DOPE
槐の後ろを千鳥足でついて歩く。
俺たちが陣中しているこの基地は、三棟からなる元病院だ。
西館は兵舎に当てられ、そこに隊員は各々の部屋を割り振られている。
食堂は北館にある。全体での集会を行う際、そして小隊ごとに作戦会議を行う際にも、北館を利用している。槐の執務室も北館にある。
この病院は立地がとても悪い。
街からも離れ、海からも遠く、山を切り開いて、辺鄙なところに建てられている。
それなのに全盛期には、多数の来院患者と、入院患者を抱えていた。
街にももちろん病院はあるのに、わざわざこの病院へが患者たちに選ばれていたのは、ここが精神病院だったからだ。患者たちが叫んでも、近隣の迷惑にならないし、例え逃げ出したとしても、人里には辿り着けない。
槐は隊員たちを好きにさせていたが、『東館』にだけは、絶対に立ち入らせなかった。興味を持つことすら禁止されていた。
病院は三棟から成ると先ほど言ったが、東館は離れとでも言ったらいいのか、北館・西館から少し遠い場所にあった。
東館は他の二棟に比べ、外観に手がかけられていない。まるで倉庫のような装いだ。
しかし近くへ寄って見上げてみると——扉のひとつひとつも、窓も、重厚に作られている。
エントランスの扉は一段と分厚く、備え付けの鍵に加えて、南京錠がいくつもくくりつけられていた。
槐は胸元から鍵の束を取り出すと、それをひとつ、ひとつ、外した。
「…………」
北館からけっこう歩いたせいか、風にふかれたせいか…酔いはほとんど冷めてしまっていた。
ここに辿り着くまでの間、槐は何も話さなかった。ここがなんなのかも、これから何が起きるのかも。
不穏なものを感じている間に槐は全ての鍵を外した。槐がドアノブを引くと、扉は、ず…ん…と、重苦しい音で開いた。
中は薄暗く、寒々しい。さっさと東館へ上がり込む槐の背中を俺は慌てて追いかけた。
***
槐の背を追って、長いリノリウムの廊下を抜ける。その廊下の左右には、病室がいくつも連なっていた。病室の入り口は壁一面が格子状になっていて、中の様子がはっきりと伺える。それは牢屋かケージを思わせた。
俺は立ち止まって、試しに病室の一つを覗いてみた。すると——壁には何かで引っ掻いた様な黒い筋が幾重にも残り、コンクリートが剥き出しの床には、薄汚れた便座がぽつん、と転がっていた。部屋の隅までは光が差し込まず、そこが闇になっていて、何か、気配のようなものが、残っている様に感じられた。
背筋を冷たいものが走って、俺は注視するのをやめた。
廊下の端まで行き着くと、そこには階段があった。槐は相変わらず言葉もなく、躊躇なく階段を降りていく。
何かの予感を感じるが、それがいい予感なのか…悪い予感なのか…わからない。
俺は覚悟を決めると、階段をこわごわと降り始めた。
結構長い間、階段を降っていたように思う。こんな地下に幽閉されていたのは、よほど隔離せねばならないような患者だったのだろう。
階段の先には一枚の扉があり、それにも厳重に鍵が取り付けられていた。扉自体も金庫の扉の様に分厚い。槐がまた鍵の束を取り出して、ひとつずつ解錠する。
ガチン! と固い音を立てて錠が外れると、槐は力を込めてドアノブを引いた。すると——扉でふたをされていた濃厚な血と、汗の匂いが、堰を切ったように溢れ出した。
かがみ込んで何かをしていた男が、弾かれた様に顔を上げる。そいつはまず槐を見て——それから俺を見て、驚愕に眼を見開いた。
それからまた槐を見て、『良いのですか?』と唇だけで訊ねた。
「いい。それより成果を報告しなさい」
「………はい」
マキナは身体を起こすと、再び俺と槐をかわるがわる見比べた。そりゃそうだよな。ついさっき、『槐とは何もない』と言い切っておいて、二人連れ立って現れたら、俺だって『なんだこいつ』と不信に思う。
