第15話 グレーナーの舌戦
旧アミアン王国北西部、パッシェンデール地方。北部のセラステレナ国境地帯を険しい山岳に守られ、盆地状の土地には小麦畑を中心とした豊かな穀倉が広がっている。
その村々を通りながらグレーナーは考えた。
これまで見たアミアン領の様子とは明らかに異なる。
今や旧アミアン王国領の多くは、セラステテレナによる搾取と貧民の暴動によって荒廃を極めている。
しかしこのパッシェンデール地方ののどかさはどうだ。村々の民はまるで他の地方の混乱など知らぬかのような顔で小麦畑を触っているし、商人の姿も見える。要所を守る兵士の身なりも整っており、軍規に乱れが見えない。
やがてグレーナーの目の前に古びた城が見えてきた。パッシェンデール城。ここに住む子爵が彼らの領主だと、グレーナーは先日の戦の指揮官に聞いた。
城下町を通り抜け、歴史ある城の城主の間に通されると、そこで待っていた老年の男性に対してグレーナーは一礼し、名乗った。
「グレーナー・グラウンと申します。本日はナプスブルク王国摂政、ロイ・ロジャー・ブラッドフォード卿の名代として参上いたしました」
「アミアン王国パッシェンデール領主、エマニエル・ダルシアクです。国王イアサント二世の臣であり、子爵を名乗っております」
そのような国王も国も今はもうないというのに。
グレーナーは悟られぬよう小さくため息を吐いた。子爵は手に持った杖で身体を支え、周囲を重臣に囲まれて精一杯の威厳を示そうとしているように見える。
老齢によるものには見えない、まだそこまでの年齢ではないだろう。だとすると戦傷か、あるいは生まれつきか。
「ダルシアク卿、この地方を訪れるのは私はこれが初めてですが、見事な統治だと感嘆いたしました。アミアン王国を襲った不幸など、閣下の領内では微塵も感じさせません」
「……そう見えるだけです。国内が惨状を極めているのは我々も知っております。そこから逃れてきた貴族や民をこうやって匿うのがやっとというところ。嘆かわしいことだ」
「なるほど、先日の戦いの折に出会った軍勢もこちらへ安住を求めての旅だった。そういった者たちが集えば王国奪還の日も近いというわけですな」
子爵は首を振った。
「それができればどれほど良いか。セラステレナの軍勢は領内にいるだけで万を超える。わずかばかりの軍勢が集まったところで身を守るのが精一杯です」
「しかしアミアン王国が制圧されてからもあなた方は戦い続け、勝利してきたからこそ今もこうしておられるのではないですか」
「……幸いにして大規模な侵攻はまだされていませんでしたから」
「ほう」
グレーナーは子爵の言葉に眉をぴくりと動かした。
「このように肥沃な土地、彼らからすれば喉から手が出るほど欲しがるでしょうに。よほどダルシアク卿を恐れているのでしょうか」
「恐れるなどと。私はこの通り生まれつき脚の不自由な身。ただ、ここに集まった将兵たちを討ち破るとすれば奴らも手を焼くと考えたのでしょう」
「確かに、アミアン王国貴族軍は今なお健在と言っても良さそうですからな」
「何が言いたい」
子爵はしびれを切らしたといった様子で語気を荒げ、グレーナーを睨んだ。
「何が言いたいのだ、グレーナー殿。ナプスブルクがいったい何の用だ。我々は決して友好的な間柄ではなかったはずだ。だが国王を失った我らを笑いに来たのではあるまい」
「もちろんです、閣下」
グレーナーは静かに微笑み、言った。
「王国解放のお手伝いをしたい。そう申し上げに参ったのです」
それを聞いた子爵は眉を潜めた。
「王国を解放だと? 何をしようというのだ」
グレーナーはその問いに対し、大きな嘘で返答をした。しかしその嘘は近い未来現実になるという確信を持って。
「我がナプスブルク王国はセラステレナ教国に対して近々宣戦を布告いたします。閣下とその配下の方々にはこれへ力を貸していただきたい」
「馬鹿な」
子爵を始め居並ぶアミアン貴族たちから驚きの声が上がった。子爵は驚きを努めて抑え込むようにしてから尋ねた。
「それは我らと同盟を結びたいということかね」
「いいえ」
グレーナーは小さく首を振った。
「同盟ではありません。我らナプスブルクに臣従を誓っていただきたいのです」
「何だと」
ダルシアク子爵はこれまでに無い怒声を上げると共に、腰の剣に手をかけた。
「我らに……私に国家と主君を裏切れというのか」
居並ぶ子爵の家臣たちも怒りを顔ににじませ、剣の柄に手をおいている。しかしグレーナーは気にする素振りも見せず子爵へ返答した。
「裏切るもなにも、お気づきではありませんか、王国と国王はすでにないのです。国王陛下を始めご一族は幼子に至るまで全てセラステレナ人によって処刑され、もはや王国を統治する主筋の者はおりません。大変無念なことでありますがしかし事実。アミアン王国はすでに息絶えたのです」
「な……に……」
