第三話 記憶
二人が朝食を食べていると、黒いショートボブの女が机に紅茶を置きながら愛澤に訊いた。
「そろそろ教えてください。どうして教えてくれないのですか」
その女の質問に愛澤は首を傾げる。
「何のことでしょうか」
「本当は知っているのでしょう。私の本当の名前」
唐突な質問に愛澤は笑みを浮かべる。
「僕は記憶のピースを与えるのが嫌いです。それを与えることであなたは傷つくことになる。それがどうしても許せません」
「それでも私は本当の名前が知りたい。あなたは私のことを知っている。だから私はあなたと行動を共にしているんです」
この女。日向沙織は記憶喪失である。もちろん日向沙織というのは偽名。愛澤春樹は彼女の本当の名前を知っているが、中々教えようとしない。そのことに日向沙織は怒っている。
「急速に記憶を取り戻すことは体に負担がかかります。これ以上あなたを傷つけるわけにはいきません。というのが本音ですが、やはりあなたには負けます。少し早いですが一度だけあなたの本当の名前を呼びます。それを呼ぶことで頭痛があなたを襲うかもしれませんがよろしいですか」
愛澤が確認すると日向沙織は首を縦に振る。愛澤は一呼吸置き名前を呼ぶ。日向沙織は息を飲み自分の本当の名前を聞く。
「江……」
タイミングが悪いとはこのことである。彼が彼女の本当の名前を呼ぼうとした時、愛澤のスマートフォンが鳴る。その画面に表示された名前を読んだ愛澤は頬を緩ませる。
「愛澤です。そろそろかと思っていました。見つかりましたか。そうならばこれから会いましょうか。待ち合わせ場所はそちらで予約してください。それではまた会いましょう」
その電話を受け愛澤は笑顔を見せた。そして彼は日向沙織に頭を下げる。
「ごめんなさい。急に野暮用ができたので、名前はお預けです」
日向沙織が不満そうに頬を膨らませると、愛澤は彼女の頭に触れる。
「その代りヒントを教えます。あなたの本当の名前は植物の名称と同じです。漢字は違うのですが。以上のヒントで推理してください」
愛澤は日向沙織の頭から手を離し、ジョニーに一言告げる。
「少し野暮用が入ったので会議を欠席します。このことはウリエルたちに連絡してください」
愛澤は白い歯を見せ愛車の鍵を握り、外出する。その後でジョニーはスマートフォンを取り出しウリエルにメールを打つ。
だが彼の手を日向沙織が掴む。
「ジョニーさん。愛澤さんを追跡しませんか」
その日向沙織の申し出にジョニーは目を点にする。
「なぜあいつを尾行しなければならない」
「多分先程の電話は女からだと思うから。そうじゃなかったら愛澤さんが笑顔になることはないでしょう。この二カ月間愛澤さんと同居して分かったことですが、愛澤さんは笑顔を見せない」
「それは間違っていない。だがあいつに女がいたとしてもお前には関係ないだろう。それともお前はあいつに恋しているのか」
ジョニーの言葉に日向沙織は赤面する。
「私はただ愛澤さんのことを知りたいだけです」
「分かった。ここはあいつを追跡する。早くしなければあいつのヤンボルギーニ・ガヤンドを見失う」
ジョニーが愛車のポルシェ・ボクスターの鍵を見せると日向沙織は笑顔になった。