それにこんな——ものがたりの『青髭公』めいた秘密の部屋に、槐が俺を伴うなどと想像だにしていなかったのだろう。
「……それなりには聞き出せました」
そう呟いて、マキナは足元のかたまりを蹴る。
マキナは軍服を着ておらず、肉屋が着るような撥水性の前掛けをして、長手袋をはめていた。軍帽も被っておらず、きっちり整えられていた髪は崩れ、額に汗で貼り付いている。その至る所に血しぶきが飛んで、薄闇の中、ぬらぬらと光っていた。
マキナはゴム手袋を外すと、頬の血を手の甲で拭った。
「——連合軍は、週明けから大隊規模の戦力を投入。まずは肩慣らし、お手並み拝見、と」
「ほお」
「その後、場合によっては一個師団以上の投入も検討」
「………いいじゃないか、こちらは大隊、あちらは一個師団。多少のハンデを与えてやらんと、あちらさんに悪いからなあ、ええ?」
槐がくつくつと喉を鳴らし、マキナもうっとりと頷いた。
しかし俺はと言えば状況に取り残され、槐の顔をじっと見つめる。
槐は俺の視線に気付くと、「ああ」と破顔した。
「この前皇に…2人? 3人?」
「4人です、少佐」
「4人だったか。この前4人、捕まえてきてもらったんだ。待機、待機じゃ息も詰まるし、あちら側の出方も気になったことだし。
皇はな、狩りの才能がある。図体はでかいが顔は良いし、口もうまいからコロッと騙されてしまうんだろうな。それで……あさりの砂抜きしたことあるか?」
「は?」
「ないか? 料理なんかしないか、ユーゴは。あさりはな、食う前に塩水につけておいて、中の砂を取るんだが……」
話が全然読めなくて、俺は全く口をはさめない。マキナの方も槐の出方を伺って静かに黙っていた。
槐は歌いだしそうなほど上機嫌にあさりの話を続ける。
「まああさりじゃなくてもいい。何か凝った料理をしようかな、という時は、ちゃんと下処理をするだろう?」
「それは、なんとなくわかる」
「わかるか? そう、俺はだな、一週間くらいほおっておくんだ」
「……は? それじゃあ腐って、料理どころじゃなくなるだろ」
「——ああ。料理の話はもう終わったんだ。今度は捕虜の話だ。俺はだな。捕まえたやつを、一週間くらいほおっておくんだ。ここに」
「……は?」
意味が、わからない。
助け舟を求めてマキナの方を見やったが、静かに首を振るだけだった。マキナは血にまみれた髪を、鬱陶しそうにかきあげた。
槐は俺へにっこりと笑いかけ、「あさりと一緒なんだ」と頷いた。
「えさも、日光も何もやらずに、このくらやみに浸けておくんだ。そうすると——貝が口を開けるみたいに色々と話してくれる。それでも時々、しぶといやつもいるから、仕上げをマキナに頼んだんだ。拷問が得意だからな、マキナは」
「はい」
マキナは小さく頷き、褒められた子供の様にうれしげに顔をほころばせる。
「もう全部死んでいるのか?」
槐は足元の【あさり】へと顎をしゃくると、マキナは「いいえ」と首を振った。
「まだどれも生きていますよ」
マキナは涼し気に答えると、かたまりを仰向けに転がした。まるで真っ赤な芋虫のようだ。確かにまだ息はしていて、なにごとかうわごとを囁いている。
——これでもまた生きているのか、と俺はぞっとした。
爪を剥がれ、鼻を削がれ、目をくり抜かれ——あるものは生皮まで剥がれて、まるで蝶の標本のように、床にピンで留められている。
引きずり出された腸で、壁にはつられているものもいる。
中国の人豚よろしく、手足をもがれているものも。
マキナがかがみ込んでいた一体はまだ作業の途中だったらしく、損壊の程度が低い。
「へえ」と槐は目を輝かせ、「あいかわらず見事なものだ」と芋虫たちをしげしげ眺める。
「ありがとうございます」
マキナは誇らしげに胸を張り、噛み締めるように呟いていた。
