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苦手な方はご注意ください。

アース100.5(樹治名将言行録シリーズ)

樹治名将言行録 ~羽黒圭馬伝 補遺 桜のあと~ 

作者: 瀬戸内弁慶

初めての人は初めまして。

そうでない人はまた会いました。


絶賛不人気連載中のエセ架空戦記「樹治名将言行録」ですが、かつて同一世界観で書いた短編を微修正し、次の繋ぎとして投稿させていただきます。


何故かこの頃と比べると今の方が文章力が劣っているという不思議。

 いくさ場の土塵よりも、書庫を舞う塵も好きだった。

 格子窓から漏れる陽の光に当てられて、白く輝き音もなくしずしずと舞う。その様子が好きだった。

 床の木目を踏みながら写本の詰まった棚を眺める。商人から買い得たものが半ばを占めたが、自らの書き写したものもいくつかある。

 ――齢二十にして、家禄の大半はここに費えているのは、「学によう励む」と我褒めすべきか嘆くべきか。

 若武者は自嘲した。

 

 桃李(とうり)府公(ふこう)桜尾(さくらお)家中、羽黒(はぐろ)家領有、岩群(いわむろ)城二の丸、ここがこの男、羽黒圭馬(けいま)の屋敷だった。

 書物を一冊二冊抱えて書庫の戸をくぐると、義兄の顔があった。


 羽黒圭輔(けいすけ)

