夏、今年も貴女を待つ
青い空。白い雲。蝉の声。
ああ、もう夏ももうすぐ終わるのか、そんなことを感じながら畳の匂いなんてとうの昔に抜けてしまった畳の上にごろんと寝転ぶ。
背中で、四肢で感じる畳の冷たさが心地良くて、少しでもその心地良さに浸ろう、くたりと身体の力を抜いてみると、自然とため息がひとつ零れた。
風鈴の音を聞きながら、年季の入った縁側をぼーっと眺めていると、自然に浮かんでくるのは嬉しそうにスイカを頬張る、まだ小さかった頃の私の姿。
あの頃は何もかもが楽しかったような気がする。
朝、ジリジリと焼けるような気温に目を覚まさせられたことも、昼、傘を忘れたときに限って急な雨に降られたときも、夜、いつもよりほんの少しだけ夜更かしをして両親に怒られたことも。
あの頃は何もかもが楽しかった。
『想い出はいつも楽しい』
想い出は美化されるものだと私自身身に染みて分かっているし、そういう補正もきっとあるんだと思う。
それでも、想い出の補正を抜きにしても、あの頃は楽しかった。凄く、楽しかった。
ほら、縁側で楽しそうにスイカを食べているまだ小さい私。
近所のおじいさんの畑で取れた甘くて美味しいスイカに夢中になっていたかと思うと、ぴたりとその手が止まって、顔を上げた。
ああ、うん、本当に嬉しそうに顔を上げていた。大好きだったスイカを食べているときよりも余程嬉しそうな顔。
あのときは、本当に楽しかったんだなって。
……戻れるのであれば、戻りたい、心のどこかでそう思っているのかもしれない。
スイカを皿の上に乱暴に放り出して、そしてすっと手を差し出す私の手。その手に差し出される、私のよりもほんの少しだけ大きい手。
その手に引かれる私は、本当に幸せそうに見えた。
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「本当に片付けは良いの? 橘さん」
「ええ、お手を借りるほどの量でもありませんし、のんびりと片付けをしたいので」
「あらそう? それじゃあ、お暇させてもらいますね。何かあったら連絡の方、頂戴ね。ああ、そうそう、息子夫婦が帰って来ているから、後で遊びにいらっしゃいな」
「有難う御座います。時間がありましたら、是非伺わせて頂きます」
「ええ、ええ、いらっしゃいいらっしゃい。じゃあ、また、ね」
「はい。それでは、また」
「お世話さま」
冬場になると隙間風が通る程度には年季の入った玄関の扉をガラガラと開けて、お隣のおばあさんが年の割には元気に玄関をくぐる。
お見送りがてらに私もおばあさんに続いて外に出ると、夜の爽やかな風が――吹いていたら良かったのだけれど、まだまだ夜でももわっとした暑さは健在だった。
帰宅の途につこうとするとおばあさんに一度だけ家まで送りましょうかと聞くと、年寄り扱いしなくても大丈夫とほんの少しだけそっぽを向かれてしまったので、私は大人しく玄関先で彼女を見送る。
涼しげな虫の声と時折吹くそよ風にリンリンとこれまた涼しげな音を奏でる風鈴に耳を傾けつつ、見送りも早々に私は部屋の中へ。
家の中もクーラーをつけているわけでもなく、開けっ放しの窓に扇風機があるだけだからそこまで外と変わらない気はするけれど……さすがに蚊に食われてしまうのはごめんだ。
もしかしたら時は既に遅しで、どこか蚊に食われてしまっているのかもしれないけれど、気付いてしまわなければ問題無い。
そんなことを考えつつ、先ほどまで近所のおばあちゃんをはじめご近所さんが集まっていた居間に戻ると、私は先ずテレビを消した。
別に見たい番組があるわけでもなし、夜は静かなほうが落ち着けるし好きだし。何年住んでいようが飽きることの無い、夜の雰囲気。
食器や何やらも片付けなきゃいけないし、お風呂にも入らなきゃいけないし、まだまだやることは多いなと感じつつも……少しだけ、夜の雰囲気に浸ろうとごろんと畳みの上に寝転ぶ気持ち良さ。
「ああ、またどこかから虫が入って来てるなあ」と、天井からぶら下がっている蛍光灯に当たる小さな虫を見ながら思いつつも、実際のところはあれぐらいの虫なら別に害は無いしどうでも良いかな、とも思う。
それにこの時期には、例え虫であったとしても命を奪ってしまうのは忍びなく感じられてしまう。
窓を開け放っていて空気の通りを良くしていても微かによりも強く香ってくる線香の香り。
一年のうちに一番線香の匂いがするんじゃないかってくらいに線香の匂いの季節。お盆。
蚊取り線香ともまた違う、仏壇にあげるための線香の香り。それも1本や2本だけじゃなく、来客の人数の分だけ火が灯されているんだから匂いがしないわけがない。
燃え尽きたものも含めて、香炉の中の線香の数を数えれば今日あった来客の数は分かるかもしれないけれど……折角寝転んだのに、わざわざ起き上がるのも億劫だし、それに来客がどれくらいあったかなんて、賞味どうでも良かった。