「さて」
槐はやがて見学を終えると、今度は室内を物色し始めた。まるでウインドウショッピングでもするような様子で、いろいろな得物を手に取ってはまた戻す。
槐は最後には、壁に立てかけられていたぼろぼろの鉈を手に取った。持ち手の部分は木が腐って変色しており、刃には赤茶の錆が浮いている。もはや刃物とは言えず、どちらかと言えば鈍器に近い。
槐はその鉈を持ち上げると、使い勝手を試す様に振り回した。鈍く重い風切り音が地下室に響く。
「ふむ」
槐は手を止め、鉈をしげしげと眺める。
「まあ、これでいいか」
どうやらそれで妥協することに決めたらしい。そしてそれを手に芋虫へ大股で歩み寄った。
そして槐は、
「——ッ!」
鉈を高く掲げ——振り下ろした。
切れない鉈はほとんど肉へ沈まず、苦悶の声を挙げさせただけだった。槐は二度、三度と、何度も鉈を振り下ろす。
俺たちはそのさまをただただじっと見つめていた。狭い室内に悲鳴と槐の笑い声が反響する。
……飛び散る血に、臭いに、胸がざわめくのを感じる。日頃無表情が張り付いているマキナも、頬を紅潮させていた。
——戦争が始まる。
その実感がじわじわと押し寄せて、体が熱くなり血が沸いた。
***
槐が出て行った後、部屋には見るも無残な捕虜たちのなきがらと、俺とマキナが残されていた。
情報を搾り取った捕虜はもはや不要と槐に処理され、刻まれてずた袋の中。俺もそれを手伝ったため、全身に絞れるほどの返り血を浴びていた。さて、このままじゃ帰れないな。
「上の階にシャワーがある」
俺の心を読んだのか、マキナは背を向けたまま言った。手元を覗き込むと、道具を布で拭いている。
「着替えもそこにある。俺のだから、サイズが合うかわからないが。しっかり汚れと臭いを落とせ。まだ誰にも気取られるな」
「わかった。マキナは?」
「片づけてから帰る」
「何か手伝うか?」
「結構だ」
「………」
マキナはにべもなく断り、こちらを振り向こうとすらしない。『俺に興味がある』なら。もう少し歩み寄ってもよいのではないかと思うが。
俺の耳にはまだ——『戦争だ』と笑う槐の言葉が張り付いていた。
戦争。
その言葉を反芻すると、胸がどきどきした。
それがもう、目前に迫っていることは、まだ俺と槐と……マキナしか知らない。
「…なあ」
声をかけてみるがマキナは振り向かない。
「おーい」
何度声をかけてもマキナは返事をしない。俺はいい加減痺れを切らすと、後ろから近づいて乱暴に手を掴む。
マキナは弾かれた様に振り返った。ばち、と視線が合うと、俺は、何が言いたかったのか忘れてしまった。
マキナの肌から噎せ返りそうなほど濃い血の香りがして、脳が痺れる。……くらくらする。
気が付くと、どちらからともなく唇を重ねていた。
「ん…」
マキナの手が逃がすまいとでもするように、後頭部を掴んでいる。舌を絡められ、時折吸われると、腰が砕けてもう立っていられなかった。
長いキスに快感のせいか、酸欠のせいか頭がぼうっとし始めた頃、マキナは唐突に顔を放した。濡れた顎を手で拭い、
「……酒臭い。おまけに煙草臭い」
と顔を顰める。
マキナはこの後どうするかためらっているようだった。今ならまだ『間違いだった』と水に流せる。けど俺は引き下がる気はなかった。血にも、肉にも飢えていた。
俺はマキナにとびつくとその頬を両手で包み込んだ。マキナの瞳に、動揺があきらかに映る。しかしそれもつかぬ間。マキナは苦い顔で再び唇を寄せた。
分厚い扉の防音室は、音がとても良く響いた。
舌を絡める水音に、耳まで犯されている感じがする。キスの合間にマキナの目を見つめると、まるで泣き出しそうなくらい蕩けていた。俺も同じ目をしているのかもしれない。そう思うと少し恥ずかしい…
「…ん…っ!?」
