実録昼行燈
地下鉄の大手町は、千代田線、丸の内線など、様々な路線が接続しており、しかも各線の駅が互いに離れているため、連絡通路が長い。通路の中間には、飲食店を中心とする商店街が発達し、地下鉄利用客の需要を賄っている。
その商店街の中に、『バリツ』という名前の軽食喫茶がある。重厚な雰囲気の外装で、内部の様子が見えにくく、一見客を遠ざけている。常連客には警察関係者が多い。秘密めかした雰囲気と、名前が関係しているかも知れない。
店内へ入る。19世紀ヴィクトリア朝で統一された室内装飾の間を、穏やかなクラシックの調べが漂う。壁際の本棚には、『シャーロック・ホームズ全集(東京書籍)』や、エラリー・クィーン編の『シャーロック・ホームズの災難』などのホームズ物がぎっしりと並べられている。カウンターとボックスで20席程度。客席同士の間に余裕を持たせている。
オーナーは元警察官僚である。マスターの経歴は知られていないが、当然採用前に十分な身元調査を行われたと思われている。
村上主税警部補も、この店の常連であった。彼は婿養子の身で、お約束通り妻の尻に敷かれており、勤務帰りに、しばしばここへ立ち寄る。
主税は店のドアをくぐると、控え目なマスターの挨拶に軽く頷き、真っ直ぐに本棚へ歩み寄ってジューン・トムスンの『ホームズの秘密ファイル』を取りだし、4つしかないカウンター席に付く。
背広を脱いで隣の椅子に置いたところで、マスターが声をかける。
「ご注文は」
「レモンティー、ホットで」
メニューも見ずに答え、本を開いて読みふける。主税がカウンターを選ぶのは、そこが一番明るいからである。それともう一つ、彼には密かな楽しみがあった。
「最近、お見えになりませんでしたね」
ぼそっとマスターが呟く。店内には主税しかいない。
「忙しくてね。ほら、土地持ちの老人夫婦が殺された事件があったろう?あれが迷宮入りになりそうなんだ」
主税は本にしおりを挟み、紅茶に口をつける。マスターは皿など拭きながら、質問する。
「ひどく早い結論ですね? 心中だったのでしょうか」
「お偉方が絡んでいるらしい……ここだけの話だが」
などと言いつつも、主税は嬉々としている。マスターは、グラスを磨きつつ黙って先を促す。
「老夫婦は土地の他に株券やら通帳やらを持っていたらしいのだが、殺された翌日に、全部処分されていた。さすがに土地は手をつけられなかったが。処分業者をいもづる式に辿っていったら、これがどんぴしゃり」
主税が紅茶を飲み干すと、すぐにポットからお代わりが注がれた。ブランデーが一滴落される。
「誰だと思う?」
レモンスライスをカップに浮べようとしているマスターに、主税は微笑みかける。マスターは困ったように、薄い笑いを返す。
「OBの息子だったんだよ。ほら、警備員派遣会社社長の一人息子」
主税はブランデーの仄かな香りを楽しみながら、喋り続ける。
「これが本当にどら息子で、親父の羽振りがいいことを頼みにして、遊んでばかりいるんだ。聞き込みしてる途中で、偶々近所に住んでいることがわかってね。警備員派遣の売り込みをしてた、というのだから、もう灰色。
「でも物証がない。現場から、そいつの指紋も出たけど、派遣の相談で上がっていた、と言われたら、それまでだし……。何だか親の方から圧力がかかったみたいなんだよね。やっぱり、退職後の生活の保障は大切だからね」
「いらっしゃいませ」
他の客が入って来たのを見て、主税は口をつぐんだ。これも常連ではあるが、ほかの多くの常連と違い、自由業風の恰好をしている。大手町のようなところにあって、こうした身なりは、なかなかに目立つ。
しかし不思議なことに、この店の中では、彼は自然に周囲と溶け合っており、常連の警察官にも見咎められずにすんでいるのであった。
自由業風の男は、隅のボックス席に座り、ロシアンティーを注文すると、早速本棚からエラリー・クィーン編のホームズ物を取り出して、読み耽り始めた。
主税は紅茶を飲み終わって、立ち上がった。
「ありがとうございました」
控え目なマスターの声に送られ、主税が店を出て行く。と、自由業風の男は本を持って、カウンターへ移動した。マスターが水を添えてロシアンティーを出す。
「村上主税は、また迷宮入りの話を漏らしたのか」
「はあ。幹部絡みのやつを」
「仕方ない奴だ」
「どうしますか、オーナー?」
マスターが男に問い掛ける。男、オーナーはロシアンティーをスプーンで掻き混ぜ、返事をしない。マスターは黙って返事を待つ。
「確証が欲しい。洗ってみてくれ」
「はい」
オーナーはロシアンティーを一気に飲み干し、代金をきっちり置いて店を出る。
「ん。何だ、お前?」
金庫を開け放し売上げを数えている男。不審な目付きで、来訪者を眺める。
「あっ」
次の瞬間、男は死んでいる。来訪者は、音も立てずに立ち去る。
村上主税は、『バリツ』のドアをくぐった。マスターが控え目に、
「いらっしゃいませ」
と声をかける。主税はいつものようにカウンターに座り、レモンティーを注文した。主税は喪服を着ていた。
学生らしいカップルが店を出た。店内はマスターと主税の二人きりである。
「今日は告別式に行ってきた」
マスターはレモンティーを供した後、銀のフォークを磨く。
「ほら、3年位前だったかな。土地持ちの老夫婦が殺されて、迷宮入りになっていただろう。あれの犯人と思われていた男が、殺されたんだ」
「ほう」
マスターはフォークを磨き終え、レモンティーのお代わりを注いだ。続いて、銀のナイフを磨き始める。
「老夫婦の遺族かな、とも思ったが、今のところ、通り魔的犯行という線が強いな。それにしても、因果応報だよなあ。天網恢恢疎にして漏らさず、だな」
でも上から徹底捜査指令が出ているんだよなあ、とぼやきながら、主税は店を後にした。