いや、どうでも良いことなんて断じてない。それだけ多くの人が線香をあげに訪れてくれたということだし、その数だけの想いを頂けたということだ(ただの慣習や社交辞令、果ては暇つぶしというのも無いことはないのだろうけれど、今日は全て有り難く考えておこう)。
広くは無い平屋とはいえ、一戸建てに一人暮らしをしているからご近所さんや親戚が『私を』心配して訪ねて来てくれている、というのも大いにあると思う。
両親が亡くなってしまってから暫くは私は独りじゃなかったし、仏壇に手を合わせに来てくれる人も多かったし、寂しかったけれど寂しくなかった。
そして月日が流れて、私は本格的に独りになってしまうことになった。それは、現在進行形だったりする。
やっぱり最初は寂しさで相当参ってはいたけれど、やっぱりそれにも慣れた。慣れというのは凄いものだ。そこに到るまでは大変ではあったけれど、思い出そうとしてもなかなか上手く思い出せないし、思い出せないなら無理に思い出す必要も無いだろうと思い出すこともしない。
仕事に打ち込んでいれば余計なことも考えずに済んだし、生活もあったし、いろいろと忙しかったのも良かったのかもしれない。
……ふう、と線香の匂いの強い空気を少し大きめに吸い込んで、そして吐き出す。
そういえば昔は線香が苦手――というか、小さい頃は身体が受け付けなかったっけ。
煙を吸い込むとノドというか胸というかが苦しくなって(小児喘息だったと思う)、背中を擦ってもらったのは今でも覚えている。
……ああ、何だか意識したらちょっとだけ呼吸が浅くなってきたような気がしないでもない。
喘息自体は治ったはずだし、あまり症状を感じることは無いんだけれど……やっぱりこれぐらいの濃い煙の中にいるとちょっとくらいは何かしらの影響があるみたいだ。
もうちょっとごろごろしてたいなあと思いつつも、苦しくなっても嫌だなあと言うのが勝ち、私は状態をゆっくりと起こしてゆっくりと呼吸をひとつ。
……ああ、今ここで呼吸を整えてもあんまり意味が無いことに気付く。というか、むしろここで深く呼吸をしてしまったら逆効果のような気がする。
呼吸の浅さは気のせいなのかもしれないし、片付けやらお風呂やらをしていればもしかしたら知らず知らずのうちに快復しているのかもしれないけれど……一応、念には念くらい入れておいて損は無い。
どれぐらい苦しくなるかは知っているし、苦しくなっても嫌だし。
そして何より、今、私が苦しくなっても背中を擦ってくれる人はいないし。
昔はただただ苦しかったはずなのに、あんな風に背中を撫でてもらえるんだったら、またちょっとくらいは苦しくなっても良いかな、そんなことを考えつつ、私は立ち上がり玄関先へ。
母さんが優しく背中を撫でてくれた感触も、父さんが少し乱暴に撫でてくれた背中の感触も覚えている。
けれど、もうどんな声だったのか、どんな顔で笑っていたのかもはっきり思い出せなくて、思わず苦笑いが零れてしまうのであった。
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「すーっ、はーっ……」
玄関先に出て呼吸をひとつ。さっきの今じゃあさっぱり暑さは落ち着いていなくて、身体に触れる空気も肺を満たす空気も、気持ちベタっとしているように感じられた。
だけどそんな不快に感じてしまうような空気でさえ、なんだかとても心地良い。外灯に集まってくる虫が居ようとも、心地良い。
ぼーっと虚空を眺めてみると、うっすらと見えてくる星の光。
田舎とは言え、やっぱり光源から離れないと星空はキレイには見られないのは当たり前か。
『死んだ人間はお星様になる』、そう教えてくれたのは誰だったか。母さんだったか、父さんだったか、それとも学校の先生だったか。それとも――
死んだ人間が星になるんだったら、もう空が昼に見えるくらい明るくなっていてもおかしくないような気がするけれど、宇宙は私が思うよりもずっとずっと広いと何かで見た覚えもある。
となると、まだまだ宇宙には星になることの出来るスペースがあるのかもしれないし、そんなに広大だったら、星になってからもなかなか知り合いの星に会うことも出来ないのかもしれない。
死者の魂が帰ってくるっていうこの季節なのに、一度も母さんや父さんに会ったことがないのは、宇宙が広過ぎるからだったりするのかも。帰ってくるのに時間が掛かるからとか、下手をしたら地球を未だ見つけられてないからとか。
……母さんと父さんにまた会うことが出来たら、ちゃんと成長した姿を見せて安心させてあげたい。でも、あまり安心させてしまったら、また会うことが出来なくなりそうだし……難しいところだ。
「……ふぅっ」
昔のことを思い出すとセンチメンタルになるのはきっと人類みな共通だろう。
母さんのことも大好きだったし、父さんのことも大好きだったし、今でも大好きなことに変わりは無いけれど、ちゃんと気持ちの区切りのようなものは付いている。
昔に戻りたいかと問われたら、1日か1週間かそれくらいの時間をあの頃に戻りたいとは思うけれど、それぐらいで十分だし、一応今が大事だとちゃんと思えているから大丈夫。
