下の少し離れたところでウィンは満面の笑みを浮かべた。
「シエラちゃん! ちゃーんとできてたよ、完璧!」
そしてばしばしとシエラの背中を叩く。シエラは背中を叩かれながらもほっと息をついた。
「うまくできてよかったです」
「後はルームサービスがあったらあたしが行くから、他の仕事してて大丈夫!」
ウィンにお墨付きをもらえたことは嬉しいが、シエラは先ほどの青年が気になってしかたなかった。あんな風に沈んだ表情で、どこか具合でも悪いのだろうか。
ウィンと別れ船内の点検をして回るが、シエラはどうしても青年の寂しげな顔がちらつく。
「旅は楽しむためのものだと思うんだけど……」
離陸前の最終確認をして、甲板から降りてきたエーヴェルに報告する。
「ハッチと船内の安全点検、オーケーです」
「助かる。ダブルチェックしておくから、点検表に記入頼むな」
「はい。あの……」
研修で何度も練習したから、点検の方は問題ない。だが、シエラはあの浮かない表情が気がかりだった。
「どうした? 不安なところがあるならチェックがてら復習に付き合うぞ」
「そうじゃなくて、エーヴェルさん、旅って、楽しいはずですよね?」
エーヴェルは少し首をひねったが、すぐに首を横に振った。
「旅っていうのはいろんな気持ちを整理するためのものさ。もちろん、楽しむための旅行もあるだろうけどね」
どうしてそんなことを聞きたくなったのか、とエーヴェルが興味のある視線を投げかける。シエラは先ほどの青年を思い出して口を開いた。
「お客様が、なんだか悲しそうで……せっかくの旅行なのに、楽しめないことがあるのかなって」
おっと、とエーヴェルがシエラの言葉を遮る。はっとして顔を上げたシエラに、エーヴェルは眉を下げる。
「そういう詮索をしてしまうのはよくないな。誰にだって事情はある。お客様から話すまで、俺たちが干渉するのは基本的になしだぞ」
シエラは息を呑んで口をつぐむ。研修でアデーレにも言われたことだ。お客様に寄り添いこそすれど、踏み込むことはしてはいけない。誰よりお客様は自分自身と話したがっているのだ、と。
考え込むシエラの頭をぽんとエーヴェルは撫でると、その手をひらひらと振る。
「時間が押すといけないから、先にチェックだけ済ませてくる。話があるなら離陸後にゆっくり聞かせてもらうよ」
エーヴェルを見送り、シエラは再び客室のドアを見やった。あのドアの向こうで、デニスは何を考えているのだろう。
「本日は、ラピエス旅行社をご利用いただき誠にありがとうございます。当機は異世界間旅行船オルテンシア号、操縦を務めますのはレア・オリン。案内はアデーレ・ヴィレットが担当いたします。
当旅行船はフォレシア発、虹の国行きとなります。当旅行船はまもなく離陸いたします。離陸の際は揺れますので、立ち歩きなどはご遠慮くださいませ。繰り返し、ご案内申し上げます――」
アデーレの船内放送が聞こえてくる。エーヴェルが最終確認をしたら、もう出発だ。シエラもスタッフルームで待機しなければならない。
心躍る発進の放送なのに、シエラは気持ちが乗らなかった。




