生まれ持った才能に、羨望を
夢を見ているのかもしれない。
真っ黒な空間で歩きながら、そんなことを考える。
地面はある。そこを蹴ると、硬い感触は返ってくるからそうだろうと思うだけだが。しばらく歩いても、何も触れないのでミラと周りとの接点はそこだけだった。それ以外は何も感じられない。だから、視覚も聴覚も嗅覚も、全て失ってしまったのかが気になるところだった。
―でも不思議と、怖くはない。
そんなことを思ってしまって、ミラはふと足を止める。あの時は、あんなに暗闇が怖かったのに。そう、声に出さず呟いて、歩き出そうとして。
あれ、と首を捻った。
(あの時って......何のことだろう)
思い描けないのに、ふと考えるということは、本当にあったことなのだろうけれど、欠片も関連しそうな単語すら出てこない。
しばらくして、また歩き出す。
何かがおかしい。
自分はただの貴族の娘でしかない。だから、学校と屋敷の往復ばかりの生活で、恋愛小説といった娯楽だけは充実していたけれど―
(最近は、心の底から笑えてる気がするし............って、そうだったっけ)
また首を傾げて、必死に考える。
(何か、あったんじゃなかったっけ。大事な、何かがあって。私は......何のために、何を)
考えれば考えるほど、分からなくなって。段々と離れていくように感じられたそれが寂しくて、嫌で。必死に、懸命に手を伸ばしても届かないとしても、すがりついていたくて。
無意識に足を止めて、手を伸ばす。気まぐれで何歩か数えていたミラは心の片隅で思う。
三四五七歩。
―あぁ、素数だな。
どうしてそう思ったのかは分からないけれど、大事なことだった気がして、また考え込む。
どうして大事なんだろう、と。
すぐに答えは出た。―じゃないと成り立たないからだ。
どうして素数だとすぐに分かったんだろうか―きっと、馴染み深かったからだ。
どうして不思議に思ったんだろうか―きっと、何かを忘れているからだ。ここが夢の中だからだ。
そうに違いない。だって―
ミラがやっと答えに辿り着いて、ふっと微笑む。手を伸ばしたその方向が僅かに光に染まり始め、真っ黒だった世界が純白に塗り潰されていく。
―彼との関係を結びつけておいてくれるのは、魔術だけなのだから。
どうやら視覚はあったらしく、ついに白く染まった世界の中。ミラは海底から引き上げられるかのように、ゆっくりと覚醒していって―
*_*_*_*_*_*
セレナイト学園の医務室の設備は最高峰だ。昼間だけでなく夜間も<従事者>第四階位以上の医者が常駐する。長期休みであっても、学園内に生徒がいる限り医務室を訪ねれば、普通の手当てだけでなく病気などにも対応できる治癒魔術も習得した一流の医者の診察を受けられるのだ。
医務室は薬品や書類などが並べられた大部屋と、合計八ある個室に別れている。
カインは、その八ある個室のうち一つに用があって医務室を訪れていた。まず大部屋にいるであろう医者の元へ足を進める。今日は医者に別の仕事が入ったとかで、別の人間が入っているらしい。
少しだけ、その足取りは軽かった。
(やっと会えんのか......最近は婆ばっかだったし、久しぶりだな)
無意識の中で少しだけ口角を上げて扉を押す。中で何かを書類に記載していたのは、若い女性だった。
薄い鶯色の長髪は頭の後ろでカッチリとまとめられて、身につけた白衣は清潔感に溢れている。彼女はカインの姿をみとめると、青がかったセージの瞳を輝かせた。
「久しぶりね」
「最近は姉さんも俺も忙しかったしな」
勧められるがままに椅子に座って、カインは持ってきた菓子を渡す。箱の包みを開けて中を確認した彼女―胸元の札に記載された名を、アリス・アルベルト―顔を綻ばせた。
「あら、これクッキー?」
「好きだろ」
「今日の帰り、買いにいこうと思ってたの」
「そりゃ良かった」
アリスが箱を机に置く。
「学園はどう?」
「普通」
「試験とかは?」
「普段通り」
「昨日まで合宿だったかしら」
「ちょっと事件が起きた程度だ」
「それは良かったわ」
あくまで軽く報告して、カインが手元の入室記録に名前を書く。その時、アリスが纏う雰囲気を変えた。しっかり者の医者から、おっとりとした女性へ。一瞬で様変わりした雰囲気は、まるで別人のよう。
「............順調そうで何よりだなぁ」
「当たり前だろ、姉さん」
