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ぼんやりしたふたりが結婚するまで

作者: 熊と塩

 ぼんやりとしながらカップを口に運ぶ。ドリンクバーのホットコーヒーは、ただ苦いだけのお湯に砂糖とポーションミルクをぶち込んだみたいなものだった。スパゲッティナポリタンの後に飲むと、味わいは更に混沌とする。口の中がなんだか脂っこいけれど、もう慣れたものだ。

 有線放送でGReeeeNの“愛唄”が流れていたから、私は天井を指差した。


「この曲、懐かしいね」


 彼はほんのしばらく耳を傾けながらオレンジジュースを飲んで、「そう?」と言った。


「最近の曲じゃなかった?」


 いつも通りのボソボソ声だ。


「ORANGE RANGEだっけ」


「全ッ然ちがう」


 これだからおじさんは困る。そう思う私も立派にアラサーだけれど。

 いつものファミレス。今日通されたのは窓際の席。平日の午後五時とあって、客入りはまばらだった。おかげで静かに食事できる訳だけど、無口な彼と一緒だと、もはや静寂だ。

 それも仕方無い事だろう。付き合い始めて二年以上経つし、ここには週二で通っているし、私の方もこれと言った話題は無いし。

 マンネリと言われたらそうなのかも知れない。よく分からない。ときめきが無いとか情熱が薄れているとか、そういう関係を指す言葉なのだとしたら、私たちは当初からマンネリだ。


 彼とはネットを通じて出会った。マッチングアプリではなくて、匿名のユーザー同士が一対一やグループで通話をするアプリだ。世間でちょっとだけ流行っていた時期と、私のちょっとだけ人恋しかった時期とが重なって、偶然知り合いになって、偶然近くに住んでいるのを知って、必然会ってみる事になって、気が付いたらお付き合いする事になっていた。

 交際を申し出たのはどちらからだったか……忘れた。彼からだった気がするし、私からだったようにも思える。


「どうして私たち付き合い出したんだっけ?」


 指に付いたポテトの油を拭きながら、彼は一言で答えた。


「ワタナベのせい」


 ああ、そうそう。そうだった。私たちの通話グループの一人が「お前らもう付き合っちゃえよ」と言い出したのが切っ掛けだった。

 そう。それで、彼から言われた、鮮明に覚えている言葉に繋がる。


――おれ、好きとかそういう感情、分かんなくて。


 こう、湧き出るようなものが無いんだ、と言っていた。好意と呼べるような感覚はあるけれど、それは友達に向けられるくらいのもので、異性に対しての執着とか嫉妬とか、心の底から湧き上がってくる強く激しい感情は忘れてしまった、と言う。

 それを聞いた私はとても共感した。

 私も<好き>という感情が希薄だ。三十年近くも生きていれば当然お付き合いする相手は数人居たし、その一人には好き好き大好きと犬みたいに甘えまくったりもしたけど、いつからか、冬のまま春に気付かなかった草花のようにすっかり萎れてしまっていた。

 何がいけなかったのだろうか。見当を付けるとしたら、最後の別れが自然消滅だった事か。いやもしかしたら、高校を卒業した直後に同級生の女の子から告白されて、押されるがまま短期間ながら交際らしい何かをしてしまった事か。

 まあ……とにかくなんだかんだがあって色彩に欠けてしまった私が居て、そこに同じくモノクロームの彼が居たから、じゃあお付き合いしましょうか、となった訳だ。


「今何やってるんだろうね、ワタナベ」


 彼は「さあ」とだけ応えた。私もどうでもよかった。

 なんだかぼんやりしている。彼との会話もそう。私の頭の中もそう。彼と居るときはいつだってぼんやりしている。

 窓の外は段々と日が落ちてきているし。気が付けばナポリタンの皿は空になっているし。

 勝手にポテトに手を伸ばすと、彼は無言で器を押し出してくれた。

 いい人止まり。彼を客観的に評価するならその辺が妥当だろう。優しさは大事だ。一緒の時間を過ごす中で最も大切な事かも知れない。でも彼にあるのはそれだけだ。彼は自分で言うように情熱とは真反対に居るし、楽しくお喋りするタイプでもない。

 稼ぎがあるだけマシ程度の売れない小説家。三六にもなって実家暮らし。車も持っていなければ免許すら無い。

 ユニクロのジャケットに支離滅裂な英語の羅列Tシャツ、下はリーバイスのデニム。靴はノーブランドだし、アクセサリーどころか腕時計すらしていない。眼鏡は見るからにジンズ。

 髪を切っているのだって美容院じゃないはずだ。多分近所の千円カットだろう。眉毛は手入れされずにボサボサで今にも繋がりそうだし、髭は薄いのをいい事に今朝剃るのをサボったのが見て取れる。

 なんて魅力的な男性なんだ!