急にシャツの中に手を入れられて、驚いて飛び上がった。マキナの手は、まるで作り物のように温度がなく、腰を撫でられると、つい声が漏れてしまう。
「あ、あっ、あ…」
快感と冷たさで肌が泡立って、余計敏感になって、もう立っているのも辛かった。ずっと……お預けを食らっていたものだから、もうそれも、痛いくらいに張り詰めている。
もう触りたくて、触って欲しくて、俺はマキナに縋り付くと、腰を擦り付けた。
しかしマキナはすぐにそう、するつもりはないらしく、俺の背骨を下から上に、一個一個、数えるように撫でている。
もどかしくて、切なくてもう泣きそうだ。
だが、やられっぱなしになっている俺ではない。
「……!」
俺はマキナの肩に手を置くと、力をこめて思い切り突き飛ばした。
いきなりのことにマキナは驚いた顔で、壁に背を打ち付けて倒れる。なかなかに痛かったのか、マキナは痛みと苛立ちで顔を顰めた。
「おい…」
マキナが俺を睨みつけながら、低い声で呟く。いつも冷めた顔をしているマキナに、こんな顔をさせる日が来るなんて考えても見なかった。
——マキナを見下ろすのは、快感だった。
身長にしても、強さにしても、到底及ばない完全無欠なこの男を、組み敷くという快感。俺はマキナに馬乗りになると、マキナの目を真っ直ぐに見下ろした。誰がこれまでに長い間、マキナと見つめ合ったことがあるだろう。
マキナが目を逸らさないから、俺も目を逸らさない。
…………獣の様な交合を終えて、二人言葉もなく見つめ合う。
マキナの瞳にはもう、最中の様な熱は残っていなかった。それでも俺を、真っ直ぐに見つめてくれていた。
俺にとってもマキナはもう、ただの他人ではなくなってしまった。
先ほどの、肉の熱さが名残惜しく、俺はしばらくの間——マキナの胸に顔を埋めていた。
***
「……槐」
「おかえり。楽しめたか?」
「…………」
東館から外へ出た後、俺が真っ先に向かったのはもちろん槐の執務室だった。
槐は東館へ向かう前と変わらぬ姿で、グラスを片手に高い煙草をくゆらせていた。
テーブルの上には、俺が使っていたグラスもまだ置いてある。
あまりにも同じ光景で、東館での出来事は、執務室で寝こけて見た夢だったんじゃないかと思えてくる。
アリスの冒険が、姉の膝で見た夢だったように。俺はかなり酩酊していたし、うたた寝こいててもおかしくはない。
だか——……やはり現実に起きたことのようだ。何故なら服が変わっているし、靴には血が飛んでいる。
まだぼんやりとしている俺を、槐はソファへいざなった。
「立ち話もなんだ。座ったらどうだ?」
「…………」
「まあ座れ。もうちょっと付き合え」
「……わかった」
愛想良く促され、俺はぎくしゃくと腰を下ろした。まだ夢見心地のせいで、一戦交えたせいで、東館から歩いたせいで、体がだるい。
槐は俺のグラスを取ると、琥珀色の液体を注ぐ。
「まあ飲め」
「…………」
俺はグラスを受け取ると、高い酒をぐいと煽った。きついアルコールがかっと喉を焼く。空になったグラスを置くと、
「良い飲みっぷりだなあ」
そう言って槐は目尻を下げて笑った。そして再び酒を注ぐ。
俺はそれに口をつけながら、
「何だったんだ…? さっきのは…?」
ぽつりと疑問を投げかけた。
「さっきのは何だったんだ? 何で俺を連れて行った?」
「そういえば、ちゃんと説明していなかったな。さて、何から話そうか………
東館は元々、重篤な症状の患者を隔離する施設だったんだ。それは行ってみて感じただろう?」
「ああ」
そう言われて頭の中に、厳重に施錠された分厚い扉と、病室の有り様が蘇った。病院と言うよりも——牢獄、という言葉がふさわしいような場所だった。
うんうん、と槐は頷く。
「外から入り辛く、中からも出辛い。隠し事をするにはもってこいの場所だろう?
