第3話 放課後の教室
◇
桜が散り始めた、ある日の放課後。アキは用事があると一目散に帰り、ナナミンと私は本屋に寄りたいという意見が一致して、一緒に帰ろうとしていた。
「アキったら、はしゃいじゃって〜」
「?」
カバンを手に取り、誰よりも早く教室を出ていくアキを、ナナミンはニヤニヤとした目で優しく見送る。
「……きっとそのうち、マコにも言うよ」
意味深な言葉を投げかけられて、ウインクされた。アキはどこに向かっているのだろうか。疑問は残ったけど、まだ私が知る時じゃないということなので、口を慎んだ。二人は中学からの仲だから仕方ないと、少しだけ自分に言い聞かせた。
ナナミンと最近読んだ小説の感想を語らいながら校門まで来た。すると、
「……あっ」
ブレザーのポケットに手を入れたら、スマホを教室に置き忘れたことに気づいた。
ナナミンに「ごめん。スマホ取ってくる」と一言伝えてから、急ぎ足で校舎に戻る。
下駄箱で外履きから内履きに履き替える際、別クラスの女子二人の、どきりとする会話を耳にすることになる。
「1組の立花ララって、パパ活しているらしいよ」
「え、マジ?」
「ほんとほんと彼氏が言ってた! 駅前で50代くらいのおじさんと腕組んで歩いてたんだって〜。やばいよね」
「うわ〜。そういう人、本当にいるんだね〜」
人の悪意を目の当たりにして、全身が水を浴びたように冷たくなった。
……立花さんがパパ活?
何かの間違いだと思った。
この前、教室での男子たちのやり取りを見て、そういうことをする子じゃないと思った。信念がある、しっかりとした子。嫌なことははっきりと言えて、物事の分別が付いている子。
私は立花さんのことを何も知らない。にもかかわらず、絶対にパパ活はしていないという謎の自信があった。
そのまま隠れてやり過ごせば良いものの、私は噂話をしていた女子二人の前に出た。
「「!!」」
周りに人がいるなんて思ってもいなかったのか、二人はビクッとしていた。
数秒ほど、彼女たちをじっと見る。
「何こいつ」と言いたげに、二人は顔を見合わせている。
そのうち一人が「行こう」と片方の女子の制服を掴み、その場から立ち去る。
ごうと遠くで風が強く吹く音がした。
……私は何故、喧嘩を売るような真似をしたんだろう。自分の行動に不思議な感覚を持つ。今になり、額に汗がにじんでいることに気づいた。ポニーテールを軽く触り、気持ちが落ち着くのを待った。
私にしては勇気がある行動だと思った。だって、そのままスルーすることができなかった。同じクラスの女子が悪く言われるのが嫌だったのかもしれない。
……あっ、ナナミンを待たせているんだった。
ふと我に返り、教室へと急いだ。早くスマホを取ってこないとーー。
息を切らして、教室のドアを開けると……驚いた。
偶然にも、立花さんがいた。机に向かって一人で何かを書いていた。
後ろのドアが急に開いたことにビクッとした立花さんと目が合う。
夕方の日差しがキラキラと輝き、教室内を優しく照らしていた。
「立花さん、まだ学校に残ってたんだね」
「……まあね」
「何か用事?」
「……ふんっ。べ、別に何だっていいでしょ。放っておいて」
くるりと私に背中を向ける。
机の上にはノートが開かれている。もしかして宿題を今しているのかな?
なんとなく気になって目が離せない私は一歩、二歩と立花さんに近づく。
「立花さん!! それって……」
「……ちょ。な、なによ」
ノートは一面、真っ黒だった。シャーペンで書いた、ぐるぐる書きが、真っ白いページを埋めつくしていた。ひどい。なんで、こんなことを……。
……嫌な予感がした。
もしかして、誰かに書かれたのだろうか……。
ふと先ほどの昇降口で陰口を言っていた女子二人が思い出された。
「あ、ああ? これ……」
ノートを指差す私の視線から逃れるように、そっぽを向く立花さん。何故か、顔が赤い。
「うん。そのノートのこと……」
「いいから放っておいて」
「そんなことできないよ!!!!」
……私ってこんなに大きい声が出せたんだ。
立花さんも驚き、目を見開いている。
「交流もないクラスメートに、こんなこと言われても困るかもしれないけど……。そのノートに書いてある黒いの、私も一緒に消しても良いかな?」
「……へっ、どうして?」
私たちは顔を見合わせる。
「急に現れて何? びっくりする」
「うっ……。最近、新しい消しゴム買ったの! 初めて使うブランドのだから、使い心地を試したくて……、その、駄目かな?」
我ながら苦しい言い訳だった。動揺していたから、脈絡のない言葉が口からあふれる。
もっと他に良い言い方があっただろうに……。
「はぁ? まぁ、いいけど……」
いいんだ!? 良かった。
立花さんのこと放っておけないよ。
◇
消しゴムがノートに擦れる音が教室に静かに響く。
「……」
「……」
私たちは無言のまま。
立花さんは、じっと私の手元を見ていた。
五分前。長引く予感を感じた私は、置き忘れたスマホを使って、ナナミンに『ごめん。用事ができたので先に帰ってもらえないかな。本当にごめんね』とLINEを送った。
すぐに『わかった、大丈夫だよ。本屋はまた今度行こ〜』との返事。そして、ゆるい羊のスタンプが届く。
ホッとしたのもつかの間。
まさかこんなことになるなんてと、現実に戻され、立花さんにバレないように、静かに乱れた息を整える。
スマホを教室に置き忘れただけなのに……。これまで接点がなかった立花さんと、今こうして向き合うことができている。
私は立花さんの前の席の人の椅子を借りて、黒いノートを消しゴムで消している。
そんなにまじまじと見つめられると、消しゴムを持つ手が震えそう。
「……急にごめんね」
波打つ心臓を抑えて、立花さんに声をかける。
「……うん。別に。けど、あなた変わってるわね」
軽くふふっと笑う立花さん。不思議と嫌な気はしなかった。
「そうかな……」
「うん」
「……こういうことは初めて?」
「えっ?」
「……その、ノートに"書かれる"ことって」
「へっ? "書くこと"じゃなくて? ……もしかして、丁寧な言葉で言ってる? えっ?」
「んん?」
噛み合わない会話。少しの違和感を感じた。