そう言い聞かせないと、辛いから。
……なんだか今日はいつもよりいろいろ考えてしまう。
呼吸も落ち着いたし、とりあえず片付けやら何やらを済ませてしまおう。
それから……まあ、それからは気分次第。テレビを見ても良いしぼーっと過ごしても良いし、早めに就寝してしまっても良い。
頬に当たる虫を払いつつ、私は玄関を再び潜って家の中へと足を踏み入れようとしたときだった。
風がざわった強く吹いた気がして、思わず背を向けたばかりのほう方向へと再び振り返る。
一瞬でも明るい方向へと目を向けてしまったから、目が慣れるまでにほんの少しだけ時間が掛かってしまう。
その時間を幾許でも短縮しようと、パチパチと、そしてぐっと顰める目。
暗闇が輪郭を象り始めて、やっとぼんやりとだけれどはっきりと見えてきた、その姿は――
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「……何もこんな時間に帰ってくること無いのに」
「あははっ……いろいろしてたらこんな時間になっちゃってて」
「別に良いけど」
「良いなら良かったー」
「……何か、食べる? 残り物しかないけど」
「あー、移動しながら摘んできたから大丈夫。でもお腹すいたらもらうかも?」
「はい。わかりました」
わっぱかで片付けたテーブルの上にコースターを敷いて、氷の入った麦茶をどうぞと他人行儀な言葉とともに彼女の前に。
そして年季の入った丸いテーブルの2時のあたりにお姉ちゃんが、そして私が10時の位置に私が座った。
昔からこの位置が定位置で、お姉ちゃんが帰ってくると私は自然とこの位置に落ち着くし、この位置が落ち着く。
そしてこの位置に座ると、この4時と8時の位置には両親が座っていたなって思い出して、ほんの少しだけ悲しさが胸に去来する。
ほぼ丁度一年ぶりに聴いた彼女の声も、姿も、何かもかもが一年前と変わっていない。
ああ、でも髪の長さは少しくらい変わったのかもしれない。でも、それも気のせいかもしれない。
なんにしても、1年振りに対面する彼女。
決まってこの時期にだけ帰ってくる彼女。
私の、お姉ちゃん。
「……な、なに? そんなに物珍しそうに顔を見て」
「別に、なんとなく見ていただけです」
「ふうん。見られても減るものじゃあないから良いけど」
「それじゃあ、良いじゃないですか」
そう、1年振りだから、自然と彼女の顔をしげしげと眺めてしまう。
昔はこう、気恥ずかしさや何やらがあったせいで、どちらかと言うと視線を逸らしたり、酷くすると避けていたりした時期もあった。
だけど、そういう風にするよりも普通に接した方が恥ずかしくないということに気付いてからは、こうして普通に接することが出来るようになった、気がする。
心持というよりも年齢に拠る所のほうが大きいとは感じられるけれど、自然に接することが出来れば、何でも良い。
1年に1度しか顔を合わせる機会が無いんだから、変にギクシャクしてしまうよりも自然に接することが出来た方が絶対に良い。
年に1度、それも恐らく今日明日くらいしか一緒に居られないんだから。
「お姉ちゃんは、いつまでこちらに?」
……もし、こんなことを聴かなければ、いつまででも居てくれるんじゃないだろうか。そんなことも思ったことはある。
けれど、ちゃんと期間を確認しておいたほうが私の性にはあっている。
それに、いつまでいるのかも確認せずにお姉ちゃんがまた急に居なくなってしまうのは、私には耐えられないから。
「明後日の朝には帰るかな。長居、したいけど出来ないから」
「いつも通りなんですね。分かりました」
私の質問の仕方も、彼女の返答の仕方も内容も、そして私の返答への返答も、このやり取りが今のものなのか去年のものなのか、はたまた一昨年のものなのか分からなくなるくらいにいつもどおり。
でも、いつもどおりだということは、今年もいつも通りに過ごせるということ。
今年も、明後日まではお姉ちゃんと過ごす事が出来ると言うことだ。
いつもと変わらずに、穏やかに、ふたりで過ごす事が出来るということだ。
「あっ、線香あげないと。って、結構煙いし、やめておいた方が良い?」
「今更1本くらい増えても大して変わらないと思うので、問題ありませんよ」
「それじゃあ……遠慮なく、線香あげさせてもらおうっと」
「どうぞどうぞ。母さんと父さんの分で2本でも、3本でも」
「はーい。奇数のほうが良いんだっけ?」
「それは結婚式のご祝儀か何かだと思います」
「あ、そっかそっか」
これに近い会話も毎年のようにしている気がする。気がする、じゃなく、している。
そのたびに、『ああ、今年もお姉ちゃん、帰ってきてくれたんだ』って嬉しくなる。本当に、嬉しくなる。
思わず表情に出してしまいそうになる嬉しさをかみ殺すことに必死になっている私をよそに、お姉ちゃんはすっと立ち上がり線香をあげるために今の隣の部屋にある仏壇の前へ。
私の少しは慣れた場所を横切る彼女から、ふわりと懐かしい匂いがした。