俺たちは東館を利用して——時々あのようなことを、やっていたわけだ。本当に『待機』なんかしてたら、勝てる戦も勝てないからな。だから俺は、あちらの出方を探るために、皇に攫ってこさせマキナに訊かせる。そして俺が情報を利用する。何かおかしいか?」
「おかしくない……と思う」
「だろう?」
槐の考えには一理あると思う。俺の返答に、槐は満足そうに頷いた。
国から『待機』を命じられてしまえば、表立って動くことができない。しかし馬鹿真面目に命令を守り、のんびりしてたら攻め込まれた時に対応できず、総崩れになる。
そんな事態を回避するために、槐が秘密裏に情報を探る——非常に合理的な行動だ、と思う。倫理的に正しいかどうか怪しいが。
「それから——なぜお前を連れて行ったか、だが。お前のためだ。お前、いい加減退屈していただろう? 見ていたらわかるよ」
「は?」
俺のため? 急に引き合いに出されて動揺する。槐は親が子を見るような慈しみの視線を送ると、優しげに囁いた。
「いい加減、飢えていただろう? そんなお前を見ているのが忍びなくってな。だから連れて行ったんだ。多少は満たされたか?」
「…………」
呆気に取られて、俺は何も答えられなかった。
確かに、退屈はしていた。血肉に、刺激に飢えていた。……地下室での出来事を思い出すと、頬が緩んでしまいそうになる。まだ身体の中には熱も残っていた。俺は奥歯を噛み締めて、努めて平静を装った。
沈黙を肯定と受け取った槐が、満足げに頷いた。
「お前を思ってしたんだと、わかってくれるだろう? 退屈しているのはお前だけじゃないだろうが、多少息子を贔屓したっていいだろう?」
「……俺はあんたの息子じゃない」
「そうだな。血の繋がりはない。でもお前を息子の様に、弟の様に、家族の様に思っている。俺はいつだって、お前を想っているんだよ」
「……それは、なんとなくわかる」
槐は好々爺のようにいつも俺を甘やかし、何かにつけて世話を焼こうとする。照れ臭くてぶっきらぼうに呟くと、槐はにんまりと笑い、首を振った。
「いいや、それでも足りないな。俺はお前が思う以上に、お前のことを想っているよ。
そうでもなければ——始めから、お前を選んでいない。
俺がお前にすることは全部、お前のためなんだ。害しようなんて気持ちは、さらさらないんだぞ」
「…………」
「わかってくれるだろう?」
あくまで俺を尊重する、槐の様子に毒気を抜かれる。
確かに、気は紛れた。来週——と言うことも知って、希望も持てた。
「……ん」
グラスを差し出すと、槐はご機嫌に酒を注いでくれた。
「そういえば」
「ん?」
とりとめのない話をしながら、だらだらと酒を飲む。いつのまにかもう深い時間になっていた。麻雀に呼ばれたクロエは多分、明け方まで帰ってこないだろうし。
俺は再びへべれけなのだが、槐は顔色ひとつ変わらない。
槐は身を乗り出すとにやりと笑い、誰もいないのに声を顰めた。
「……マキナとは仲良くなれたのか?」
「……は?」
不意の発言に、頭の中の霞が晴れる。
酒の味がしなくなり、さっきまで何を話していたのかすら、分からなくなってしまった。
俺の動揺を知ってか知らずか、槐はにこにこと笑っている。
「二人で話した方が、円滑になるだろうかと思ってな。お前を連れて行ったのは、そういう理由もあるんだ」
「は——⁉︎ 槐、お前…!」
「これでもう、マキナは下らない噂など信じないだろうよ」
「…………」
——やられた。
俺とマキナがそうなるのも、織り込み済みだったというのか。だから俺とマキナを二人残し、自分は先に帰ったのか。俺たちがしたことは全部、槐の掌の上だったというのか?