 端正な顔立ちだが、どこか本邦離れしている。

 枯れ草色の髪、長いまつげに二重まぶた。鼻は高く、引き締められた唇は赤い。

 何よりその両目は、左右で色が微妙に食い違っている。

 左目は黒、右は胡桃色。

 放つ光はまるでむき出しの太陽のようであり、何も音を立てず、ただ激しく燃えているようでもある 


 その威圧感に圧倒され、思わず書を後ろ手に回してしまう。

 圭馬は歯を見せた。


「これは兄者、お出迎えにも出ず申し訳ないことで。誰か報せてくれれば良かったのですが」

「いや良い。下の者には僕から報せないように言いました。それに気づかないのは、ただのお前の不注意です」

「…………」


 兄の声は短く歯切れ良く、銅板を響かせるような不思議な声だ。

 ――代々武門の家柄の桜尾家中で、こんな声を出せるのはこの方ぐらいのものだろうな。

「内密の相談です。まずは落ち着けるところに出ましょう」



 昼前。圭馬宅の客間。

「さて」

 と兄弟二人、向かい合って足を崩し腰を落ち着ける。

 圭馬の膝元には写本が何冊か重ねて積まれている。兄の突然の来訪に、狼狽してついそのまま持ってきてしまったものだ。

「お茶、お持ちしましたぁ」

 妻のくにが示し合わせたすっと現れ、朗らかな声をあげる。

「やぁご内儀、お久しぶりです」

「あら義兄上、お久しぶりです」

 二人丁寧に向かい合って頭を下げる。それを微笑ましく見守っていた圭馬は、間を測ってから、すっと神妙な顔をして咳払い。

「分かってますとも」と妻くに、目で語り茶を運び、それとなく部屋を出た。


「さて」と兄弟二人、額を突き合わせる。

「まずは先の戦、しんがりご苦労でした。いずれ正式に加増の沙汰をします」

 圭輔が目で笑って湯呑みを掲げ、照れて圭馬は耳を掻く。

「劣勢の味方を、未だ少領の羽黒が支えられたのは、ひとえにお前の奮戦によるところが大きい。そのおかげで全軍の副将たる僕も、総大将たる兄も無事逃げおおせたわけです」


 兄、と言ってもそれは羽黒圭馬の兄ではない。

 羽黒圭輔、旧名桜尾晋輔(しんすけ)の四兄、成種(なりたね)である。

 圭輔は、桜尾本家の五男であった。


「いやいや、兄者。この度は武運つたなく負け申したが、いずれは巻き返しましょう」

「無能な兄を持つと苦労しますよ」

「ハ、ハハ……」


 樹治(じゅち)五十九年の夏、

 桃李府公、桜尾成種率いる軍と、風祭(かざまつり)親永(ちかなが)率いる敵軍とが野戦において衝突した。

 数で劣る相手との戦いであったが、全体的な戦果としては敗け、であった。

「挽回は、しますよ。僕らの手でね」

 と、兄は断言する。弟は頷く。


「そのためにも後顧の憂いは絶たなければならない」

「なるほど。それで、ミツメイというやつですか」

 圭輔は重々しく顎を引き、素焼きの湯飲みを両手でくるんで口づける。

「……圭馬、タガケを知っていますね」

「タガケ?」

木津(きづ)兵部(ひょうぶ)は知っていましょう」

「ああ、あれはいい男です」

 圭輔は重々しく頷いた。頷いてズーッと音を立てて茶をすする。


「その彼の陪臣です。田掛次郎兵衛(じろうべえ)。歳は二十そこそこ。勤勉できまじめ、多少融通のきかないきらいはあったが、なかなかの剛勇でした」

「でした、と言いますと」

「死にました、前の戦で」

「それは……」

 頭を下げかける圭馬を、湯飲みを置いた圭輔が手で制した。

「弔辞を述べる相手が違う。述べてもらいたい相手はその田掛家です。ご母堂は五年前に病で亡くなり、今は妻子二人のみ。子が家を継ぐことになりましょう」


「お待ちください」

 と圭馬は、手で制す。

 それでは密命とはそれがしに弔辞に向かえと言うことですか、と。


「仕方ないでしょう。僕は敗戦の責で謹慎の身、表だって動けば、僕を快く思わない長兄や次兄にも痛くもない腹を探られる。兵部にしても、足に受けた槍の傷がまだ癒えておらず、かわやに行くのもままならないとか。今羽黒家中で壮健なのは、常在戦場の身、常時馬上の人にも関わらず、受けた傷は腕のかすり傷だけのお前ぐらいなものです」

「しかし」

「不服ですか?」

 圭馬は兄と目を合わせる。兄は厳しい目を向けてきていた。


 いつもの、義兄と同じ、底冷えするような眼差しだった。

 圭馬は首をすぼめる。


「いや、お受けいたします」

「では、早速明日にでも」

 圭馬は頭を下げる。

 畳の上にふたつの湯飲み。中の薄緑の水面が、ゆっくり回って二人の顔を映す。

 

 

 玉口(たまくち)城は、山の小城である。

 羽黒家先代当主、圭馬の亡父が築城した、縦に伸びた連郭式の城。圭輔の代に改築し、兵部に預けていた。

 屋敷は敵を防ぐ曲輪の連なる手前、細い台地の先端部にあたる。

 屋敷を出て柵より見下ろせば、城下がスッパリと一望。巨大な一本松の生える東から大川の流れる西までの一里が羽黒家の領地と決められている。

 とは言え、政戦双方の激務に追われる圭馬たちに、町を実際に見聞に行く機会はなかなか訪れない。本は大概使いの者に金を持たせて買わせに遣っている。


 ――そう考えるならば、今回の任務、町の様子をじっくり知る良い機会、には違いないが

 

 申の月二十日。昼時。城下の侍町。

 ここに城には住めない中流以下の身分の者が集まって住まう。


「だが解せん」

 と。


 笠をかぶり黒で染めた麻の上下、圭馬は顔をしかめ首をかしげ、町を練り歩く。

 日は白々と中天にのぼる。東を向けば青々とした松が、遠く山のようにそびえているのが見えた。

「兵部はいい男だ」

 圭馬は言う。

「だが何故外様の、そのまた家臣の弔問を、しなきゃならんのだと思う? これはあれかな? 兄者はこれを名目に俺に休めと言って下さっているのかな。ならばこうして足を動かしているのは主命に反することになるが、さて」

