第1話 名前の悩み
矢橋 真子奈。読み方は「やはし まこな」私の本名だ。ちょっと珍しいと言われるけど、それほど変わっているわけではない、普通だけど特別な私の名前。
真子で良かったのに、なんで「奈」を付けたんだろうと、ふと考えてしまうことがある。真子に奈が付くことで、初対面の自己紹介のリズムが上手くいかなくなる。
「私の周りに"まこ"って子はいるけど、"まこな"は初めてだなぁ」
「……かわいい名前だね!」
何でもなく通り過ぎる自己紹介の流れが微かに乱れる。名前について何か言われると、自分でも顔が引きつってしまうのがわかる。
別に適当に、「あんまりいない名前だよね」「かわいい名前? えー、ありがとう!」と答えれば良いことはわかっている。
難しく考えて言葉に詰まる方が、場の空気を盛り下げてしまう。
でも、出来ない。矢橋真子奈は私の本名だから。自分にぴったりくっついている言葉だからこそ、思ってもいないことは簡単に口には出来ない。
「私の名前はーー」と自己紹介をするたびに、表情は硬く、泣きそうでどうしようもない気持ちになる。
桜咲く出会いの季節、高校一年生の春。自分を知ってもらう上で、名前を声に出すことが多い、この時期。私のHPは少しずつ減っていく。
クラスのみんなの前で、自己紹介をした時、誰かが「まこな……」と、ぼそりと口にした。
ヘラヘラと笑って言っていたわけではないから、悪意が含まれていないことはわかる。あまり聞き慣れない名前だから、なんとなく口にしてみたという感じだ。
私が真子という名前だったら、ぼそりと口に出して確認されることもなかったんだろうなと、もしもの話を考えては一人ネガティブな気分に浸ってしまう。
クラスの中には、他に珍しいと感じる名前の子は数人いた。私だけが独特というわけではない。
頭ではわかっているけど、どこかソワソワと気持ちが落ち着かない。
注目される瞬間は、極力、少ない方が嬉しい。私のことは普通と見てほしい。自意識過剰な一面を自覚させられる度、恥ずかしくてどうしようもない気持ちになる。
◇
春風がさらっと頬を撫でて、教室の中を駆け巡る。
私は教室の一番後ろの窓際の席になった。授業中はクラスメートの背中を見つつ、そこまで緊張せずに過ごせる特等席だ。
一番前の席だったら冷や汗をかいていたかもしれない。
クラスメートのおよそ70個の瞳が、気まぐれで視線を向けてくる光景は、考えただけで、おろしたての真新しいシャツをねっとりと汗ばませる。
席替えの時は、今と同じ場所にしてとは言わないけど、出来る限り、後ろの席になりますようにと今のうちから願っている。
遠い先の未来を考えて、一人あれこれ悩むのは私の悪い癖だ。しかも、起こるかもわからないことを……。少しずつ直していかないとなぁ。
私は平常心を保つために、ポニーテールにそっと右手を当てて、優しく髪をとかしていく。さらっと指に絡みつく髪の感触は、触り慣れたもので、不思議と気持ちを落ち着かせてくれた。
髪を結んだ根元の太い部分から、細々とした毛先にかけるラインがお気に入りだ。
なるべく、何気なく触っているテイを装わなければならない。あまりにも熱心に自分のポニーテールを触っていると、変な目で見られることがあるかもしれない。
「矢橋さんって、髪がきれいで羨ましい!」
「!!」
右隣の席の女子から、突然声をかけられた。……びっくりした。
ふわふわとした猫っ毛のショートカット。ボーイッシュで、人懐っこそうな性格をしている。名前は、葉月明子ちゃんだったはず。自己紹介の時、彼女はスイーツ好きであることを口にしていた。
ファーストコンタクト。
咄嗟のことに、上手い返しができなかった。不自然とも言える間が、二人の間に広がる。
「あ、急にごめん。驚いたよね」
葉月さんが片手を前に出して謝る。
「うち、美容室をしているんだ! だからかな、人の髪を見る癖がついちゃって……。矢橋さん、艶がある黒髪をしているから、これは絶対に感想を伝えたいなーと思って。空気も読まずに声かけちゃった。ごめんね」
「いやいや、そんなことないよ! 顔、上げて! 髪……初めて褒められた。嬉しい。ありがとう」
「えー、本当? 私は猫っ毛だからさぁ。だから、矢橋さんみたいな髪の子がいたら目が離せないんだー」
ちらりと向ける視線に色気を感じた。
犬と猫の性格が混じったような、人目を惹く子だと思った。葉月さんは男子、女子どちらからも熱い人気を得られそうな魅力がある。不思議とグイグイ来るのに嫌じゃなかった。
「……葉月さんの髪の方こそ素敵だよ! ふわっとしてて、明るく朗らかな雰囲気があるもん」
「あはは。朗らかって。そうかなー」
「うん!」
褒められたのが嬉しくて、つい褒め返してしまった。事実だったけど、安易すぎただろうか。
「そういえば矢橋さんって、下の名前、真子奈って言うんだよね」
不意に呼ばれた下の名前に、冷たい衝撃が背筋に走る。何度繰り返しても慣れないから、どうしようもない。
「うん……」
「髪も素敵だけど、名前もかわいいよねー。私、明子って言うけど、別な名前が良かったって思うもんー」
葉月さんは気を遣って言っているようには思えなかった。本心からかわいいと思って言っているように聞こえた。
「……ありがとう」
不意打ちに褒められて嬉しかったけど、それ以上に、葉月さんの名前の悩みの方に興味が惹かれた。
「それは、どうして?」
「友達のお母さんと、一緒の名前だったりしてさぁ! 中学の時なんか、40代の担任の先生と漢字と読み方まで一緒だったんだから……」
おかしいでしょと、あははと笑う葉月さん。
場の雰囲気を和ませてくれて、とても初対面同士の会話とは思えなかった。コミュニケーション能力が高くて羨ましい。
……そっか、葉月さんも名前について悩むところがあったんだ。少し親近感が湧いた。
「それとさ、明子って、まさしく女の子の名前って感じがするじゃん?」
「うん。言われてみればそうかもしれないね」
「すべての『子』がつく名前の人を悪く言うわけじゃないんだけどさ。私は『子』が付く名前は嫌だったなぁ……。苗字も"葉月"で、さらに女子っぽさが出ているし……。あーあ、翼って名前が良かったなぁー」
葉月さんは私から目を逸らし、表情がくもる。何か思いつめた様子を感じて、私は相槌すら打てなくなる。どうしたんだろう……。
ハッとした葉月さんが「なんでもない! なんか、私ばかりグイグイ喋って本当にごめんね。矢橋さん話しやすくて……。ちょっと、トイレ行ってくるね!」と席を立った。
今は授業と授業の間の休み時間。残り時間が少ないけど、大丈夫かな?
すっきりしない気持ちだけが、心に残る。「翼って名前が良かった」って、一体どういうことだろう。
「だから、行かないって言ってるじゃん!」
急に、女の子の高い声が耳に入る。