まるで、あの日と同じような、甘くて甘いお姉ちゃんの匂いが。
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子供のころはそうでもなかったけれど、ある時期を境に私は『礼儀の正しい良い子』と周囲から言われるようになる。
活発さやハツラツさ元気さ的なもののおおよそはお姉ちゃんが担当していたようなものだし、元々お姉ちゃんとは逆で大人しい子供だったけれど、輪をかけて大人しく――というか、礼儀正しくなった。
両親も近所の人も、友人もクラスメイトも、あるときを境にした私の変化に多少戸惑いはしたようだけれど、どちらかというと世間一般からすると好ましい変化ではあったので(当時からそれはなんとなく自覚はしていた)程なくして快く受け入れられることとなる。
その変化というのは、ただ『丁寧な言葉を使うようになった』だけだったりするんだけれど、『大人に憧れていたのね』と思われいたらしく、それはそれで良かったけれど、恥ずかしさが込み上げて来たり。
あのときの私には、それぐらいしか思いつくことが出来なくて、そんなことでしか距離を取ること方法が思いつかなかった。
広くも無い家で、どうにかしてお姉ちゃんとの距離を取るには、それぐらいしか思い付かなかった。
私はお姉ちゃんが好きだった。大好きだった。
優しくてカッコ良くて可愛くて優しくて温かくて、良いと思えるもの全てをお姉ちゃんが持っていると思えた。思っていた。
どこの世界でもよくある、姉への憧れの感情というものだったと思う。
強く強く、そう『憧れだ』と思っていた。強く強く、『私はお姉ちゃんに憧れているんだ』と。お姉ちゃんに対する感情は、憧れなんだ、と。
私の胸が少しずつ膨らんできて、月に1度ちょっとだけお腹が苦しくなるようになってきた頃に、お姉ちゃんと一緒にお風呂に入ることがなくなった。本当は一緒に入りたかったけれど、恥ずかしかったから。そしてそれ以上に。
どこの高校に進学するかとか、そういう話を考え始めるようになった時期から、お姉ちゃんと手を繋いで寝るのをやめた。布団もくっつけることなく、離して寝るようになった。良い年だし恥ずかしかったから。そしてそれ以上に。
うん、それでも全然良かった。良いと思っていた。
お姉ちゃんは憧れのお姉ちゃんで、私はお姉ちゃんに憧れる妹で。私は『お姉ちゃんに憧れているんだ』と強く思っていたし、『お姉ちゃんは憧れの対象なんだ』と、より強く思うようになっていた。
そんな私の感情の火に注がれた油。
『クラスメイトに告白されちゃった』、思春期の姉妹だったら1度や2度くらいありそうな、お姉ちゃんがふと私にしてくれた単なる日常の延長の話題でしかないような話題。
お姉ちゃんは特に悪気も何も無く、ただ『日常/学校での出来事』として話してくれたんだと思う。
お姉ちゃんのことだったら何でも聞きたがるような妹だったし、お姉ちゃんは優しいし、だから自然と話してくれたんだと思う。
それなのに私は、勝手に感情を一気に沸き立たせて。お姉ちゃんがその告白にどういう反応をしたのかも聴かずに、勝手に感情を沸き立たせて、そして。
『私のほうがお姉ちゃんのこと……好きなのに……!!』
人生で初めて、そして今まで生きてきて唯一感情が一瞬で沸き立った瞬間だった。
頭で考えるという経過を全くせずに感情の赴くままに、言葉を吐き出したのはそのときが最初で最後で、きっとこれからも無いだろうと思う。
そして――『ああ、言ってしまった……』と後悔するのも、今まで無かったし、きっとこれから先にも無い。
反省とか後悔とか、そういうのは考えないことにした。
そんなことをしたって、私の口から出てお姉ちゃんに届いた言葉はどうにもならないんだから。
私が自分の言葉と想いを自分勝手に、まるで通り魔のように突然お姉ちゃんにぶつけたときのお姉ちゃんの顔は、今でも覚えている。忘れるわけが無い。
最初は驚いた顔をして、そして『この子は何を言っているんだろう』とそんな顔をして、それから困ったような顔をして、そして――悲しそうな顔をした。
言ってしまった後悔はやっぱり無くて、むしろやっと言えたって気持ちだけがあったけれど、私はまだ子供だったから、言った先のことなんて全く考えていなくて。考えたこともなくて。
感情が一瞬で沸き立って、殆ど勢いだけでお姉ちゃんに想いをぶつけてしまったはずなのに、なぜか心は驚くほど落ち着いていたのも覚えている。
そして、そんな私にお姉ちゃんが渡してくれた言葉も、今も胸にしっかり残っていた。
「……ありがとう。でも……ごめん……」
少し考えてからとか、そういうことはなくて、その場で私に答えを示してくれたお姉ちゃん。
まだまだ子供だった私でも、その短い言葉だけでおおよそのことは理解した。お姉ちゃんが言いたいことの殆どを、その短い言葉だけで、きっと。
それからだ、私が周囲に対して丁寧な言葉を使うようになりはじめたのは。
