第一篇。準備、誰のための?
第一章。冬、刀の先に染み付く温もりが
第一篇。準備、誰のための?
「シダロク研究所?」
シナは頷きながら、ジンヘ(真恵)の反応を待っていた。久しぶりの姪っ子との食事で心が浮き立っていた伯母は、しばらくスプーンを下ろして悩む顔付きで問いかけて来た。
「それって、韓国の?」
「ん。一応はね」
「私には初耳なんだけど」
「こっちもそうだったよ。出来たばかりだってさ。でも、ああ見えても、国直属の国立研究所だし、研究員全員も公務員のような福治を貰えるそうだよ?家賃と食費、生活費まで全部払ってくれてるみたいだしね」
出来るだけ何気ないように言いながらジンヘを覗き見た。目を丸くして、彼女は聞き返した。
「あれ全部?」
「ん。全部」
ずっと自分のことを大切に育ってくれたジンヘの目付きに、シナは思わず緊張してしまう。昔から彼女にはシナの嘘がどうしても通らなかったから。
結構長い時間、見合っていた二人の間の沈黙を先に破ったのはジンヘの方だった。
「本当に信じ切れるの?」
「おじさんから勧めてもらったもん。信じていいと思うけど」
「所長から?何だ、あんた、まさか贔屓なの?」
シナは、「あんたにそんなことも出来るとは思わなかったよ」って顔で自分を見ているジンヘに、少し頬を膨らみながら言い返す。
「その方が楽だったけど残念でした。テストは適性テスト一つだけで、おじさんも内容までは分からないって言ってたよ」
「ええっ、じゃ、あんたの成績が良かったってこと?」
「…ま、そういうことになるね。難しく問題じゃなかったし」
そう。難しかったとは言えない。むしろ、見てても自分の目を信じられなかったのが問題っていうか。頭に再生されるあの日の問題にシナは困ったように微笑んでしまった。
内容まで喋ったらジンヘは「そんな怪しい問題を出題する所は信用できないわ」とか言い出して、食卓を逆さまにしてしまうかも知れない。シナのためなら水火の中も厭わない彼女のことだから。幸いに、ジンへはそれ以は聞かず、ため息だけ吐いていた。
「そっか、所長さんの紹介だって言うから一応は信じてみるけど、採用基準に比べれば福治が良過ぎてちょっと気になっちゃうわね。あんな大金を安々払ってくれるのかな?もしかして、仕事が超難しいとか」
「そっちは大丈夫と思うよ。説明会行ってたけど、そこまで厳しい仕事じゃ無かったから。」
「そう?仕事って、何すれば良いの?」
「……」
その質問に、再び説明会のことを思い出す。
「我々の目的は、ある国の文化を研究することです。新入りの研究員の皆さんには、研究所から指定する特定の人物の保護と、テーマに相応しい結果の報告をしてもらうことになります。仕事中には状況によって、1年以上の出場になるかもしれません。また、多少の危険もあるかと予想されます」
その代わり、大した問題が発生せず、プロジェクトを無事に終わらせば、こちらで就業も出来ますよって試験管は笑っていた。
今一、一日を過すこと自体が危機だらけのシナには、多少の危険も長期出張も、後の華麗な対価を考えると悪くないようで、合格までした上で今更になって断るつもりは全く無かった。
「ただのケンキュウ」
でも、今ここで聞いたように言っちゃったら、伯母は必ず反対するだろうと思ったシナは簡単に言い切って、ポツリと笑って見せた。ジンヘは気の抜けた顔でもう一度聞き掛けた。
「ただのケンキュウだって?あんた、ちゃんと聞いてた?本当にあそこ、信用できるの?ね、シナちゃん、研究なんて初めてじゃない。これから大学校の入学に、勉強の時間も足りないはずよ?研究の時間、作れる?」
「良いって、平気、平気。おじさんから紹介してもらったって言ったでしょ?そこまで根本の無い職種じゃないって」
「でもね、シナちゃん」
「ダカラ。私、今住んでる家からも出て行こうと思うの。研究中には提供してもらう別の家で住んでもらうって」
「は?シナちゃん、今の家だって、住み始めたのも一ヶ月しかたって無いじゃん!」
