イヤホンの制裁
彼愛用のイヤホンが元カノからのプレゼントと発覚して、また喧嘩になった。
彼が私の部屋へ転がり込んでからというもの、しょうもない喧嘩が日に日に増えている。 昨夜だって売り言葉に買い言葉で、
「そんなイヤホン、捨てればいいのに」
と、私は吐き捨ててしまった。
「もう無理だわ」
彼はそう言って、私より先に私のベッドで寝てしまった。
そして、今朝だ。
「もしかして、捨てた?」
遅い朝食を済ませたあと、洗い物をする私の背中に彼の言葉が刺さった。
「イヤホン、見つからないんだけど、捨てた?」
「そんなことしてない」
私の返事を彼は鼻で笑い、冷ややかに見下ろした。
「ふーん」
全く信じていない。彼は気づいていないけれど、私を人間扱いしていない。向けられた視線の冷たさが針の雨になってプスプスと突き刺さる。
「きっと家の中にあるよ」
洗い物は中断して、私は部屋中を探しに探した。けれど、イヤホンは見つからない。
「やっぱり捨てたんだろ?」
「違うよ」
「でも、ないじゃないか」
自分がなくしたくせに、彼は少しも悪びれない。
「最悪だよ。イヤホンがないとかありえない」
大きなため息をわざとらしく吐き出した。
「気分悪い」
腕を組んで私を見つめるといういつものポーズをしている。
これは、「察しろよ」のポーズ。
言わなくてもやることわかっているだろ? やらないなら、お前の価値なんてないんだよっていうポーズ。
「ーー新しいイヤホンを買いに行ってくる」
私はそういうと、カバンに財布を詰め込んだ。
「お前に買えるのかよ。金ないって愚痴ってたくせに。あーあ。元カノは金持ちだったんだよなぁ。お前んちの実家は貧乏だもんなぁ」
(最低)
言い返してやりたいのを堪えて、散らかったままの部屋を飛び出した。
アパートの階段を降りながら涙を拭う。
(このままじゃダメだ)
あんな男とは別れたほうがいい。
ーーもう無理だわ
昨夜の彼の声がギュッと胸を締め付けた。
わかっている。
わかっている。
★
それなのに。私は家電量販店に来ている。
この店には家電好きの彼とよく立ち寄った。ここにいると機嫌がいいから。
勇んで入ったものの、彼の使っていたイヤホンを手に取り、その値段を見て血の気が引いた。
財布の中身は千円札1枚と5円玉2つ、1円玉3つ。
バイト代も、銀行口座に振り込まれているはずの仕送りも、使い果たしていた。買えるはずもなかった。
美味しいものが好きで、できるだけ良いもの身につけたい彼といると、嘘みたいにバイト代が消えていく。
(あんなヒドイやつだけど)
それでも別れることができない。別れたらどうしたらいいかわからない。上京して、学校に通い始めても友だちができなかった。ずっと一人ぼっちだった私に、初めて優しくしてくれた人。そして初めての彼氏だった。
ーー買えた?
商品棚の前で、スマホにやってきた彼からのメッセージに気づいた。
ーーごめん
私はすぐに返信する。
ーーまだ?