今思うと微笑ましいほどに幼い行動なんだけれど、それでも当時はそれしかないと一生懸命考えて出した結論で、それしかないと思っていたし、そうしなきゃいけないと勝手に思い込んで、今の今でもそれを実行している。
……止め時が分からなくなってしまった、というのも多分にあったりするけれど、これが今や当たり前な感じになっているし。
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「どしたのー? ぼーっとして。夏バテ?」
「……あっ、すみません。ちょっと昔の――思い出してました」
「あー……お母さんたちのこと?」
「ええ、そう、ですね」
「そっかそっか」
いつの間にか仏間かわ移動してきて、いつもの位置に腰掛けているお姉ちゃん。
昔のあのときのことを思い出していたことがなんとなくバツが悪い気がして、お姉ちゃんのほうじゃなく隣の仏間に視線を送ると、そこには暗闇の中に浮かぶ2……3本の真新しい線香のぼうっとした光。
さっきよりも風が出てきて、家の中の空気を洗ってくれているからなのか、新しく線香が増えても特に胸の調子が悪くなったりはしなかった。
……そんな胸の苦しさは無かったけれど、昔のことを思い出してしまったからか、胸に小さいトゲが刺さったかのようにチクリと痛い。
たまに思い出すことなんてあるし、ちゃんと時間を掛けて気持ちの整理をしてきたはずなのに、目の前にしてしまうとどうしても心が乱れてしまう。
……去年まではそこまでじゃなかった気がするのに、何なんだか、全く。私は。
「あー、お風呂、いいかなー? っていうか、お湯、抜いちゃった?」
「あっ……そういえば、お風呂は……」
しまった。お風呂のこと、忘れてた。
いつもだったらもっと早めに片付けを終えてお風呂に入ってゆっくりするのに、今日は先にのんびりし過ぎてしまったのかもしれない。
幸いお湯は張ってあるし、そこまで冷めてはいないと思うんだけれ――
「お湯張ってはいますが、ちょっと温いかもしれません」
「おっ、それなら先にお風呂頂こうっと。温かったら温めながら入るからー」
「……そうですか。私もまだなので、お湯は抜かないでくださいね」
「はーい。私が一番風呂なんてちょっと珍しいねー」
「そう、ですか? そうかもしれませんね」
ああ、やってしまった。こうなってしまうのか。そんな言葉が頭の中に木霊する。
いつもだったらお風呂は先に済ませておいていたし、お姉ちゃんが先に入ろうとすることもなかったから気が抜けていたのかもしれない。
……ここで渋って見せるのも明らかにおかしいし、今日のところは仕方が無いから……。
「どうぞ。タオルに着替えは――」
「適当なの使うから大丈夫ー」
「はい。それでは、お先にどうぞ。用事があれば大声で呼んでください」
「はーい。んじゃ、お風呂お風呂ー」
そう言うとお姉ちゃんはふわっと風が舞うかのように立ち上がり、そしてすたこらとお風呂場のほうへと向かっていってしまった。
そして脱衣所への扉を閉めるガラガラという音が聞こえてくると、私の耳に届いてくるのはりんりんと鳴く虫の音だけでまるでお姉ちゃんなんか居なかったかのような、そんな静寂。
なんとなく視線の置き所に困りつつ、ふうと小さくため息をついてぼーっと暗闇でろくに見えない外を眺めつつ汗をかいたコップに入った麦茶を一口。
口の中に広がる夏の涼を感じつつ半分以上残ったコップをテーブルに置くと、隣に置いたお姉ちゃんの麦茶の氷がコロリとこれまた涼しげな音を立てる。
「……さて、済ませるもの、済ませましょうか」
重くなった腰をよっこらせと持ち上げながら、誰に言うでもなく独り言をひとつ。
そんな私の独り言に応えるかのように、お風呂場から楽しげな鼻歌が聞こえ始めたりするのだった。
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「では、私もお風呂を頂きますが……先にお休みになっていても構いませんので」
「はーい。とりあえず身体冷ましてから考えるー」
「そうですか。では、お風呂入ってきますね」
「はーい。ごゆっくりー」
窓――網戸に近いところで、年の割りにだらしないんじゃないかと思えるような格好でウチワをパタパタするお姉ちゃん。
だらしない格好とはいえ、それでもやっぱり……私よりも数段美しい女性だと思える。
濡れた髪に使い古してぶかぶかになったシャツから見えるほんのり熱に色付いた透き通るように白い肌。淡い桃色の口唇。
「何か忘れ物ー?」
「あ、えっ、あっ……つ、冷たい飲み物……冷たい飲み物は冷蔵庫にありますので、お好きなものを。来客用にビールも冷えてますよ」
「おーっ、いいねー。飲みたくなったら頂くよー」
「はい。では、お風呂へ」
「はーい」
思わず視線を逸らしつつ、おそらく私じゃなくても魅入ってしまうだろうと、自分自身に言い訳にもならない言い訳をしながら足早にお風呂場へ。
足早になろうがなるまいが、広くはない家ではあっという間に目的地に着いてしまうのだけれど。