いつも通りの言葉にいつも通りの返事をしてカインは立ち上がった。
「じゃあ、行ってくる」
「えぇ、行ってらっしゃい............ねぇ」
片手を上げて部屋から出ていくカインを、雰囲気を元に戻したアリスが呼び止める。悪戯っぽく片目を閉じた。
「............何だ?」
振り返るカインに、彼女は小さく訊く。
「............その子、どういう関係?」
肩にかけていた鞄を落とす。ゴン、と硬い音がした。カインは慌てて鞄を拾って、動揺のまま歩き出す。
「..............................別に」
扉が閉まる直前に、部屋に残された言葉は小さく掠れていた。廊下に出たカインはアリスのクスクスとした笑い声を聞いて舌打ちする。第三診療室を見つけて、ノックの後反応がないことを確認して中に入った。
「......まだ寝てんのか」
呟いて、ベッドの隣の椅子に座る。
そのベッドに横たわっているのは、カインのクラスメイト。ミラ・バーバランという名の、赤が混ざったような黒髪の少女だ。
昨日、合宿の訓練の最後に倒れた。重度の魔力中毒だと診断されて、未だ眠ったまま。たとえ魔力筋が人並みよりも優れているとしても、初日から三日間、夜中の自主練も合わせて計三〇個以上もの魔石を消費したのだから倒れて当然である。
「凄ぇ奴だけどさ......やっぱ馬鹿だよな」
魔力筋の弛緩や副作用については気を使っているようだったのに、魔力中毒は想定していなかったのであろう。時折眉間に皺を寄せて何かを堪えるような表情をする彼女は痛ましい。
いつかみたいに揶揄っても、反応なんて返ってこなくて、カインは口を尖らせる。
「前みたいに不貞腐れないのか」
寝ているから当たり前だと、誰かにツッコまれた気がするが、勿論誰もいない。細く、長く息を吐く。
(流石に、死なないとは思うが)
ずっとミラは固く目を閉ざしたままだ。魔力中毒なのだから、倒れる直前も頭痛が酷かったに違いない。結界から出てきた時はフラフラだったのだ。会話をしている間は元気そうだったから、誘ったのに。
カインは倒れるまで気付けなかった己の不甲斐なさにため息をつく。
「..................」
巷の小説では、こういうとき手を握るらしい。口づけしようとしたところでヒロインが目を覚ますものもあるようだったが、流石にハードルが高かった。そっとミラの手へ自分のそれを伸ばす。
「............っ、」
生きているのだから当たり前だが、その手は温かかった。カインのそれより明らかに小さくて、細い。痛くないようにと、優しく握っているとつい思い出してしまう。
―一昨日、目を瞑り無防備な彼女と手を繋いだことを。
ブンブンと頭を振って頭から追い出そうとするのに、中々忘れられない。ダンジョンの中ではずっと隣を意識してしまっていた。それこそ、気にしすぎて魔物の接近にギリギリまで気付けなかったほどだ。
(............もうやめよう。こんなんで起きるか、普通)
手を離して、引っ込めようとしたところで―
「―っ?!」
―その手は、突然動いたミラの右手に捕まる。
数瞬後、何度か開閉しながらも目を開いたミラはその瞳にカインを映す。にへら、と気の抜けた笑顔が浮かぶ。
「......カインくん」
思わず目を逸らす。言葉をかけようとしてやっぱり飲み込んで、何を言うべきか分からなかったからおはよう、と言うと頷かれた。ミラはしばらくどうしてこの部屋にいるのか、今はいつだろう、などと考えていそうな顔で訊ねてくる。
「ねぇ、今って合宿のすぐ後かな?」
「..................いや、次の日の午後だ」
「......え、私、そんなに寝ていたの」
だから学校の医務室に、と納得したように呟いて、彼女は次の疑問の解消に移る。
―カインの手を握ったまま。
カインは混乱していた。心の中で問いを繰り返しながら、ミラの質問に反射的に口が動く。
(な、んで今手を握られているのか分からないんだが......それは俺が触ったのが悪いのか。それなら何でまだ離されないんだ?............まぁ、別に問題は............いや、あるだろ!!駄目だろ、これ!!ダンジョンのも色々おかしいから今更だけどおかしいよなぁっ!!こいつ令嬢なんだよなっ?!こういうの婚前の令嬢がしたら駄目な立場だよなぁっ?!)