 身はお忍び、前を歩く供は妻くにの兄。

 義兄はニコリともせず切り返した。

「いやならば、断ればよろしかったかと」

「そうは言ってない。ただすんなり腑に落ちんだけだ」

「ならば自らの責務を遂行なされい」

「だな」

 答える圭馬は、相変わらず敵を作る物言いだと、こっそりその男を気遣う。

 地理に明るいということで自分について回るのが、この義兄景時。

 その景時について回るのが、不名誉な二つ名だ。

 傲慢役人、首切り、鬼代官、えんまさま。

 しかし実際のところ、赤らんだ強面を持つこの代官の裁きは公平だ。それに冷たい物言いと違い激情の持ち主という一面もある。

 敵領へ亡命しようとした罪人を追い、敵味方の国境で切り捨てたという話も、一度でなく何度も耳にする。その苦情の度に若い羽黒兄弟、顔を突き合わせて苦笑と嘆息ものだ。部下であり畏敬する人物なのは確かだが、それ故『困った長兄』には違いない。


「こちらが例の田掛殿のお屋敷です」

 この景時が鬼のよう強面を門に近づけ、皮の厚い拳でドンドン叩く。陪臣と言えど五百石どりの足軽大将の家。玉口城内の者達ほどではないが、ここでは目を惹く大きさだ。

 庭にはポツリ、背の高いグミの樹が植わっている。桂馬はその横を通り過ぎ、景時と入れ替わり門前に立つ。故人の人柄らしく、質素なつくりの屋敷だった。余計な装飾はないが、土の塀は高く厚く、何より堅固だ。

 ギッと軋んで門が開く。

 老いた、背の低い下男が、狐のような細目で無感動にこちらを見上げてからぺこり、頭を下げる。

 土色をした顔を見つめていた圭馬だったが、ふと


 ――ハテこの男……?


 既視感にとらわれた。つい最近、どこかで会ったような。

「あの……?」

 老人が訝しげに顔をしかめたので、圭馬はあわてて名乗った。

「羽黒圭馬と申す。こちらは義兄の景時。我が兄の羽黒圭輔、および同輩木津兵部殿の名代として参った。で、内儀はいらっしゃるかな?」

 玄関から先は日中だというのに暗い薄闇が下りていた。その暗がりの中を

 ひたり……ひたり

 と歩く足音がゆっくりと近付く。

 圭馬がその音が近付くのを待った。ややあって「お待たせいたしました」と、やや緊張気味に、低い女の声が聞こえた。圭馬は顔を上げた。そして思わずアッと息を呑んだ。

 喪に服す女の襟首からのぞく肌は病的にならずに白く、足の前で組まれた手の先で、桜色の爪がほんのり闇の中で浮かんで映える。


「亡き次郎兵衛の妻、かよと申します」


 若くとびきり美しい女だった。

 

 

 田掛家奥座敷。日の光は土塀に遮られ、中庭に接しているはずのここでもどこか薄暗い。それともこの暗さは主の死去という不幸の暗雲が陰を作っているのか、と圭馬は一瞬思った。

「受け取れない?」

「申し訳ございませんが」

 もの優しげな姿とは裏腹に、かよは毅然と、再び拒絶の意思を示す。

 不意を突かれて目を丸くする圭馬は、畳の目を数えながら訊いた。

「あー、えっと、それは謙遜かな?」

「いいえ」

 と、これもまた毅然。畳の上の遺髪に目を移し、圭馬は腕組みして嘆息した。彼の背後で黙りこくる景時は、大きな影のようだった。

「しかし、これは木津殿から預かったもの。それを受け取れないとは……それがしが困ってしまいます。なにぶん部外者ですので。どこの馬とも知れないそれがしに手を合わせられ崇められても故人としては不本意でしょうから、やはりここは妻たるあなたの役目だ」

「申し訳ありません。しかし」

 圭馬は耳の裏を?いた。

「どうしたものかな。こういうのは本人の考え次第だと思うんだが、しかし」

 始末に困る、という言葉を圭馬は飲み込んだ。

「ただ、私には受け取る資格がないのです」

 圭馬の怪訝そうな視線から逃れるように、かよは視線をそらした。

 それ以上追及するのを圭馬はためらった。そして沈黙が下りた。庭の樹でヒグラシが鳴き、風が吹いて葉が鳴り合う。


「かよ殿、かよ殿はご在宅か!」


 沈黙を破ったのは圭馬でも、かよでも、ましてや景時でもなかった。外からかかる大きな声。

「お呼びですな」

「私、見て参ります」

 どこかほっとしたようにかよは立ち上がった。それを圭馬は手で制した。

「ああいえ、それがしも今日のところは出直します。ご主人の遺されたものは、ご決心がつくまで預かっておきますので」

「すみません」

 頭を下げるかよにあいまいに笑いかけ、圭馬と景時は逃げるように田掛の家を出た。

 