開け放したままの脱衣所の前でほんの一瞬だけ足を止めて、そして幾分か湿度の高さが肌で感じられる脱衣所の中へ。
お姉ちゃんの着ていた服が無造作に床に散らばって――はいなくて、ちゃんと脱いだものは洗濯機の中に放っておいてくれたみたいだ。
何故か少し安堵したような、残念に思ってしまったような不思議な気持ちを抱えたまま、私も服を脱ぐ。
暑さにはある程度強いと思ってはいるものの、幾分湿度が高い所為か、脱衣所に来てしまうと服を早く脱ぎたくなってしまうのは昔から。
なるべく何も考えないようにしようと思っているのに、海底から湧き上がってくる泡のように、勝手にふつふつとあれやこれやと思考が沸いてきてしまう。
……お姉ちゃんの後のお風呂は多分、あの日以来。距離を取ろうと決めた、あの日以来。
家族だし、お風呂の順番くらいどうでも良いはずなのに……それでも、あの日以来、お姉ちゃんの後のお湯に浸かったことがない。徹底的に。1度たりとも。
理由は至極単純なもので、あのときに決めた『距離を取ろう』という決意の延長線上の行動の1つ。
別に一緒にお風呂に入っていたわけでもないし、別に入る順番なんてどうでも良いとは思ったんだけれど……自分の想いを伝えてしまったがために想いがさらに固まってしまった感じがして、だから……お姉ちゃんの後のお風呂なんて入れなかった。入りたいと思ったことはあったりしたけれど我慢した。
……他の人はどうなのか分からない。けれど……好きな人の入った後のお風呂なんて、入ったらドキドキするどころじゃ済まなくなるだろうし、折角の決意が鈍ってしまいそうだったし。
まあ、本当のところは……いろいろ考えてしまってもっとお姉ちゃんを好きになってしまうだろうと思ったから。絶対に、お姉ちゃんの匂いとかするだろうし。
そんなことを考えていると、お風呂場への扉が凄く遠くに感じられるような気がしないでもないんだけれど……実際は手を伸ばせば取っ手に簡単に手が届く距離。というか、既に取っ手に手は掛けているんだけど……ほんの少しだけ、いつもより覚悟が要る。っていうか、いつもは覚悟なんてしていないけれど。
実はもう脱衣所の段階で感じてしまっている頭をぼーっとさせるような良い香り。その香りが一段と強いであろうお風呂場への扉をゆっくりと開く。
開けたドアの隙間から、季節はずれの湯気とともに良い香りがふんわりと私の嗅覚を刺激し始めた。
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「それでは……電気、消しますよ?」
「はーい。トイレも行ったし、良いよー」
「では、消します」
「どうぞどうぞー」
何度か取り替えてなお、年季が入って毛羽立ちの目立ってきた電灯の紐をカチ、カチ、カチと3度引くと、明るかった視界が一気に暗くなってしまって、でも強く目を閉じるとほんのりと夜目が利くようになってくる。
本当は布団を敷く部屋ごと分けてしまえば良かったんだろうけれど、昔からお姉ちゃんが居なくなってしまうまでは部屋が余っていなくて同じ部屋だったし、部屋が空いたからといって、今更寝床を移動するのもなんだか違和感はあるし、それにあの日以来徐々に徐々に布団の距離は離してきたから、最終的には部屋の端と端に布団を敷いて寝ているし(とはいえ、狭い部屋なのでお互いが手を伸ばせば届くくらいの距離ではあるけれど)。
同じ部屋で眠るのがお姉ちゃんだということを差し引いても、『誰かと同じ部屋で寝る』という機会はなかなか無いし、自分以外の他人(もちろん、気の許せる相手限定というのはあるけれど)の気配を感じながら就寝というのも独りとは違った安心感がある。
……私は今まで一度も他人と同じ部屋で寝ることなんて無かったけれど、お姉ちゃんはどうだったんだろう、そんなことを考えながらも私は自分の布団へと潜り込んだ。
触れた瞬間の布団はひんやりとしていて気持ち良いなあと、いつもと同じようなことを感じつつ、タオルケットと布団の間に身体を滑り込ませる。
うん、すぐに暑くなってしまうんだろうけれど、入りたての布団はひんやりとしてて気持ち良いものだ。
いつも通りに仰向けになって、枕と頭がフィットする場所を探しつつ天井の模様をぼーっと眺めていると、天井の模様の見え方がほんの少しだけいつもと違って、布団の位置が独りのときとは違うなあと改めて感じられてしまったり。
「入りたての布団って気持ち良いよねー。冬だと暑くなってからのまだ冷たい部分とかー」
「同じことを考えていました。そうですね」
そんなことを考えていたら、私が感じていたことほぼそのまんまをお姉ちゃんが口に出してくれて、1年に1度なのにちゃんとこんなにお互いに繋がっているなあと思えて。
お風呂で思う存分に身体が温まっていたからか、それとも純粋に気温が下がったからなのか、窓の外から虫の音とともにやわらかく吹き込んでくる風が心地良い。