驚愕と恥辱で目の前が真っ赤に染まる。
「お前——! 人を何だと…!」
「一石二鳥だっただろう? 気も紛れたし誤解も解けた。一件落着、じゃないか」
「…………」
そうだ、軍師としての穂積槐は、驚くほど合理的な男だった。前の戦争では、作戦中に、槐は指揮官を殺害している。彼曰く、「そいつが無能だったから」だ。そして自分が指揮官へ成り代わり、結果戦争を勝利へと導いた。その褒賞として槐は中佐へ推薦されたが、それを蹴ってここにいる。俺のそばにいたいがために。
…………頭がおかしい。槐には悪気がないのが、余計に気味悪く思った。
「もう行くのか? もっとゆっくりしていけばいいのに」
「…………」
槐の言葉に何も答えず、俺は扉へ手をかける。
「どうしてそんなに怒っているんだ? お前を想ってしたんじゃないか」
声が背中を追いかけてくるが、俺は振り切って外へ出た。もう少しの間も、槐の側にいたくなかった。
お節介にしてはさすがに度が過ぎている。ありがた迷惑を通り越して不愉快だった。
俺はお前の【息子】でも【弟】でもない。
——あの時。
勝手にお前が俺を選んだんだ。選んでくれなんて、頼んだ覚えは一切ない。だから弟扱いして、いらぬ世話を焼くんじゃない。
そう言ってやりたかった。
***
もう、一刻も早く部屋に帰りたかった。今日はいろんなことがありすぎて、精神が参っていた。早くベッドに転がり込んで、泥の様に眠りたい。さまざまな不安の種を、一時でいいから忘れたい。
「よう。ユーゴ」
「…………」
無視して通り過ぎようとしたが、許してくれるはずもない。
「おい」と腕を掴まれて、俺は渋々足を停めた。
もうほっておいてほしい。それか明日にしてほしい。そう泣き付きたいくらいの気分だった。
「……アカル」
全く、今日は何なんだ?
厄介ごとのバーゲンセールか?
嫌々目を合わせると、そいつは長い前髪の向こうで、軽薄な笑みを浮かべた。
「よう。東館に行っていたな?」
「……マキナか槐に聞いたのか?」
「いや、屋上から見てたのサ。俺は目も良いからな」
そう言われて頭の中に、フェンスの上で風に吹かれていたアカルの姿が浮かんだ。アカルは俺たちと交代した後、ずっとそこにいたようだ。
「だから何?」
一刻も早く話を切り上げたくて、つい交戦的な物言いをしてしまう。不愉快にさせるかと思ったが、むしろアカルは嬉しそうだった。
アカルは遥か頭上から、ぎらぎらとした目で俺を見ていた。俺も背が低くはないが、アカルと比べたらかなり小さい。アカルは三日月の形にした唇から、長い犬歯を覗かせて笑う。
「楽しみだなァ、来週」
「……ああ。お前も聞いたのか」
「さっきマキナから、な。二人でなにをしてたのかは、聞いてないけど」
「…………」
「ああ、言わなくていいぜ。お前もあいつもよぉ、顔に出るから。聞かなくてもわかる」
「顔に出る? マキナが?」
俺の知っているマキナは、いつも静かな湖の様な無表情を湛えている。今日、そのイメージが一部覆されはしたが。しかし感情を早々あらわにするような男だとは思えなかった。
俺の疑問を感じ取ったらしい。アカルはおもちゃを自慢する、子供のような笑みを浮かべた。
「俺たちは付き合いが長いからなあ。俺が【ここ】に来た時からの付き合いだ。あんまり一緒にはいねえけどよお。俺がいると気が散るって言うから」
「……そうか」
「別にお前が想像するような付き合いじゃねえぞ? そんな目で見れねえよ。あいつを」
「……。で、何の用?」
そろそろ話を切り上げたくて、俺は核心に迫った。
わざわざこんな話をするために、俺を呼び止めたのか? 世間話に興じる様な嗜好があるとは思えない。
常日頃絡まれはするが、待ち伏せまでされたことはない。
明確な目的があるから、アカルは俺を待っていた。
「…………」
「何だよ」
俺は質問を繰り返して、アカルの顔を覗き込んだ。アカルはなんやかんやとくっちゃべっていたくせに、今度は急に黙り込んでいる。何を考えているかわからなくて、逆に気味が悪い。