「途中に発生する費用は全部払ってもらうことにしてるよ。だから、住所変わっても驚かないでね」
家の話で、ジンヘの顔が一気に暗くなる。シナはわざとふざけながら笑って見せた。
「もう、そんな顔止めてよ~伯母ちゃんがあたしの事、一所懸命育っててくれたのは感謝してるけど、そのせいで、伯母ちゃんの結婚に邪魔者になるのはいやだって言ってきたじゃない。あのおじさん、いい人だよ?あたしに美味しいもん買ってくれるし、伯母ちゃんの年でもうあんな旦那さん、見付けないって。私、もう二十歳なんだよ。もうとっくに住民登録証まで貰ってるのに、いつまで子供扱いする気?伯母ちゃんはもう、私じゃなく、自分の子供を育つべきだよ。それにね、正直、これ以上年取ってしまったら、ウェディングドレスでもカーバできなくなっちゃうわ。子供はどうするの?私はいつになったら従兄弟に合わせてくれるつもり?」
「ま、ま!何言ってるの!恥ずかしい!」
もう、シワが増えちゃったよとか何とか言っても、乙女のように照れてるジンヘを見て、シナは嬉しそうに笑った。姪を一人にする訳にはいかないって、愛する男のプロポーズも断って結婚を後にしてきたんだ。
あれを初めて聞いた時に感じた惨めな思いと悲しい気持ちも全部、今の笑顔で報われるみたいだった。シナは心の中で唱えていた。これで良いんだと。
「ね、おばちゃん」
「なに?」
「今までありがとう。ママとパパの変わりに私のこと、育っててくれて。私はもう、自分の道を自分の足で歩いて行くよ。だから伯母ちゃんも自分の道に戻って。私のために貯めてる貯金だってもう要らないから、二人の結婚式に使って。私の結婚プレゼントだから、断ずに。ね?」
「……」
涙を抑えている彼女も見て、伯母ちゃんって、もともと泣き虫だったなと思うシナの目にも雫が出来ていた。
「幸せになってね、伯母ちゃん。必ずね」
結局、そこまで聞いた途端、ジンへは食事を止め、涙をポロポロ泣き出してしまった。未来への不安と堪えてきた古き済まないという気持ち、そして隠してきた痛みさえ全部溶け出すような夜だった。
* * *
翌日、朴ジボム研究所長は研究所の近くにある食堂まで尋ねてきたシナを見た途端、愉快に迎えてくれた。
「これは、これは!優秀研究員さんじゃないか」
「何ですか、その呼び方」
「昨日、報告してもらったんだよ。一番目の合格者なんだってな。おめでとうさん。偉いぞ」
「私って、元々偉いんですよ」
シナの自慢そうな答えに笑いながら、彼は自分の前の席を勧めた。シナは食卓の上を飾っているスン豆腐チゲ定食に満足げな顔で座りながら問いかけた。
「本当、助かりました。ありがとう。おじさん」
「お礼を言われる筋は無えよ。贔屓でもないし、紹介だけだからさ」
「半分は経験でもしてみようかなって気持ちだったけど、思った以上の経験でしたよ~紙に文字が勝手に書かれるのは何?新奇術?職員の顔も皆そっくりだったし!合格基準もさっぱり分からないし!」
「これはこれは。自分が知りたいから呼び出したわけか。だが残念。同じ研究所だからといって、そっちとは研究分野が全く違ってさ。俺にはそっちの答え無いな」
「あら、そう?残念。すっごく気になったのに」
惜しいように、シナはため息をついた。
朴研究所長はシナの両親を結んでくれた張本人で、二人の師匠であった。二人の死後、その娘であるシナの後見人になることを自分から言い出して、シナが高校生になるまで支援してもらったのだ。
勿論、経済的に直接的な助けより、シナが自分で何かを求めると、それが手に入れる方法を教えてあげるくらいの手助けだったけど。だが、シナにはそれだけでも結構助けてもらっていた。
シナの戯言に彼は笑い出して、話は続いた。
「折角だし、祝いの一杯、どうだい?」
「午後にも研究するんでしょう?仕事中に飲酒なんて、それって勤務怠慢ですよ?」
「良いじゃんかよ、一杯くらい。祝いの日だぞ」
「却下です」
切り出されるそうな断りに朴所長は口を突き出して文句を表した。
「何だ、冷てえな奴。今回も断る気なのか?」