お風呂は――うん、やっぱりドキドキはした。考えてみればシャンプーやボディーソープはうちにある私と同じものを使ったみたいだし、お風呂に入る前には身体を流したりするだろうし、だから『お姉ちゃんの匂いがする』なんてことは殆ど無かったはずなのに……お姉ちゃんの匂いがした。気がした。
そしてそれはこの部屋の中でもそう。少し離れた場所に横になっているお姉ちゃんの匂いがする。気がする。
……これまた私と同じシャンプーやらの匂いなので、正確にはお姉ちゃんの匂いじゃないのかもしれないけれど、なんとなく、お姉ちゃんの匂いがする。気がする。
……なんだか気がするばっかりだ。
ほら、今度はまた別な『気がする』が出てきた。
上を向いているんだけど感じてしまう視線。これも独りで寝ているときには感じることの無いものだ(感じたらそれはそれで怖くなる気がするけれど)。
いつもお姉ちゃんは左右のどちらかを向いて寝ることの多いお姉ちゃんだけれど……今は、私のほうを向いて寝てる。ううん、寝ていない。私のほうを向いているだけじゃなく、私のほうを見てる。
視線に敏感なほうでもないけれど……うん、ちゃんと分かる。呼吸の音も向こうじゃなく私のほうに向いてるように聞こえるし、私のほうを見ている。
……こういうときは、何か話し掛けたりしたほうが良いのだろうが、生憎話しかけるような内容が思いつかない。
気付かないフリをしていても良いとは思うけれど、今日は少し話したい気分かもしれない、と思うのだけれど、やっぱり話すような話題も思いつかない。お姉ちゃんについての事柄は私は自分から聴かないって勝手に決めているし、元々口なんて上手くないし。
用事なんてなくても会話はしたい。でも、実際のところは隣――同じ空間に居られるだけで幸せ。だけど、やっぱり会話をしたらもっと楽しいはず。
……とりあえず、『今夜は風が丁度良いですね』とでも言ってみようか。
ああ、『今夜』で思い出したけれど、『月がきれいですね』って言うのはアイラヴユーを洒落た感じに翻訳したって聞いたことがあるし、今ここでお姉ちゃんに言ってみたらどうなるんだろう。お姉ちゃん、いろいろざっくりとして見えて頭が悪くなかったりするから気の利いた返答をしてくれそうだけれど。
……うん、こういうときは考えれば考えるほどに、何を話そうかとか思いつかないもの。
だったらとりあえずお姉ちゃんのほうを向いてから考えよう。もしかしたらお姉ちゃんのほうから何か話掛けてくれるかもしれないし。うん、そうしよう。
そんな淡くも他力本願なことを考えつつ、お姉ちゃんの寝ているほうへと出来るだけ自然に寝返りを打つかのように向き直ってみる。
さて、お姉ちゃんとどんな話をしようか。
「…………」
さっきまでのドキドキはどこかに行ってしまった瞬間。
お姉ちゃんのほうに向き直ると、確かにお姉ちゃんはこっちを向いていた。目を瞑って、寝息をたたえながら。
結構覚悟を決めて振り向いたから拍子抜け……だけれど、これはこれで良いかもしれない。
私の少し距離のある目の前には、お姉ちゃんの寝顔。
大人になってキレイになったはずなのに、あの頃と変わらないように思える寝顔。
普段は仰向けじゃないと寝難いなーと思ってしまうんだけれど、今日はそれも気になら無そう。
虫の声をお姉ちゃんの寝息と寝顔、そしてまだ微かに残っている線香の香りに包まれながら、今日はおやすみなさい。
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「それじゃあ、また来年ねー」
「……はい。また来年、お待ちしています」
お姉ちゃんと過ごす数日は、本当にあっという間に過ぎていく。毎年感じることだけれど、今年は特に早かった気がした。
ミンミンと残り少ない命を燃やすかのように鳴き続ける蝉の声。ほんの少し外に出ているだけで肌をジリジリと焦がしてしまいそうな太陽の光。
いつものように私は玄関先でお姉ちゃんを見送る。
「今年も楽しかったよー。また来年、ね」
「はい。来年も、お待ちしております」
うん、これも去年と変わらないやりとり。
でも今年――今は、去年までよりも名残惜しい気がした。ううん、気がした、じゃなくて、名残惜しい。
それもこれも、今年はお姉ちゃんを思いのほか意識してしまった所為。帰ってきた日から今日まで、去年までよりもずっとずっとお姉ちゃんと近くに居られた気がする。ううん、気がするじゃなくて、居られた。
けれど、私のそんな感情なんて全く関係無く、別れの瞬間はやってくる。
ああ、なんだか七夕だけ会うことが出来る織姫と彦星みたいだな、なんて思ったりもするけれど、私とお姉ちゃんの場合はそれとは違う。
織姫と彦星は恋人同時だけれど、私とお姉ちゃんはただの姉妹。
その距離は恋人同士よりも近いのに、恋人同士よりも驚くほどに遠い。
「それじゃあ、またね」
「はい。また」
たったこれだけの言葉で、私とお姉ちゃんの逢瀬は終わる。
お姉ちゃんは何の躊躇も無くくるりと振り返って歩き出して、私はそれを見送るだけ。
