昼下がり
どこまでも続く白い雲の海原。その上方に円錐を逆さまにしたような土の塊、島が浮かんでいる。一つだけではなく、多数ある大小さまざまな島は、落下する気配もなくただ悠然と浮遊するだけだ。小鳥たちが島と島の間を移動し、樹木の枝に止まっては果実をついばんでいる。
数あるうちの一つの島。比較的小さく、島の上には小さな集落があるだけだ。その集落にある風車を回す穏やかな風が、茂る草を撫でながら駆け抜けていき、しまいには、ある男の前髪を揺らす。そよそよと鳴く草をカーペット替わりにして寝転ぶその男の視線の先には、大きな鳥がいた。
太陽光に照らされ輝く青銅色の翼。金属的な光沢ではなく、魚のうろこのような艶がある翼をもつその鳥は、天空を自由気ままに滑っていく。
が、不自然なことに、その鳥は手足を持っていた。
「おっさん!まあまあ飛ぶの上手くなったろ!」
地上にいる男に向かい、大声を上げる鳥の正体は、翼を背負う一人の少年だ。まだ年端もいかない深緑の髪の少年は、承認を求める視線を男に向ける。無論、地上と少年のいる空中は60m程離れているので、その目線に男が気付いているかどうかは分からない。
「ちょっと羽ばたけて、滑空できるからって調子乗んなよ、そんなことは誰でもできるぞ!あと俺はおっさんじゃねえ!まだ32だ!」
褒めの言葉一つ含まれない男の言葉は少年のおごりを戒めるためなのか、それともおっさんと言われたための怒りなのか。当然その言葉は少年の期待通りのものではなく、彼は不機嫌になる。
「なんだよ……!ちょっとぐらい褒めてくれたっていいじゃないか!というか32ってアラサーだぞ!アラサー!!」
「あ?てめえアラサーなんて言葉どこで覚えやがった?32っていう具体的な数字だったら若く聞こえるが、アラサーって言われた途端、すでに老化してます感が否めねえんだよ!撤回しろ!」
どうやら『アラサー』という言葉が男の逆鱗に触れたらしい。ムキになって言い返す男だが、これではアラサーの威厳が感じられない。
「撤回するかよ!悔しかったら捕まえてみろよ!」
「言ったなてめぇ!覚悟しろ!」
そう言って、男は己の隣に置いてあった、漆黒に輝く翼に手を伸ばす。と、そこで途端に少年が慌て始めた。
「あ、まってやっぱごめん!やっぱやめて!1秒とかからないから!この距離でおっさんが本気出したら俺1秒も持たないから!」
「いまさら聞くと思うか?1秒どころじゃねえ、0.5秒で終わらしてやる!」
「ぎゃああああああ!」
少年は叫びながら、全速力で上空を目指し、男と距離を取ることを試みる。現在の少年が出せる最高速度だ。風圧がだんだん強くなり、目を開けるのもつらくなる。それでも少年は上昇をやめない。少年は知っているのだ、自分を捕まえようとする捕食者の恐ろしさを。
「はっ。その程度か。おせぇぞ!」
自身の背に翼を付け終えた男は、すでに点にしか見えない少年を見上げ、高らかに叫ぶ。男の声と共に、折りたたまれていた、鳥類を思わせる翼が勢いよく左右に展開された。
「いくぞ」
誰かに呼び掛けるように、小さく男が呟いた瞬間──────、周囲に強烈な風が吹き起り、男は消えた。
爆風が植物を押しのけ、大地の露出した部分があらわになる。そして気がつけば、男は遥か上空に飛び上がり、少年よりも高い高度で上昇を続ける捕食対象が、己の位置にたどり着くのを待つ状態になっていた。男は徐々に迫ってくる少年の頭に向けて、革のつっかけを差し出す。
急に進行方向に現れた捕食者に驚愕し、少年はとっさに翼を使って急ブレーキをかける。だが間に合うはずもなく、そのまま少年は男の足に蹴られることとなった。
「……いってぇ」
「原因はお前だからな」
「へいへい」
「あ?」
「分かったって!悪かったよ!」
「それでいい」
空中でホバリングしながら男は項垂れる少年を満足げに見ている。それほどまでにアラサーという言葉が気に食わなかったのだろう。十分に少年をいじめて満足した男はそのままゆっくりと降下していった。あとを追うように少年も翼の羽ばたきを緩め、落下し始める。
「ただ直線的に逃げるだけじゃだめだって言ってるだろ?もっと変則的な動きをしないと、俺みたいにすぐに進行方向を読まれる」
「別に俺はこのアリスを使って、戦いたいわけじゃないんだよ。自由に飛べればそれで」
少年の口から出た『アリス』とは彼らが背につけている翼の事である。翼のみの生命体であり、意思疎通を図ることで人間に飛翔という能力をもたらすものだ。
「戦えと言っているわけじゃない。逃げる手段を見つけろと言ってるんだ。お前ごときじゃ簡単に竜に食われるぞ」
「でも、島から出て飛ぶのはだめって言われるし、竜が出てきたとしても、雲海とその上にある俺たちの陸までの距離は平均3000mはあるんだろ?人間を見つけるまでに時間もかかる上に、竜だってそんな速く飛べるわけじゃないんだから。監視鳥もいるし。すぐ地下室に入れば大丈夫でしょ?」
そう言いながら少年は、付近を飛んでいる鳥に目を向ける。『監視鳥』。人類によって訓練された鳥であり、朱色の羽をもつ。人類や家畜を捕食する『竜』が雲海から現れたときは大音量の鳴き声で周囲に危険を知らせる鳥だ。この鳥たちが実用化され始めてから人類が竜によって捕食される確率はかなり下がった。