 

 昼過ぎ、門前。

 鉢合わせた男は、圭馬と鉢合わせると、驚きと、やや失望の色を隠さなかった。とっさのことで隠せなかったのかもしれない。失望よりも、気まずさがあるのかもしれない。

 とにかく、男はいやそうな顔をした。

 四十がらみ。背は高く瓜のように細長い顔のかたちをしている。


「やぁ成種様。妙なところでお会いしましたな」

「あ、ああ羽黒の。まこと、妙なところで出会った」

「それがしは亡き次郎兵衛を弔いに……とまぁ桜尾の若殿様には関わりのないことでしょうが。成種様こそ、どうしてここに?」


 圭馬としてはごく当たり前の、当たり障りのない言い方をしたつもりだった。

 本当は「兄と同じく謹慎中なのに、こんなところにいて大丈夫ですか?」と尋ねたかったが、そこは良識が口をつぐませた。

 が、相手はむっと膨れて、

「そのほうの知ったことではないわ。いかに晋輔が同じ桜尾の一門衆と言えど、養子に入れさせられたあやつと余とでは、与えられた責務の重さというのが違う。その義弟というだけで出しゃばるな」

 吐き捨てるようにそう言うと、きびすを返してすぐ帰って行った。


「あれは?」

 景時が頭を屈めて家から出てきた。その後からいそいそと、かよが現れる。

「あれは桜尾成種様。まぁ兄者の、兄者だな」

「あまり褒められた人間ではないようですが」

「……主家筋なんだから舌に衣を着せてくれ。口どころか首が寒くなっても、俺は知らんよ」

 ゴホン、圭馬は咳払い。銅板を鳴らすような声色を作って、威厳を持たせて続ける。


「臆病と卑怯という両輪を権威という暴れ馬が曳いて、辛うじてそれにしがみついているような男」


 珍しくぎょっとしたように圭馬を見る景時。圭馬は笑って片手を振った。

「と、それは兄者の評だがな。まぁあまり良いウワサを聞かん御仁であることに違いない。反圭輔……ああいや兄者を快く思わぬ一人だが、俺はそれほど憎くはない。むしろ哀れむ」

「哀れむ、ですか?」

 かよが口を挟み、圭馬はらしくもないと自嘲しつつ長広舌をふるう。

「そう、生まれた時から文武の才を期待され、上は主家、下は領民を守るために知恵を振り絞り、期待にそぐわねば不平をぶつけられる。千を超える責任を望んだわけでなく背負わされ、それは片付く目処すらつかずに一生を食い潰されていく。そして精神はすり減らされる。生まれつき貴種というのはとかく羨まれ憎まれがちだが、ただ生きる、生きて当たり前のことをするというだけで大変なものなのさ」


 ……兄を見ていて、つくづくそう思った。

 そして絶対に己では勝てぬと、羽黒の家督は兄の手にあるべきなのだと、知ってしまった。


「その貴種が」

 鬼のような面が圭馬の左隣から突き出る。

「何故この田掛邸に参られたのか、気にはなりますまいか」

「ああ、気になる。――と、そんな訳でかよ殿。あの御仁はよくおいでになるのかな?」

 圭馬はかよに首を向けた。彼女はうつむき、その白い顔に陰を落とす。

「……それは」

「奥さま」


 老人の、低いしがわれ声がかよの言葉を遮った。あの下男。

「そろそろ、例のお時間でございますが」

「ああ、そうですね」

 はっとしたようにかよは老人の方を向いた。圭馬はそこに、若干の安堵を見た気がした。

 それを見逃したのは、かよがあまりにも、その名残すら見せずに無表情になったからだった。

「すみませんが私、所用が残っておりますので」

「ああ、お気になさらず。では、またお伺いします」

 圭馬はこだわりを持たずにすっぱりそのことを忘れた……そういうふうに、振る舞った。

 一礼して、身を翻す。

 