ただ、ダラダラと背中に汗を流す。窓の外で空を翔る小鳥が酷く恨めしかった。こっちは、こんなに焦っているのに、と心の中で悪態をつく。
「あの後って―」
その問いを自由な左手で遮る。
「..................その」
「どうしたの?」
実に不思議そうに、ミラは首を傾げる。
また、カインは内心悪態をついた。こっちは大変なのに、ミラは普段通りなのだ。いつもと同じ表情で、声色で、口調なのだ。
恋愛の匂いを嗅ぎ付ければ犬が尻尾をブンブンと振るかのように突っ込み、微かな片想いでも見逃さない。その割に褒められることにも揶揄われることにも耐性がない。
―なんて歪なんだろうと、カインは思う。
だから、カインは口を開く。
思いとは裏腹に、やはり口は重い。それでも、躊躇いと気恥ずかしさを無理矢理放り投げる。そして、無茶を責めようとして―やっぱり耐えきれなくて。
「え、カインくん?どうし―」
カインはすっかり熱くなってしまった額を左手で押さえて、きっと赤いであろう顔を隠す。そして口を開き、言葉を発する。
それはもう、全力投球で。
「......手、離してくれ」
「........................手?............えええぇぇっ?!」
誘導されるがまま手元に視線を落としたミラは一瞬でカインよりも真っ赤になる。額からは湯気でも噴き出しそうで、動揺なんて言葉では表せない有様だ。
まさかここまでとは思っていなかったカインはもうミラの姿を見られない。恥ずかしいどころではない。
「......わ、わわわわわっ、私っ、べ、別にっ、そういう、ことじゃっ、ほんとにっ、―ぁ、ごめっ」
グルグルと混乱に目を回して、ミラは呂律の回らない舌で謝罪する。バッと手を離して、ベッドの反対側まで転がった。彼女はシーツを頭から被って隠れる。
「いや別に、嫌だったわけじゃ......と、違う」
勢いのまま言おうとして踏みとどまり、カインは解放された右腕で拳を作る。深く呼吸して、どうにかなけなしの落ち着きを取り戻す。
「............先生、心配してたぞ」
「..................え?」
シーツから顔が覗く。カインは無意識に目を逸らそうとして、やめる。真正面からミラを見据えて、口を開く。
「訓練所のとこの新しい監督官も、王都外れにある屋敷にいる父親も、お前の大事な師匠も、二人の出会ったばっかの先輩も、フィンレストも、フランツェルも、あの性悪女も」
「............っ、」
「俺だって含めて......全員が心配してたんだ。重度の魔力中毒なんて死ぬ確率が回復する可能性と同じくらい高い。一歩間違えば、死ぬとこだったんだよ、お前は」
流石に、昨日は一睡も出来ていないとは言えないけれど。カインは出来るだけ真っ直ぐに、伝えたい。
待っている人が―ミラがいなくなると哀しむ人がいることを。
「先生は責任を感じてた......あの先生がだ。あの氷みたいな監督官も仕事が進まないみたいだったし、お前の父親と師匠はわざわざ仕事中断してまで会いに来てた。先輩たちだって時間縫ってここまで足を運んでくれていた。フランツェルなんて授業に集中出来なくなって、フィンレストが怒ってて。性悪でさえ顔を出した」
「......そんなの」
どこか暗い目で、虚空を見つめるミラは辛そうで、どこか諦めているようだった。だからこそ、カインは言ってやりたい。どうしてこんな不器用になってしまったのかは知らないからこそ、言わなければならない。
「いい加減理解しろ――お前は、自分で思うよりずっとたくさんの人に想われてる」
ミラは、静かなまま。
一秒が、一時間に。一〇秒が、一日に。時間が過ぎるのがカインには遅く感じられて、それでも、目だけは逸らさずに反応を待つ。
ミラがポツリと呟く。
「............私、成果をあげないとってずっと思ってたの」
「あぁ」
「私なんかに、期待してくれてる人を裏切りたくなかった。難しいことでも、その人が無理だろうって思っていても、成果をあげなきゃいけない。失望されたくないなら、壊れてでも頑張らないとって」
「あぁ」
「だって、誰にも期待したことがなかったから。......最後のそれは取り返しがつかないぐらいに壊れてしまったから」
「あぁ」
「ずっとずっとずっとずっと、失望されるのが怖かった。どうしても叶えられない期待を背負ってしまったら、どうしようって思うと休憩なんてしていられなかった」
「あぁ」
「走り出したら、止まれなくて......こんなに遠いところまで来て、すごく苦しくて............なのにまだ、足りなかった」
カインは口を挟まずに、相槌だけを打つ。もう彼女の中で答えは出ているのだと、何となく感じたから。
「どんなに努力しても、頑張っても、虚無感だけは取り消せなかった。どうしてこんなに、何もかも届かないんだろう、って......足掻いても足掻いても、失望させてしまって、最後には一人になっちゃうんだろうなって心のどこかで思ってた」
「あぁ」
でも、とミラはいつの間にか浮かんでいた涙を拭う。泣いているのに、笑っていて。それでも、その顔にもう、苦しさはない。
「違った。今なら、失望していなくなってしまうなんて思えない.....思っちゃ、いけない」
嗚咽を堪えるように、彼女は一度言葉を止める。
「だから、これからは―何も壊れないように、壊されないように、守っていきたい。上手く言えないけど、つまりは」
そこでやっと、気恥ずかしそうに微笑む。
「私が一番、私のことを大切にする。もう、『どっちでもいい』なんて思わせない」
その一〇〇点満点の笑顔に、カインが思わず見惚れてしまったのは不可抗力だろう。ミラがこちらに、手を差し出す。
「............また今度、対戦しようね?―ほら、流れちゃったから」
「もしかしたら、次は魔法戦の結界無しだったりするかもな」
「それはないと思うけど......」
「俺の勘は良くも悪くも当たるんだ」
ミラの手を取って、もういつも通りの軽口を叩き合う関係に戻る。少しカインが自棄になるとミラはクスクス笑って、釣られてカインも口角を上げる。
(こういう関係だって悪くないだろ、姉さん)
密かに、心の内で胸を張りながら。
すみません、普段と比べとんでもなく長くなってしまいました。