訝しがる俺を、アカルは静かに見返した。そこにはもう、軽薄な笑みはなかった。
——まずい! そう思ったがもう遅い。
慌てて身を引こうとしたが、アカルの方が早かった。
「……が…っ⁉︎」
突然のことに——俺ははじめ、何が起きたかわからなかった。気がつくと俺は壁に背をつけて、床にへたりこんでいた。激しい衝撃に一瞬息が止まり、痛みに俺は大きくうめいた。
……アカルに思い切り、突き飛ばされたらしい。そして壁に強かに背を打ち付けた。
物音に野次馬たちが何事か! と姿を見せたが、アカルの顔を見ていそいそと去っていった。
「…な、何…!」
息も切れ切れに問いかけるが返事はない。
アカルは表情を消したまま、つかつかと歩み寄ってくる。そして今度は襟首を掴み、俺を無理矢理立ち上がらせた。至近距離で見るアカルの瞳は刃のように鋭かった。
「なん…、だよ…!」
振り解こうともがけばもがくほど、アカルは万力の様に首を締め上げてくる。苦しさに俺は喘ぎ、力の限りアカルの手を引っ掻いてみたが、それでも彼は緩めない。
「ぐ…っ…」
アカルの攻撃性の強さは、これまで見てきて知っている。しかし気に入られていた俺は、手を上げられたことがなかった。
その暴力に晒されてみて、真実にアカルの危険さを知り、……恐ろしいと思った。このまま殺されるのではと、心臓が早鐘の様に脈打った。
「……ふ」
無表情だったアカルが、突然破顔する。俺の恐れを感じ取ったのか、その瞳には見下すような色が映っていた。
『警戒するまでもない』
きっとそう思ったのだろう。
アカルは俺に額を付けると、低い声で凄んだ。
「……あいつは、俺のもんだ。別にヤるヤらないはどうでもいい。だが…………あいつを俺から取るなら、話は別だ。お前を殺す。死にたくなるくらい、残酷に殺してやる」
「…っ……」
「——それだけ、言っておこうと思ってよお」
アカルはにんまりと笑うと、俺から手をパッと放した。急に酸素が入ってきて、俺は激しくむせかえった。アカルは甲高い笑い声をあげると、俺を虫ケラの様に見下ろした。
「なあ、何もしねえよ。お前が俺に何もしないなら、俺だって何もしねえ。なあ、わかるだろ?」
「…………」
何も答えられない俺に、アカルは気を良くしたらしい。自信に満ち溢れた笑みを浮かべ、為政者が公約を述べるように、はっきりした声で言う。
「『俺の言うことを守れ』よ、穂積。約束を守るんなら、お前も俺が守ってやる」
「…………」
「じゃあな」
言いたいことだけ伝えると、アカルはくるりと背を向けた。上機嫌にひらひらと手を振りながら去っていく。
俺はその背を目で追いながら、言葉の意味を測り兼ねていた。
『あいつは——俺のもんだ』
そう呟いたアカルの神妙な声色は、今も耳に残っている。
しかし……今はもう、何も考えたくなかった。俺はかぶりを振ると、よろよろと立ち上がった。
***
人気のない廊下を、這う様にして部屋へ帰る。やっと部屋に、辿り着いた時はほっとした。ドアノブに手をかけてから、扉の隙間から灯りが漏れていることに気付く。——誰かいる。
もう面倒事は御免で、俺は恐る恐る部屋を覗いた。
すると——クロエがもう帰っていて、椅子に腰掛けて本を読んでいた。
今夜はもう、会うことはないと思っていた。その見慣れた顔と、クロエが部屋にいると当たり前の光景に一気に肩の力が抜けた。
「……ユーゴ?」
クロエは物音で俺に気づいて、紙面から顔を上げた。
「な……っ」
それから俺の有り様を見て、その醜態に顔をしかめた。
「酒くさ! 煙草くさ! それから…何なんだその服は……? どこで着替えてきたんだ…?」
「…………」
何も答えられないでいると、クロエは怪訝そうに眉根を寄せた。しかし、何も聞かないことにしたらしく、
「まあ、入れば?」と俺をいざなった。
俺はのろのろと部屋に入り、椅子に座るクロエの側に立ってみる。
「………いや、何?」
クロエは不審そうに俺を見上げる。それから合点が入った様に、大きく頷いた。