「何にだって例外は存在する。いざというときにアリスは力を貸してくれないかもしれないんだ。アリスを道具だと思うなよ」
「それ、耳にタコができるぐらい聞いてるから。『アリスと真に心を通わせば何でもできる』でしょ?分かってるって」
己の過去を振り返るように呟く男の言葉を少年は軽く受け流す。彼の表情からは同じことを言われてうんざりしている様子が伝わってくる。それが伝わったのは、男も一緒だったらしい。
「いいや、分かってないな。アリスは機械じゃない、生きてるんだよ!俺たちの気持ちにこたえて、俺たちを空へと導いてくれる。いわば相棒だ、パートナーだ!そのパートナーを無下にすることは許さんぞ」
「はいはい」
「大体な、お前まだ直線的な動きと滑空しかできないじゃないか!本当に早死にするぞ?」
「……あーもう分かったよ!分かってるからいつも練習してるじゃんか!俺だって空を飛ぶのは好きなんだから!いちいち口を出さないでくれよ!」
「なんだと!俺はお前のためを思って!」
「だったらなおさら俺の好きにさせてくれ!」
再び言い争いを始める二人。落下しながら言いたい放題言っている二人の姿はなんとも言い難い。子供一人に大声を上げる男も大人げないとしか言いようがないだろう。
言い争いが続くのは二人が地上に降り立ってからも同じだった。お互いの主張をぶつけ合い、相手の主張を一方的に拒む姿勢は、見るに堪えない。
いたちごっこが続き、一向に終わりが見えない中、その状況を破ったのは意外な人物だった。
「あー、アレク!昼過ぎからアリスの練習始めようって約束してたのに何で先に始めちゃうの!また、リークさんと喧嘩して!」
若紫色の翼を背負い、少年、もといアレクをしかりつける少女。風にたなびく黒に近い茶髪と、透き通った肌。肩に届きそうな髪を揺らして、少女はアレクをにらんでいる。
「ロ、ロコ。それはこいつが……」
先ほどまでの威勢を急激に失い、アレクはロコと呼ばれた少女に弁明しようと男を指さす。どうやらアレクはロコの前ではあまり大きい顔をすることができないようだ。
「こいつじゃない!リークさん!言い訳しないで謝って!」
しかし、ロコはアレクの言葉に耳を貸さず、問答無用で説教をする。その勢いに圧倒されたのかアレクはおとなしくなり、リークと呼ばれた男も静かになった。
「……ごめんなさい」
最初に口を開いたのはアレクだった。一発殴らないと気が済まないぐらい、彼は気が立っていた。しかし、ここで謝らなければロコに嫌われると、仕方なくリークに謝罪する。彼にとっては「リークを殴る<ロコに嫌われない」なのだ。
「いや、俺も悪かった。すまんな」
リークもロコの前ではおとなしくしていようと、余計なことをせずに謝罪を受け取る。二人の争いは一人の少女によって強制的に停止させられたのだった。
「ごめんなさいね、リークさん。アレク最近ずっとあんな感じで。思春期なんですよ。多めに見てください」
アレクに悪気はなかったのだと、彼を弁護する言葉をロコは口にする。しかし、当の本人は顔を真っ赤にしていた。
「余計な事言うな!……もういい!練習してくる!」
怒りなのか羞恥心なのか分からないが、アレクはその場に居たたまれなくなり、再び青銅色の翼を広げ空の彼方へ飛んで行ってしまった。
羽ばたきにより、土煙が起こり、リークとロコはせき込む羽目となってしまった。
「ちょっとアレク!置いていかないでよ!」
土煙が収まり、涙目になりながら少女は上空に見える少年に向かって叫ぶ。だが、先ほどのロコの言葉がよほどこたえたのか、アレクは反応しない。
「はあ、アレクったら本当に思春期なんだから。リークさん私も練習してきます」
そう言いながら、彼女は髪を一つにまとめ、翼を展開する。彼女の翼は鳥類のものを模してはおらず、どちらかと言えば蝙蝠の羽に近い形だろう。再び一陣の風によって砂ぼこりが巻き上げられ、砂ぼこりが落ち着くころには少女もまた、空の彼方へと吸い込まれていった。
「……青春だねぇ」
急に落ち着きを取り戻したリークは、先ほどと同様地面に寝転がり、空を見上げる。上空では鳥のように戯れる男女の姿があった。
「良い天気だ」
ゆっくりと時間が過ぎていき、眠気がリークを襲ってきたころ、聞きなれないエンジンの音がだんだんと近づいてきた。そのエンジン音はリークの眠気を掻き消し、臨戦態勢に入るには充分なものだ。草のベッドから跳ね起き、翼を背負って周囲を見渡す。360度全方面を見渡そうとして、彼の視界に飛び込んできたのは、金属光沢を放ちながらこちらに近づいてくる飛行機だった。
「あれは……」
その飛行機の機体には見覚えのある紋章が記されてあった。彼が7年も前に辞めた、王国軍の紋章。
「嫌な予感がするが、まさかこちらに用があるってわけではないだろうな?」
この時から、リークと呼ばれる男の、錆固まっていた歯車が再び動き出したのだ。
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