背中を見送れば、あとはいつもの生活に戻るだけ。
たったひとりで、朝起きて仕事に行ってそして帰って休む、そんな生活の日々に戻るだけ。
木の葉の青いうちは今年の夏はお姉ちゃんと過ごせて良かったなって、そして、木の葉が色付いてからはまた来年の夏もお姉ちゃんと過ごせたら良いなって思いながら過ごす、そんな日々に戻るだけ。
距離を取ったはずなのに、ちゃんと気持ちの整理は出来ているはずなのに、それなのに、毎年のようにこんなことを思ってしまう。
……ちゃんとずっと前に割り切ったはずなのに、割り切れているはずなのに……割り切ることの出来なかった気持ちの残りが、まだこうして私の中で燻っている。
「あれ? もしかして……一緒に行きたい?」
「……何を、言っているんですか」
いつもの冗談だろう、そう思えるはずお姉ちゃんの言葉にはっと息を呑む。
いつもと変わらない笑顔でお姉ちゃんが放った、『一緒に行きたいか』、二択で応えることのできる、何も考えなければ二つ返事で応えることの出来るような質問。
何も考えずに応えられたら、どれだけ幸せなんだろう。
何も知らない子供のように、『うん、行きたい!』と言うことが出来れば、どれくらい幸せな気持ちになれるんだろう。
たとえ、本当に一緒に行くことなんて出来なくても。
そう、私は守らなくてはいけない。たったひとりでも、守らなくてはいけない。年に1度だろうとも、お姉ちゃんの帰ってくる場所を。こうやって、毎年帰ってきてくれているんだから。
ううん、お姉ちゃんだけじゃない、私には見えてはいないだけで母さんも父さんもちゃんと毎年帰ってきてくれているのかもしれない。
私は、たった独りででも、私は守らなきゃいけない。お姉ちゃんとは毎年会えるんだから。私は、それだけで十分なんだから。そうだったはずなんだから。
それがたとえ冗談であろうとも、もし言葉にしてしまったら、何かのタガが外れてしまいそうだから。
だから、お姉ちゃんの『一緒に行きたいか』の問いに対する答えはたったひとつ。
「またまた、そんな冗談を」
「あ、冗談っぽかったかな? あははっ」
うん、お姉ちゃんのことなら、遠く遠く離れてしまった今でも、ちゃんと分かる。
お姉ちゃんが冗談を言っているんだろうってことくらい。
それでも、そんな冗談を真に受けてしまうのは――今年は何だか、昔に戻ったかのような気持ちになってしまっているからだと思う。
きっとまたお姉ちゃんと離れてしまえば、少しの間は寂しかったり画あるかもしれないけれど、そんなものはとっくの昔に慣れているはずだし、またいつもの日常に戻ることが出来るはず。
まだ暑さの残る夏の空はこんなにも青く青く澄んでいるんだから、いつの間にか路肩で芽吹いていたヒマワリもこんなにも明るく咲き誇っているんだから、だから……ちゃんと明るくお姉ちゃんを送り出すのが、私の役目。私がしなければいけないこと。
だから、私は、ちゃんと――
出来る限りの笑顔で、いってらっしゃいの言葉を、そう心に決めて私が口を開く。
「冗談っぽいけど、冗談じゃなくて」
私が口を開いて言葉を、それよりも一瞬早く、お姉ちゃんが言葉を紡ぐ。
それも、俄かには信じられないような言葉を。
「来年は迎えに来るよ。だから、一緒にいこう?」
「……そんな冗談は……私には……」
「本当に冗談じゃなくて、真面目に」
ああ、お姉ちゃんの目は、冗談を言っている目じゃない。冗談を言っている目じゃないからこそ、舞い上がることなんかなくて、私は冷静になることが出来た。
冷静に、最善の言葉を、お姉ちゃんに。
「……考えておきます、では、ダメですか?」
「んじゃ、考えておいて。嫌がっても無理やり連れて行くかなー?」
「……お姉ちゃんになら、良いですけど……ですがやはり……」
「嫌じゃないなら良いんじゃないー?」
「……考えておきます」
「あははっ、了解ーっ。それじゃあ、また来年」
「はい。ではまた……来年、お待ちしております」
「はーい」
2つ3つ前の会話が嘘だったんじゃないか、そう思えるほどにお姉ちゃんはあっさりと振り返り、そして歩き始める。
照り付ける日差しの中、ゆっくりゆっくりと一度も振り返ることなんてなく遠ざかっていくその背中が見えなくなるまで、いつもと同じように私はただただ黙って見送った。
「……ふぅっ」
お姉ちゃんの後姿が見えなくなって、思わず大きくため息をひとつ。もしかすると私、今まで息を止めちゃってたりしたんだろうか。
経験なんて無いからよくわからないけれど、思わず息を止めちゃうなんて初めてキスしたときみたいだ、と思わずおかしくなって笑ってしまう。
「……本当に来年、迎えに来てくれるのかな……」
お姉ちゃんが言っていたことを確認するかのように口に出してみると、胸がキュっとするような、そんな初恋のような胸の痛みが去来してきた。
現実感が、まだあまりない。ふぅ、と一際大きく空気を吐き出して、暑くてカラっとした空気をすぅと吸い込む。
吸い込んだ空気は、どこかお姉ちゃんの匂いがした、気がした。