「ああ、なんでいるのか? ってことか。みんな酔い潰れてしまったから、麻雀大会はお開きになったんだよ。それで早く帰ってきたってわけ。お前は何してたんだ?」
「…………」
それにも答えられなくて、俺は黙る。クロエは「うーん」と呟いて、困った様に頭を掻くと、
「疲れてるなら、もう寝たら?」とベッドへと顎をしゃくった。
その、ごく普通の気遣いに、傷心の俺はものすごく感動してしまった。
「クロエ!」
「あ?」
「ありがとう!」
「は——? ちょっ、…なに⁉︎」
俺はクロエに飛び付くと、思い切りぎゅーっと抱き締めた。
クロエが驚きの声を挙げて、じたじたと暴れる。
「だから……臭いんだって! 離れろ!」
「ありがとな!」
「意味がわからないんだけど⁉︎」
やがてクロエは諦めたのか、俺の背中をあやすように、ぽんぽんと叩いてくれる。その優しさが胸に染みて、クロエの服で顔を拭く。クロエが「げっ!」と叫ぶがおかまいなしだ。
「やっぱり俺、クロエのこと好きだなあ」
クロエの胸に顔を埋めたまま呟いてみる。
「……は?」
クロエは体を硬直させると、ばっと俺を突き放した。なんだ、急に。
クロエは何か言いたげに口を開いたが、何も言えないのか、口をぱくぱくさせている。
わざわざ口に出すのも照れくさいけど……。俺は頭を掻くと、クロエの顔を真っ直ぐに見つめた。
「まじでリスペクトしてる。永遠に俺の世話を焼いてほしい」
「……ああ。そういうことね。はい。わかりました」
「俺は本気だ!」
「俺は絶対に嫌だ。今すぐ部屋替えを申請してくる」
「こんな夜更けに迷惑だろうが! 諦めろ!」
「やかましい! こんなところにいられるか!」
くだらない口喧嘩さえいとおしい。
俺は言いたいことだけ伝えると、ベッドにぼふんと横になった。
「本気で臭いからシャワー浴びてこいよ……」と、小言を言われるがお構いなしだ。
これ以上なく疲れていたので、すぐに意識がふわふわとしてくる。
「おやすみ……」
「はいはい。おやすみ」
クロエは呆れた声で応えると、部屋の電気を落としてくれた。読書中だったのに悪いなあ…と謝る余裕もなく、俺は眠りへと落ちていった。
「……好き、ねえ」
ユーゴが寝てしまった後、クロエは静かに呟いた。
消灯した部屋の中。月明かりの薄い光で、ユーゴの顔を眺めていた。わりと幼い顔をしているが、寝顔はもっと幼く見える。
酒臭いのも煙草臭いのもいつものことだが——一体これは誰の服なんだろう。一体誰のところへ行っていたのか……
「…………」
胸に嫉妬が込み上げて、それを飲み下すように深く息を吸って、……吐く。
寝込みでも襲ってみるか? いや、撃退されるのがオチだろう。
じゃあ、起きている時に? そんな勇気はない……
「はあ……」
信頼されているものだから、余計に手を出しにくい。でも、もし手を出しても、ユーゴの態度は変わらないような気がする。そういうこともする友人として、受け入れてくれるだろう。……けど。
一度関係を持ってしまえば、俺が寛容でいられなくなる。きっと束縛したくなって、良い友人でいられなくなる。
俺のそばにいてくれないなら——いっそいなくなってしまえ。
嫉妬に狂う自分の姿を、ありありとイメージできる。
悶々と見下ろす中でも、ユーゴはすやすやと可愛い寝息を立てている。俺は布団をかけてやると、二段ベッドの梯子を登った。
ベッドに横になると、やましい想像は加速した。
自分の中の鬼を追い払うように、俺は大きくかぶりを振る。
いっそ——殺してしまえば楽になる。
恋慕し続けて苦しむのなら、誰かのおもちゃになるくらいなら、さっさと俺の手で、殺してしまえ。
……俺は臆病だから、そんなことはできない。
もう眠ってしまおうと、ぎゅっと強く目を瞑った。
こんなことばかり考えてしまうのは、長く血を見ていないからだ。早く戦争が始まれば良い。この鬱屈した想いを、戦って発散したい。
……早く、殺したい。
こんなにお預けを食らっているんだ。
いい加減【まとも】じゃいられない。
R18で投稿するの忘れた…………投稿し直すのめんどくさい…………とりあえずカットしたけど今後どうするか…………