「だからこそこの事実を受けいれ前に進まなくては。ナプスブルクに臣従なさい。そうすればセラステレナ打倒の折、ここにいる全ての貴族へ旧領回復と自治権の付与を約束する。これが我が主ロイ・ロジャー・ブラッドフォード卿のお考えです」
嘘。グレーナーはロイにそのような命令を受けていない。
受けた命令はナプスブルクの兵力拡充のための資金を得よというものだけだ。
これは賭けだ。
グレーナーは静かに己に言い聞かせた。この提案を彼らが拒めば自分の首はすぐにこの床へ落ちる、事が成ったとしてこの越権をあの摂政が咎めればやはり自分は死ぬ。だが──。
これくらいの危険を冒し事を成し遂げられずにどうするというのだ。
書記官として愚物たちが垂れ流すクソのような戯言を、別の愚物のためにただ記すしかできなかった日々。どこにも生きている自分がいないあの日々からようやく道筋が見えたのだ。
やってやる。摂政ロイ・ロジャー・ブラッドフォードよ見ていろ。今にお前にとって私はこの子爵の杖のように自らの命を握る枷となるのだ。
「おのれ無礼者、王国を愚弄するか」
突如、子爵の横で事態を見ていた青年が剣を抜き放ち、猛然とグレーナーへ襲いかかる。
「やめよジュリアン!」
子爵が祖座に怒声を上げると、青年は寸でのところで剣を振り下ろすのを止めた。
「しかし父上」
「やめろと言った。剣を収めよ」
ジュリアンと呼ばれた青年は悔しそうな顔をしつつ、その声に従った。
そして子爵はグレーナーを改めて見ると言った。
「……グレーナー殿。私は少し、現実的な話をしたい」
「喜んで」
グレーナーは微笑み、話の先を促す。子爵は疑念を吐き出す。
「まず、ナプスブルクにセラステレナを打倒する兵力があるとは思えない。彼の国は先王の時代が終わってから弱体の一途を辿っているはずだ」
「それはすでに過去の話。すでに一万を超える兵士が進軍の用意を進めております」
「一万だと」
どよめきが上がる。
しかしこれも嘘。今は千にも満たない。
だがグレーナーの予測が正しければセラステレナとの戦争の兵は一万を超える。それができるはずだ。
「ダルシアク卿、我が国のランドルフ将軍をご存知か」
「……知っているとも。貴国の先王の時代に名を馳せた将軍だろう」
「彼の将軍は齢六十を数えるも未だに健在。それどころか衰えるところを知らず。先日のロッドミンスターでの戦いの折にも敵の将軍を寡兵で討ち取り、凱旋いたしました。今我が国ではランドルフ将軍の声望を聞きつけた者たちが殺到し、昔日の勢いを取り戻しつつあります」
虚実を混ぜる。本国からの情報によると帰国したランドルフは新兵を調練中。しかしそこまでの数ではない。
「確かにあの将軍の武名は聞き及んでいる。しかし一万とは」
「お疑いですか」
「……今のナプスブルクは産業も枯れ経済も立ち行かなくなっていると聞く。そのような兵を集めるだけの力が本当にあるのか」
ナプスブルクの主要な産業は繊維業と豚の輸出。
その内繊維業はすでに死に体であったからこの子爵の疑念はまったく正しかった。ボルドー山開通の新規事業は順調に進んではいるものの、まだ海岸部を開発して収益を上げるには至っていない。
しかし”そのような兵を集めるだけの力”が無いのかというと、そうでもないというのがグレーナーの思惑である。
「我らの財力の一端をお見せいたしましょう。入れ」
グレーナーは城主の間の入り口に向かって声をかけると、手を大きく叩いて合図をした。
すると「失礼します」と言い扉を開けて入ってきたのは、血鳥団の歩兵が一人と──その隊長グレボルトだった。二人は大きな木箱を一つ、重そうに持ちながら子爵の前に進む。
グレボルトたちは子爵の前で木箱を下ろすと、しぶしぶな様子で膝をついた。
そしてグレーナーはそんなグレボルトを見下ろしながら居丈高といった様子で言った。
「従者よ、開けろ」
誰が従者だ。グレボルトは口元をピクつかせながら木箱の蓋を仰々しく開けた。
中にはぎっしりと詰まった宝石、そして貴金属の類。すなわち今回の略奪行で得た戦利品の内、フィアットに未だ売却せずにおいた品々である。
「なんと……」
子爵とその配下たちが息を飲んでそのきらめく品々を見つめている。グレーナーはその様子を確認してから言った。
「この品々は我らナプスブルクの誠意の証。あなた方を臣下として迎え入れるために摂政ブラッドフォード卿が用意させた、わずかばかりの配慮です」
元々はあなた方の国の財産であるが、とは言わないようグレーナーは慎んだ。
もっとも、貴族の権限が強かったアミアンで、他の領主の土地で起きている財産の流れなど彼らは気にもしていないだろうし、セラステレナに征服された時点でこれらは彼らの物ではなくなっているのだ。
「軍資金にせよということか」
「どのように使われようと自由です」
ううむ、と子爵が小さく唸るのをグレーナーは見逃さなかった。
落とせる。そう思ったとき、グレーナーが微笑もうとするのを止めさせた人物がいた。