日中紛争
日中戦争は紛争と言う形で終える事にしました、ここで下手に戦争してたら米英と
戦争できませんからね。
因みに開戦は41年ではなく丸1年早くするつもりなのであと3年次回で国家総動員
を実行し戦時体制へ行こうします。
悟が卒業する前年1937年7月7日北京西部盧溝橋で発生した日本軍からと思われる銃撃がきっかけ現地は直ぐに混乱状態になり正確な情報が得られなかった事が事態収拾を遅らせた、結果両国軍が増援を出し合い更に激しい戦闘となった。
後に行なわれた調査で両国の保有していない銃器の薬莢が発見された為本格的な調査が実施される事に、
証言人も出たが実際の所はなぞが多い残る事件となった。日本政府と蒋介石側との話し合いの末一応の
終結をみた。以後両国は今事件の再発防止に腐心する他両国市民との関係改善へ向け取り組んで行く。
それは悟が生きた世界とは違う歴史となっていく。
そもそも日本が中国大陸に拠点を構えるに至った経緯は第一次大戦だった当時のロシア帝国はドイツの侵攻により特に食料の確保に苦心していた。日露戦争の折両国は日本海・旅順などで激闘を繰り広げた結果
日露戦争はロシア帝国は日本軍により撃破されロシアの日本は阻止した、戦争終結に伴い樺太など後に、
石油が発見される地域を割譲を受けるなど日本側も多くを得ることが出来た、以後両国は事実上の
同盟となる日露協約が調印されたこれはその後幾度か変更などが行なわれる。
こうして大陸側に拠点を置いた日本軍は第一次大戦時ロシアに対する大規模な支援の拠点として蒋介石に
要請し中国の土地の借用が決まった(ちゃんと話繋がってる?・・・まぁいいか!)
日本帝国帝都東京斉藤邸
卒業を控えた悟は一時帰宅が許され実家へ戻っていたここで予想もしない展開があるがもう少し先の事
この日は父斉藤一道とで入隊後について意見が交わされていた。
父 「悟お前は入隊後やりたい事は無いのか?」
悟 「軍艦勤務となれば艦長になるにも5年は掛かるでしょうからやりたいことと言われても・・・」
父 「海軍は陸戦隊もあるが?」
悟 「あれは臨時編制で常備部隊で無いので」
父 「なら新部隊として編制すればいい今後必要になるかも知れん」
悟 「なるほどさすが父上実は陸戦隊の運用について考えがあるんです!」
こうして夕食を挟み一晩かけて海軍陸戦隊の未来に花を咲かせるのだった。
数日後悟は海軍軍令部への出頭を命じられた彼はそこに居たのは時の、
日本帝国海軍連合艦隊司令長官吉田善吾以下空母機動部隊創設の立役者山本五十六・機動部隊の指揮官
小沢治三郎など太平洋戦争時海軍における最重要人物らであった。軍人としての挨拶をし席に腰を下ろす
その後日本海軍は悟の案を取り入れた日本版海兵隊へと繋がってゆく。