 門をくぐって三町ばかり出た辺りで、圭馬は表情を改めた。顔をゆがめて、首を傾げた。

「――やはりあの爺さん、どこかで見たな。それに、あのさりげなく気配を消して間に割って入った身のこなしも気になる」

「根拠はないのでしょう」

 景時の答えはにべもない。

「おれの言葉に根拠はないが、向こうは俺の顔を知っていたようだ」

「と、言いますと」

「あの老人は、おれの顔を見るなり頭を下げた。つまりこの身なりで知っていたのさ。自分の主より、身分が上とな。景時殿が門を開けた時は違ったろう?」

「杞憂では」

「杞憂で済めばそれに越したことはないが」

 顎をつまむ仕草の景時をちらり横目で見ながら、圭馬は誰にともなく頷いた。

「ことの始まりはあの兄の突拍子もない命令からだぞ。それが思わせぶりのまま無意味で終わるか?」



 二十五日。夜半。

 二の丸の圭馬の屋敷に、一人の男が来訪する。田掛の一件で調査を依頼されていた景時である。

 証言等の調査資料の数々は、繋げてしまえばこの屋敷の渡り廊下に等しいのではと思うほどで、それらが圭馬の寝室である八畳間を埋める。

「――こちらが当時軍目付をしていた知人の証言。あちらは木津殿の部隊編成と戦場における布陣図です」

 何条も入り組む川のように縦横無尽に敷き詰められる紙たちを、しばし圭馬は呆けたように見つめていた。我に返るのに、半刻は要ったのではないか。


「よくもまぁ、ここまで調べ上げたもんだ」


 と、呆れ半分に感嘆の言葉をかける。律儀で勤勉な鬼代官は誇る様子を見せない。そっと、角でも生えているんじゃないかと思わせる強面を伏せた。

「日々の勤めもあり、また人目を避けるためにもこのような時分に参上しました。まずはそのこと、お詫び申し上げます」

「いや、助かる。それにまだ寝てはいなかった」

 圭馬は、急な客人に応じかねてゴチャゴチャと丸められた布団と、ちょんとその上に載る枕を見て、そっとため息をついた。


 未練もそこそこ、書面に早速目を通す。

 景時の字は意外なほど小さく、犬の尾のように丸まっている。圭馬はそれを、半ば夢見心地、苦労して読んだ。時折景時の呼び声で沈みかけた意識を引っ張り上げられ、たっぷり時間をかけて読破した。

「見ていて気にかかることは、ひとつ」

 あくびをかみ殺し目頭を押さえ、圭馬は言った。

「それだが」

 と、布陣図を指さし


「前に出すぎてやしないか?」


 景時は改めてその図を、目を細めながら見た。

「なるほど確かに木津殿は羽黒衆の中でも突出しているようにも見えますが、戦場における先駆けは武門の誉れ。それにすぐさま後退して本隊に合流しております」

「そう、そこなんだ」

 目をしぱしぱさせつつ、圭馬の声は少年のように明るい。耳の裏を?いた。


「そもそもこの戦いは、負けると決まっていた戦だった」

「何をおっしゃいます」

「いや、そう怒るな」

「は? いえ、別に怒ってはおりませんが」

「……そうか」


 油に灯る火が景時の彫りの深い横顔を濡れたように照らしている。

 景時は物静かな調子で続けた。

「しかし、これは決戦であったはず。それを負ける覚悟で挑んでいたとは、解せぬ話ではあります」

「この戦いが決戦で大敗北というのは方便。実情それほどひどい負けじゃないし、大した規模でもない。ここにおける敗戦を、羽黒の大失敗ということにしたい方々のせいでそう喧伝されただけだ」

 すぅ、と息を吸ってから続ける。

「実はこの戦いの数日前、兄者たち首脳部の下にはある報が届いていた。風祭武徒(たけと)率いる敵の別働隊が、空になった桜尾の本領、三良城に向かっている、とな。そこで兄者らは話し合って方針を決めた。『巧遅は拙速に如かず。例えこの場は負けても、早々に切り上げて本拠に戻って別働隊を防ぐべきだ』とな」

