Kiss Me.
キスする直前の、あの表情が好きだ。
馬鹿な事をやらかした。その自覚は十二分にある。
もともとあの男とわたしの間には、恋愛感情と言った甘っちょろいものなどかけらも、壕も、原子すらも存在していない。
さらに言えば、わたしとあの男の間には常に一定以上の物理的な距離があり。……そう、肩が触れ合うほど近づいた事すら、なかった。
あの瞬間までは。
あの日以外で一番近づいたのは……あぁ。あの研究室の屋上で、だったろうか。
まぁ近づいたと言っても、距離にしてみれば数m。お互いの顔形、顔色、目の色は間違い様もなく視認できるものの、あの日のように男の顎にあった髭の剃り残しに気づくほどではないし、生え際から頬につたう一筋の汗が見えるほど近くもなかった。
ましてや男のグレイの瞳の奥に見え隠れする、情動を見てとれるほどには。
………ましてや、その肌の固さと柔らかさをこの手と肌で感じ取れるほどでは。
わたしとあの男の間には、常に何かもしくは誰かがいた。
たぶんこれは、近親憎悪と言うやつなのだろう。わたしはともかく、いや、こう言うのは決してわたしのあの男に対する悪感情からだけではなく。あの男は決して、絶対に、わたし達がお互いに似たところがあるなどとは死んでも、そう死んでも、だ。認めないだろうけれど。
まぁともかく。
そんな感情を持つ相手に近づこうとすることなど余りあるわけもなく、あったとしてもそれは、殴りかかろうとするくらいだろう。
……ふふ。あの時のジョンの顔は、いま思い出してもおかしい。
彼に知られたら、それこそあのまるい頭から湯気を立てて怒られそうだけれど。
いつかのように頭突きをされるかもしれない。やはり黙っていよう。また鼻血を垂れ流すのは、ご免こうむる。
人を食ったような、と言うよりも、人を頭から塩をかけてしばらく放置した後喰らいつくようなあの男の態度と物言いに、少々頭に血が昇ってしまったわたしを、ジョンは必死に止めようとしてくれた。
いつもは穏やかな、もしくは苦虫を二つ、三つ噛み潰したような表情を浮かべているあの色白の顔を真っ赤にして、わたしの肩を必死に押し返していた。
身長はわたしより頭一つ分低いくせに、さすがに軍医殿である。その勢いと踏ん張りにたたらを踏みそうになるほどの、力強さであった。
そう言えば。あの時あの男はそんなわたし達を見て、なんと言っていただろうか。……うむ。想い出せない。
まぁどうせあの男の事だ。口から出る言葉など意味のあるようでまるでない、その場の勢いだけ、もしくは鋭さと毒だけはたっぷり含んだ言葉だったろう。
ジョンが間にいた以外は……あぁ。互いの手に握り合った銃があった日もあったな。それからプールや、パソコンの画面が。
なのに何故か。あの日は何故か、まるで奇跡か悪魔の仕業か――そのどちらもしくはそれ以外の仕業か知らないし知りたくもないが、誰にも何にも阻まれることなく肩が触れ合うほど近づいて。その距離感にお互い気付いた瞬間、別の事にも気づいてしまったのだ。
あぁ、わたしはこの男と、これから口づけを交わすのだと言う事に。
*** ***
どちらが先に顔を近づけたのかは、分からない。
わたしは確か……少し右に、顔を傾けた気がする。わたしが右利きだからだろうか。
あの瞬間。お互いにその事実を知覚してしまった瞬間、あの時。
あの男のあんな表情は、それまで見た事がなかった。
しまった。と言おうか。
あぁそうなのかと、安堵に似た納得の表情と言おうか。
たぶん。あの場所に鏡はなかったから、あくまで憶測にすぎないのだが。わたしもきっと似たような表情を浮かべていた事だろう。
……あぁそうか。鏡はなかったにしても、それに鏡があったところであの状態では、悠長に自分の顔や顔色を確認などしなかっただろうが、あの場に自分の顔を写すものならあったのだ。
あの男の瞳が。
濡れたような、スチールグレイの瞳。鼻が触れ合い、唇が触れ合う距離にあったのだから、あの瞳にわたしの表情はすべて、映っていたはずだろう。
それを確認する前に目を閉じてしまったので、あの時自分がどんな表情を浮かべていたかは、永遠に分からずじまいだ。
それが良かったどうかは、………考えない事にしよう。
目を閉じて。
感じたのは、柔らかさ。それに熱。そしてそれに気づいた瞬間、はっとして……いや。より正確に表現するならば、ギョッとして、身を引こうとした。はずだ。
その前にあの男に引き寄せられたから、引く事は叶わなかったが。
あぁうん。それは正しくないな。
引き寄せられたと同時? いやそれより少し先だったかもしれない。自分もまた、あの男を抱き寄せていたのだから。
ギョッとしてしまったのは、あの男の唇と、それから舌も。柔らかくて、温かくて、湿っていたからだ。わたしのそれと、そして今まで口づけを交わした誰かと同じように。
その熱と柔らかさで、わたしはあの男が、自分と同じ人間であると、「悟った」のだ。
……悟らされたと、言うべきか。
今となってはあの男がわたしと同じ人間であると、体温があり、呼吸をし、汗をかく人間、生き物である、あったと、分かっている。
なにせあの男は、銃を口にくわえて頭を吹っ飛ばして、死んだのだから。
しかしその時、唇が触れ合ったあの瞬間まで。わたしはあの男もまた人間であったと、自分と同じ生き物であったとは……知らなかった。思っていなかった。
じゃぁ何と思っていたのかと聞かれても困るが。
だから、驚いて、その事実に柄にもなくうろたえて、身を引こうとしたのだ。
まぁ身を引こうとした結果、より触れあうことになり、わたしは否応なく、あの男を感じることになったわけだが。
服の上からでも判る、しっかりとした肩と胸の筋肉。手首と首の細さから、どちらかと言えば虚弱な印象を受けていたのだが、どうやら着やせするタイプだったようだ。
背に回した手が感じたスーツの上着の肌触りの良さは、予想通り。
あの男の舌は、柔らかくも強靭であった。そして唇も。
濡れていたせいなのだろうか。触れあっている間はひどく熱く感じたのに、離れる瞬間、冷たさを感じたのは。
あの瞬間……あの「瞬間」とわたしは言っているが、あれがどのくらい続いたのかは、判らない。知るすべもない。
ただ、ついに唇を離して見つめあった時。あの男も、そして恐らくわたしも、呆然としていた気がするが、あの男の唇が少し腫れていたように思えたから、ついでに言えばわたしのソレがひりついているのを感じたから、短くはなかっただろう。
やってしまった。その自覚はある。
恋だの間のどころか、情すらなく。あるとすれば憎しみ……? いや? それも一種の情なのか。感情の一つだから。それから執着と嫌悪も。
そんなものしか持ちえない相手であるあの男と、それでもあの瞬間、永遠の一時。ナニカが通じあい、なにかを交わし合ってしまった。
何故そうなったかなど、わたし自身が教えてほしいくらいだから、分かるわけがない。そしてこれからも解ることなどないだろう。
たかが、口づけである。
たかが、ただの一度きりの、キスである。
身体の中で二番目に柔らかい部分を極限まで近付け、呼気と唾液を一時混ぜ合わせた。それだけだ。
それでも。
あの瞬間。あの時の事は、この胸の底の底にしまいこみ、墓場まで持っていくとしよう。