「おじさんて、酔っ払っても隣の人に良いことなんか、全然してくれないタイプですからな。私、メリットのない振る舞いはしたくないの。後でちょっと用事もあるしね」
「はははっ、そうかい、君はそういう奴だったな」
自分に帰ってくるメリットが無ければ、わざと時間も気持ちも与えない。そして普通、そこには経済的な問題と関わっていた。伯母と二人暮らしであったシナは、ジンヘの代わりに家事や家計を担当していたので、経済的な問題には他の人より敏感な所があった。
はっきりと自分の立場を言えることすらも、朴所長が自分の後見人で、お父さんのように親しく感じているからだと朴署長は見抜いていた。
「それで、家のことはどうすることにしたかい?先月、一人暮らしを始めたとか言ってたな」
「研究所で支援するからもっと大きい家に引越ししてくださいとか言われましたよ。折角だから大町の方にしてみるかなと思ってるけど」
「そっか、Q大学だと言ったな?」
「ええ。学校は適当にいい方なんだけど、専攻は別に人気無いんだ。でも、自分の成績がそれほどで、Q大学にギリギリでも進学するにはそれしかなかったんです」
「俺は良い判断だと思うぞ。複数専攻って奴もあるからさ、後で研究所関連の専攻も一緒に勉強しておけば良かろう」
「給料上がってくれるなら考えとくわ」
「全く、呆れたぜ。こらっ。そういう意味で一杯…」
「断ります」
シナがもう一度断ると、朴所長は何かを見抜いたように笑いかけた。
「ほお?一体、どれだけきつい事を頼むつもりかい?」
「あら、バレちゃった?」
「君のああいうパタンは見慣れてんだよ。まったく。俺の娘と息子もここまでは引かないんだぞ?ケチな奴だな、君は」
「実はね、二つ何だけど」
「で、何だ?」
「あたし、晩飯ありません」
「そいつは簡単で良いな。帰り道に晩飯用の食事、奢ってやるから待ち帰りに貰って行け」
「やった!さすがのおじさん!最高!」
シナは直ぐに態度を変え、溌剌で活き活きに答えた。丸見えな行動でも、所長はこのようなシナのハッキリとした性格が結構気に入っていた。呆れるとような顔で朴所長はにやりと笑った。
「もう信じないぞ。あの嘘は」
「ええっ、冗談やめてよ、お父さん~」
「底気味悪いからいい加減にしておけ。お父さんまで出たって事は、2番目は相当難しいようだな?」
所長の言葉にシナのうわべの笑いがもっと広がる。しょうがないなって顔付きでため息を吐いた所長はほら、言いなさいというように顔を斜めに振ると、シナは慎重に言い出した。
「実はですね、昨日の説明会の時、研究前の初課題を貰ったんだ。そこでちょっと、お父さんの手助けが必要なんですけど…」
「課題?ほお、これは否定行為でもする気かい?酒一杯で足りないんじゃないか?」
「いや、そんな深刻なことじゃ無いから心配しないで。代わりに精一杯のみますって」
「は、要らん。君の酒量は把握してるからな。で、課題というのは?」
シナは答えの代わりに、持ちかけていたかばんの中から紙一枚を出して内容を見せた。所長はそれを口出して読み始めた。
「課題です。下の寸法は研究対象の基本的な身体の寸法になっております。この数字に合わせた下着…を求めてくださいと?ちょ、待ってよ。これって、男の寸法のように見えるが?」
「はい。そこが問題なんですけど」
詳しい内容を知った所長も困ったように虚しく笑った。シナは彼に頼みたかったこと、そして自分の課題をため息を吐きながら一言にまとめた。
「つまり、私に男のパンツを求めろって言うのです。はあ…」
1.住民登録証って言うのは、韓国の身分証のことです。
普通の国民なら満18歳になると市役所などでもらえます。
大人になったっていう証拠で作用します。
時々酒を飲むとか買う時、書類を発給してもらうときなどに使われております。
2.シナは今までおばちゃんと女同士の二人暮らしをしてきたので、
男の下着なんて買うところか、接したこともありませんでした。
彼氏がいなかったって言う証拠にもなりますね。