 すぅ、と息を吸って続ける。


「おれも実際判断は正しかったと思う。もしあの時決戦に及んで勝ったとして、帰ってきた三良城には桜尾の兵の首級と敵軍ののぼりが挙げられている、というのならば目も当てられん。むしろ早く引き上げて三良城に籠もったからこそ、敵の狙いを挫いたと言える。確かに負けには違いないとも。だが戦術としての負けだ。戦略ではこちらが勝ちだ」


 夜の暗がりと火の明かりとに挟まれて、景時の目は爛々と光っている。ぐい、といかつい上半身を突き出し、口を挟む。

「つまりは……」

「当時、余計な被害を被らんよう厳命されていたはずだ。事情を良く把握していた羽黒の衆ならばなおのことな。だが、この布陣ではまるで出る杭を打ってくれと言うようなもの」

「ですから、木津殿はすぐ退いているはずです」

「景時殿。木津殿が退いたのは昼過ぎ。田掛の戦死はその直前だ。逆に言えば、田掛が死ぬまでわざと突出していたことになる。そしてこの備えの編成。木津隊の最先鋒は、田掛次郎兵衛だ」

 圭馬は頭に差し込む鈍い痛みを感じた。同輩に信頼を裏切られたという衝撃からか、それともらしくもなく推理などに頭など使ったせいか。

 菜種の油の臭いが、ぷんと部屋を浸した。


「ここまで調べたならば景時殿、木津の元の主が桜尾成種様だと知っているな?」

 景時は目をみはった。くにとの婚姻の儀の時も見せなかった、義兄の顔だ。

「木津の忠義そのものを疑うわけじゃないがな、その勇猛さを愚将の下振るわれることを惜しんだ兄者が、成種様に無理を言い色々手を回し得た人材だ」

 圭馬はそれを新鮮な目で見ていた。そして、おのれの言葉が熱に浮かされたようなのにまず驚いた。手が震えていることに、次いで驚く。興奮していた。父の書を隠れて読み、新たな知識を得た頃の感動に似た、暗い興奮だった。

「その若殿様ですが」

 景時もまた、初めて血を見た子どものような表情をしている。

「やはり次郎兵衛殿の死の以前より田掛邸をしばしば訪れているようです。しかも、その亭主がいない時に限り」

「どれぐらいの頻度だ?」

「月に二度であれば、少ないほうでしょう」

「……密通か」

 そして、夫たる次郎兵衛を疎ましく思っていた成種は、兵部の編成に口出しして、戦死するよう仕向けた、と推測できる。


 圭馬はおのれの腿を強く掴んだ。そう言い切ろうとしている自らにまず、強い嫌悪を感じた。

 十中八九はそうでしょう、という景時の断定を、耳の裏を掻いて聞いていた。

「思い出したんだがな。あの田掛の老いた下男、戦場でちらりと会ったよ。足軽装束のくせに、そこぶる健脚だったのを覚えている」

「草の者、忍ですか」

 たもとに手を入れ深々とうなだれる。畳の目が節くれだって荒れている。


「恐らく兵部が成種様からの指示を認めれば、ことは明るみとなるだろう。でなくとも他家へ口出しし、要らん被害が出たということで、あの方はタダでは済まんな。――それが、兄者の狙いか」

「何をおっしゃいます」

 鬼が驚いた。義弟を見つめる大きな眼が、まるで化け物でも見るそれだった。圭馬は耳の裏を掻く。

「兄者がこの件に直接口を挟んでいれば、いくら一門衆と言えど周囲から反発を受けただろう。だが今回は、たまたまだ。そこが鍵だ」

「たまたま?」

「たまたま。たまたま弟が弔問に行った先でたまたま何らかの陰謀を嗅ぎ付け、たまたま興味が沸いて調査した結果たまたま田掛次郎兵衛の謀殺の可能性がひょっこりと顔を出した。結果兄の政敵がたまたま失墜した。まぁそういう具合だ。景時殿?」