即座に返ってきた短いその文の中には、彼の苛立ちがこもっていた。返信もできず、スマホを肩に掛けていたカバンに滑り込ませる。画面を見るのも怖い。喉はカラカラに乾いていた。
(ダメかもしれない)
このままでは、どんどん気持ちが離れてしまう。
(本当に、もうダメかもしれない)
私はイヤホンの商品棚を急いで離れた。さっさと店を出ようと思ったものの、出ることもできず、店内をしばらくうろうろしてから人気のない電子レンジの売り場へと逃げ込んでいた。
「電子レンジをお探しですか?」
その時、中年の店員が明るく声をかけてきた。店のロゴの入った派手な上着を着た男だった。
「いえ」
私はサッと顔をそらし、その場を立ち去ろうとした。しかし、店員はついてくる。
「何を温めます? レンジで何を温めたい?」
そんなことを聞かれても、電子レンジを買う気はないし、お金もない。
「あの、大丈夫なんで」
今度ははっきりと大きな声で言う。ちゃんと聞こえるように。
「本当ですか?」
店員は怪訝な顔でまじまじとこちらを見つめた。
「大丈夫じゃないような気がします」
私の背中には冷たい汗が流れた。この店員、どうして大丈夫じゃないと思うのか。勝手な言い分に睨みつける。
「全然大丈夫じゃないですよね。大丈夫なんて、どうして嘘つくかなぁ。だって顔色、悪いですもん。もうすぐゾンビになるみたいな顔をしてるよ。だからこそ何か温めないと」
店員の穏やかな笑顔が更に私を強張らせた。
「そうだホットミルク。ホットミルクがオススメですよ、そんなときは。温かいものを飲むに限ります。このレンジならホットミルク作れます。温度センサーでムラなく温められますよ」
そばにあった電子レンジを撫でる。私は値札を見て半笑いになった。買えるわけがない。
「お金ないんで」
これは買わない正当な理由になる。堂々と、突き放すように言ったけれど、店員は引き下がらなかった。
「お金はなくて、いいですよ」
引き下がるどころかグイグイとこちらに近づいてくる。
「買わなくていいですよ。どうせ、新商品が出たら安くなるんで、それまで買わなくていいんです。今日は僕の話を聞いてくださいね」
買わなくていいなんて、お店的にそれでいいのだろうか。上司に怒られたりしないだろうか。それとも、私に対して「逃さないぞ」といいたいのだろうか。
「学生さんですか?」
「……はい」
私は答えるしかなかった。
「じゃあ、お友だちとか家に遊びに来たとき、活躍しますよ」
「友だちいません」
されるがまま絡まれたままでは思う壺だ。こちらも手を打たなければならない。
「性格悪いんで」
この店員をなんとか突き放したい。
「パン屋とかケーキ屋になりたいって言っていたくせに、ちゃんと専門学校に進学したの私だけだね、みんなブレブレだねって。卒業式に言っちゃったから」
「あらまあ」
店員は少し呆れた。でもすぐに笑顔になる。
「お客さん、調理系の学生? すごいね。得意料理は?」
私は黙ってしまった。突き放すにはエピソードが弱すぎた。逆に燃料を与えてしまったようだ。
「得意料理なにかな? 得意料理、知りたいなぁ」
得意料理を知らないおじさんに答えたくない。なのに、猛烈に嫌な顔をしても、やっぱり全然引き下がらない。
「卵焼きです」
おじさんの押しに負けて、私は小声と早口で答えた。
「卵焼き!」
おじさんの顔面はわざとらしい驚きのあと、満面の笑みに変わる。
「もしかして彼氏さんの胃袋を掴んでますね? 掴んでますよね。卵焼きって実は難しいですもんね。いいなぁ。僕は甘めが好きなんですけど、奥さんは塩だけがお好みで。ネギとかニラとか入れるんですよね。僕は卵だけがいいのに」
きいていないことをベラベラと話す。でも、そういえば彼氏以外の人と長く話すのは久しぶりだった。
「弁当とか作ってます?」
「はあ、まあ」
「レンジあると色々便利ですよ」
もう黙ることにした。無言を貫いていれば気まずさに耐えきれなくなってあきらめるだろう。
「こっちはね」
店員の方はおすすめのレンジに対して反応が良くないと思ったのか、軽快なステップで違う商品に移った。
「コンビニで買った大きめのお弁当も、このレンジなら楽々入るんですよ。しかも庫内がフラットで掃除しやすい」
喋らせてフェードアウトするのもいいかもしれない。無言の私は少しずつ売り場から離れていった
