Part.4
「ごめん、ちょっとお手洗い行ってきま~す」
綾は立ち上がると、軽い調子で言った。
「オッケー、待ってま~す」
葵も軽い調子で返すと、美羽に目線を落としてニッと笑う。
美羽は、そんな葵の笑顔に、少し恥ずかしそうにもじもじしていた。
綾は少しだけ安堵の表情を浮かべ、1人で歩き出した。
綾はエスカレーターで2階へ。
――3階、4階、5階、6階、そして最上階の7階へ。
7階のロビーにある、少し人気のないベンチ。
そこからは町全体が見渡せ、きれいな景色が広がっている。
けれど、綾に笑顔はなかった。
(……なんでよ……何が不満なの?)
――綾の脳裏に蘇る記憶。
朝、慌てて家を出た綾は、途中でふと気がついた。
(やば……黒パン忘れた……)
葵と学校を出る頃には、風はどんどん強さを増していた。
「綾……もしかして黒パン忘れた?」
葵が唐突に聞いてきた。
「……なんでわかったの?」
キョトンとした顔で、でも何も隠すことなく、綾は聞き返す。
「いや、今日はやけにスカート押さえるなって思って……」
「え、何それ……こわっ!」
「『こわっ!』って何よ、心配してんのに!」
葵は頬をぷくっと膨らませて見せ、綾はニヤリと笑った。
駅の連絡通路まで来た時だった。
「……綾、こっちから行こうか?」
葵は風が弱いものの、少し遠回りになる右側の通路を指さした。
「ううん、押さえてれば大丈夫。ありがと」
綾と葵は、風が強い左側の通路を歩き始めた。
「……うわぁぁぁああああああっ!!!」
その時、後ろから聞こえた叫び声。
スカートを押さえて泣き叫ぶ美羽の姿。
(助けなきゃ!)
身体の方が先に動いた。
急いで自分のベストを脱いで、美羽の腰元に巻きつけて押さえた。
(よし、これでもう絶対見えないよ)
美羽に笑いかけたその時、後ろから突き上げられるような感触を覚えた。
(……っ!?)
気づいた時には遅かった。
(やばいっ!絶対見えてる!)
でも今この手を放せば、ベストは落ちてしまう。
美羽の怯える顔を見て、ベストを握る手に力が入った。
(お願い、やめてっ!!今だけはやめてっ!!)
しかし、風は容赦しない。
完全に自由になったスカートが、何度も持ち上がってくるのが嫌でもわかった。
(やだっ!やだっ!!)
「綾、もういいよっ!!」
葵の声が、天からの救いのように聞こえた。
綾は急いでベストを自分の腰に巻き直した。
呼吸は荒くなり、スカートを整える指が時々もつれた。
ようやくスカートを握りしめて目線を上げると、葵がこちらを見ていた。
その横には、葵に教えられたのか、しっかりスカートを握りしめた美羽の姿。
それに安堵した綾は、にっと笑って頷き、葵と美羽の後を追って走った。
――夕日に照らされる町並み。
しかし、綾の目にはもはや何も映っていなかった。
(あの子を守るのも大事だよ?でもあたしは!?あたしはどうでもいいの!?)
(はぁ!?じゃああの子を見捨てろってわけ!?よく言えるね、最低っ!!)
(あたしだってこわかった……恥ずかしかった……助けてほしかった……)
(あの子笑えたよ!?葵のこと見て、目細めて笑ったよ!?嬉しくないの!?)
(嬉しいよ……でも……あたしは……)
(ねぇお願い……笑って!!笑ってよ、あたしっ!!!!)
「……綾」
その声に、綾は我に返り、咄嗟に振り向く。
「えっ……なんで……?」
綾が驚きながらも問いかけると、葵はにっこりと笑って言った。
「これ、忘れたでしょ。」
手渡されたのは、綾がトイレに行く時に必ず持っていたポーチ。
その瞬間、綾は思わず目を伏せた。
葵は何も聞かず、穏やかに続けた。
「あの子を1人にしておけないから、手短に……」
葵は微笑みながら、綾の目をまっすぐに見つめて言った。
「ありがとう、綾」
その一言に、綾は無意識に微笑んで頷いた。
(よかった……葵もあの子も……笑顔になれた)
綾は思わず顔を赤くして視線を下に落とした。
「それから……」
葵の言葉が続くことに、綾は一瞬驚いて葵を見た。
葵は一瞬言葉に詰まると、わずかに声を震わせて言った。
「……頑張ったね」
(……っ!?)
綾は思わず目を見開いた。
「じゃ、先に戻るね」
葵は少しだけ微笑んで、綾の答えを待たずに、足早にその場を去っていった。
葵が曲がり角に消えると、綾の視界が急にぼやける。
綾は慌ててベンチに座り直し、両手で顔を覆った。
涙が止まらない。
顔を覆った手の隙間からも、涙がこぼれ落ちてくる。
「ありがとう、綾」
「……頑張ったね」
葵の言葉が、綾の耳に何度もこだまする。
(……ありがとう、あたし)
(……ごめんね、あたし)
背中に、とっくに美羽のところに戻ったはずの葵の手を感じる。
葵の残した温もりの中で、綾は一人で泣き続けた。
(……さて、そろそろ行かなきゃ)
綾は洗面所に足を運び、鏡の前に立つ。
「うわぁ……そりゃ泣いたらこうなりますよねぇ……」
思わず声を漏らし、苦笑い。
早速メイクを直そうと、無意識にポーチからメイク道具を取り出す。
(……あれ?)
綾はポーチとメイク道具に視線を落とす。
葵がわざわざ届けてくれた、綾のポーチ。
(……こわっ)
綾はもはや笑うしかなかった。
「……やれやれ、勘のいい人は困りますね~」
鏡の中の自分にそんな言葉を投げかけながら、メイクを整える。
「よし。戻りますか。」
鏡に映る綾の笑顔に、もう苦しさはなかった。
(つづく)