「なに笑ってるの?」


 思わず顔に出ていたらしい。嘲笑ではない。自嘲でもない。なんとなく可笑しかっただけ。

 私だって偉そうな事は言えない。看護師の給料だって高いとは言えないし、車があると言ったって型落ちの軽自動車。気合いの入ったハイブランドなんて持ってない。今の足元だってアシックスのナースシューズだ。仕事が忙しいふりをして身辺の事は後回しにしている。

 結局、似た者同士だ。感情も魅力も薄い二人。それが可笑しかっただけ。

 彼のほっそりと筋張った指がポテトを摘まみに行くのを見ながら、私は言った。


「結婚しよっか」


 ぴたり、と彼の手が空中で一瞬静止した。それから何食わぬ風を装って、ポテトを口に投げ込んだ。あまり感情を表に出さない人ではあるけれど、見慣れるとなかなか分かりやすい。


「今カメレオンみたいな動きしたよ」


 例えが悪かったのか、それとも話題のせいか、彼は何も言わなかった。

 わざとらしく頬杖を突いて彼の顔色を覗き込む。彼は目を合わせようとしない。残り少ないポテト越しに、どこか遠くを見詰めている。

 有線が流す音楽がなんだか知らない女性ボーカルの曲に変わった。

 嗚呼、としか表しようの無い声が漏れた。彼にではなくて、ひとを試すような事を言ってしまう自分にだ。


「ごめん、面倒臭い事言って」


 冷え切ったコーヒーをくっと飲み干す。溶けきらなかった砂糖が底に溜まっていた。

 二年も付き合っていれば、こういう話題を切り出すのも初めてではない。でも毎回だんまりかはぐらかされるかだ。当然だと思う。情熱も生活力も足りない二人が結婚なんて、おこがましい。

 逃げよう。自分で汚してしまったこの場の空気から、一旦離脱しよう。

 いそいそとマスクを付け始めたとき、彼がボソッと言った。


「しようか、結婚」


 思わず「うっ?」と謎の呻き声が出た。

 彼はセリフとは裏腹に目を泳がせていた。すぐに分かった。あ、勢いで言っちゃったんだ、と。たぶんこの後の話とかは考えていなくて、でも気まずくて、つい口を滑らせちゃったんだ。流されやすいのが彼の悪い癖。

 私はそんな彼に、冗談だよ、と言おうとして口を噤んだ。冗談で済ませてしまっていいのだろうか。いや、よくない。


「幸せになれると思う?」


 問い掛けると、彼は小さく、しかしはっきりと首を振った。


「じゃあなんで結婚してもいいって思ったの?」


「それは……どうしてだろう」


「私に気を遣った?」


「いや……」


 彼は困った表情になって、オレンジジュースをずずっと飲み干した。

 どうして私は詰問しているんだろう? 彼の態度が煮え切らないからか、それとも、私自身が焦っているからか。

 焦る? 何を焦っているの? それほど結婚願望が強かっただろうか。私は、彼と付き合っている時点でほとんど諦めていたはずじゃなかったのか。期待も不安も無かったはずではないか。

 そんなに大きく揺れ動く感情なんて……。

 ああ。そうか。


「もう一歩だけ、そばに行きたいよ」


 たったそれだけだ。結婚なんて何の障害でも、境界線ですらもなくて、もう少しだけ二人の距離を縮めたところにあるだけなのだと思った。それだけ、もうとっくに私と彼は近付いていた。いつの間にか、感情の波に押される事も無く、ただ自然と、漫然と。


「……そうだね」


 彼の目が真っ直ぐ私を見返した。


「じゃあ、結婚しよう」


「うん」


 頷いた私は、笑いもしなかった。泣かなかったし、煌めきに包まれる感覚も無かった。

 これでいいんだ、私たちは。惰性と言われたって、なし崩しと言われたって、構いはしない。これが私たちにとって、一番しっくりくる成り行きなんだ。

 彼は空になったコップをちょっと持ち上げて言った。


「ドリンクバー行こうか」


「うん」


 それから二人でぽつぽつと話し合った。お金について、住まいについて、二人での暮らし方について。子供について、将来について。具体性も無く、まとまりも無く、大きな希望も無く、薄ぼんやりした夢みたいな話をした。

 私たちはたぶん、これからしばらくして籍を入れる。それで、いつか話し合うんだ。どっちからプロポーズしたんだっけ、と。有線放送を聞きながら、まずいコーヒーを飲みながら。そこにはきっと胸が熱くなる感情なんかは無くて、ただ生温かい時間があって。

 ぼんやり漂う私たちを応援する歌なんて無い。それでも私たちはなんとなく一緒の時間を生きていくんだろう。

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[一言] どこにでもいるかも知れない平凡なカップル。 お互いに成り行きで付き合っていて、情熱もそこまでなくて。 なのに、何故こんなにも一緒にいたいと思うのか。 ただすごくリアルで、そしてふたりにしあわ…
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