「でも、将来的にはこっちかなぁ」
店員はすかさず私のそばのレンジに近づいて道を塞いだ。
「必要でしょ?」
そのレンジは一人暮らしには似合わない大きなスチーム機能付きのオーブンレンジだった。値段も高すぎる。
「いらないです」
今度は即座に答える。あまりに無理があって流石に腹が立ってきた。
「まあまあ。中を見てくださいよ」
店員は縦開きの扉を開け、入っていた専用の角皿を引き出した。
「あら」
そこにあったのはイヤホンだった。まだ開封されていない。見覚えのあるパッケージに入ったままの。
私は寒気を覚えて一歩後退る。しかし、体が凍りついてそれ以上動けない。
「誰かしらこんなところにイヤホン置いたの。時々こういうイタズラあるんですよね。天使のイタズラってやつ?」
店員はこちらをじっと見つめた。
「あれ?」
穏やかにほほえみながら、ツカツカと近づいてくる。
「ちょっとカバン見せてください」
頭の中で一瞬で真っ白になった。
「カバン」
床がグラグラと揺らいだ。
カバンには、スマホと一緒にするりと入れたイヤホンが入っている。すぐに逃げ出すのではなく店内をぐるぐるしていたのは、それを持って店を出たら出口のセンサーが反応するから。
頭にパンパンに詰まっていた言い訳は真っ白になって消えた。
私はカバンを渡していた。
「あらやだ」
中を見て、店員が驚いてみせた。
「ほらぁ、イヤホン」
今までのしつこい接客はイヤホンに気づいていたからだ。捕まえるために泳がされていたのだ。
いいわけする気力もなかった。もうおしまいだと思った。
でも、次に耳にしたのは思いがけない言葉だった。
「あなたもイタズラされちゃったのかな」
驚いて顔を上げると、店員は笑顔を浮かべたままだ。どういうことなのだろうか。気付いていないのだろうか。
「あとね、これは秘密なんですけど、このイヤホンももうすぐ値下げするんで、もう少し待ったほうがお得ですよ」
声色を一つも変えず、店員はカバンを手渡す。
「ーーイヤホン、ほしいですか?」
私は答えることができない。
やはり気づいているんだ。
「これはご自分用ですか?」
うつむいたまま、どうにか首をふる。
「じゃあ、誰用ですか?」
「……彼氏に」
今度は店員が首を振った。大きく大きく、激しく首を横に振った。
「ダメダメ。あの彼氏には自分でイヤホンを買うように言いなさいな。あなたはおいしい料理を作る。そして、冷めたら温めるためのレンジを買うの」
そして、私の背中をポンと叩いた。
「レンジを買いに、また来てください」
「でも」
このヒトは私を問い詰めないのか。店の裏に連れて行かれて警察を呼ばれるのではないのか。見逃してくれるのか。それでいいのか?
後悔と戸惑いが胸の中で渦巻く私に、店員はニッと笑う。
「だって、自分を大切にしないと」
これまでで一番本当っぽくて、一番優しい笑顔だった。
「ねっ」
知らない人なのに、何をいっているんだろう。何を知っているんだろう。また同じ過ちを犯すかもしれないじゃないか。許されることじゃないじゃないか。
「時々、彼と店に来てたよね?」
「……はい」
「君とあの彼、恋人同士というより主人と召使いみたいだったから」
私は体が強ばった。召使い。その言葉に怒ることもできない。だって、彼にとって私は召使い以下かもしれないから。ちゃんと気づいていたのに、気づかないふりをしていた。
「ね。もっと自分を大切にしないと」
「でも」
「いいから。天使にでも出会ったと思ってさ」
店員は派手な上着の胸のポケットから何かを取り出し、手のひらの上に乗せて差し出した。
「これあげる」
飴だった。その家電量販店のロゴマークが入っていた。私が飴を手に取ると、店員はくるりと背を向け、何事もなかったように違う客のもとへも行ってしまった。
★
私は店を出た。風が冷たい。それなのに体は熱を帯び、寒ささえ他人事のようだ。自分のしたことに震えが止まらない。
家電量販店のレンジの中にイヤホンがあって、あの店員は見透かすように私に言った。
(自分を大切にしないと)
私はスマホを手に取る。
ーー別れる
ーー召使い、やめる
彼にそうメッセージを送った。それから、もらった飴を放り込んだ。
(やり直すんだ。自分を)
私の決意は飴の甘みと一緒になって、じんわりと身体にしみこんでいった。