 圭馬はそこでようやく、景時の顔色が変わっていることに気がついた。圭馬は笑って袖から手を抜き、鬼の渋面をツルリ撫でた。優しく声をかける。

「景時殿ならばこの一件、明るみに出すだろう? いや、それならまだ良いが、成種様を評定の場で斬りかねんな」

「無論です。ですが……」

「上の者が進んで泥をかぶってくれるからこそ、我々下の者は何事もなく、ただまっすぐに己の任をまっとうできる。そうは考えられないか? 難しいことを考える必要はない。これこれこういうことがあったので、ご報告いたします。そうとだけ言えば十分さ」

 油は絶えず火を灯し続けた。油がその光をゆらゆら、鈍く照り返している。

 

 

 玉口城一の丸、申の月二十六日朝。

 木津兵部の屋敷の両脇には屈強で骨太な櫓が組まれている。その間に申し訳程度に挟まっているのが木津らしい、と圭馬は思った。

 屋根は低いが、きっちり収まっている。

 家臣である田掛次郎兵衛の屋敷も質実剛健だが、それすら上回るほど質素で無骨だ。

 縁側には櫓の影が黒々大きく落ちている。そこに腰掛けた圭馬の後ろ、木津は聞かされたことに驚くあまり床から這い出た。


「それは……まことでございますか」

「ああ。そこまでは知らなかったか?」


 木津は力なく肩を落とした。四、五十にはなるだろう。髷にはそろりそろりと白いものが混じっていて、見た目よりはいくらか老けて見えた。

「まさか……そのようなことが……いえ、存じませんでした。信じてくだされ」

 木津の声は良家の処女のように小さい。戦場での活躍が夢まぼろしのように、平時は大人しい男だった。

 傷跡残るその肩を刺激せぬよう、そっと病床へ押し戻して、圭馬は笑いかけてみせた。

「そうであって欲しかった。いや少なくとも、そう答えて欲しかった」

 木津は神妙に頭を垂れて、それからゆっくり庭へと視線を投げた。

「旧主より指示を受けたのは確かです。『再度指示あるまで、勇敢な足軽大将を先鋒に立てて、攻勢に転じよ』」

「それで、次郎兵衛か」

「羽黒殿の引き抜きに軽々しく応じてしまった負い目はあり申した。ゆえに、最後の義理と思えばこそ、その言葉に従い」

「軽々しく、なあ」

 五度も招聘を拒んだ男が何を言うか、と圭馬は苦笑する。兄はお陰で、応じるまで終始不機嫌だったのだ。

 本人以外を含めれば、さらにその上を行く。羽黒武士はどこを見回そうと有能な者しかいないと言われるが、面倒くさい者が多かった。

 枕元の脇差に伸びた木津の手を、ばしり圭馬は扇子で叩く。それでも止まらず切先を自らの腹へと突きたてようとするのにぎょっとして、圭馬は木津を羽交い絞めにした。


「お慈悲、お慈悲でございます!」

 もがく彼を圭馬は苦労して刃から引き剥がした。

「死んで償えることは何もないぞっ」

「しかし圭馬どの!」

「飯でも食うような軽さで簡単に死なれては家臣領民が迷惑するだけだ。田掛の死に自責の念があるなら遺族に十分な賠償を与えて養い、生きて本分をまっとうしろ」

「殿がそれでもお許しになるかどうか」

 との。

 敬愛する兄の呼び名を聞いたとき、圭馬はおのれの口腔にぐっと苦いものが流れるのを感じた。それを押し殺し、あえて笑顔で言った。


「この一件はまだ兄……殿には報告してはいない。つまりまだ権限は俺の手にある。羽黒圭輔の名代として木津兵部に命ず。……死ぬなよ面倒だから! 以上ッ!」

 圭馬は笑いつつ俺はどこかで兄と戦っているのかも知れない、と強く思った。


「ところで、お前にその命を言い渡した者が誰だかわかるか?」

「はぁ。名までは……ただ」

「ただ?」

「老いた足軽でございました。狐のように細い目をした」

 圭馬は強く頷いた。


 

 圭馬が最終的な知らせを受けたのは翌月の二十九日。夕刻だった。燃えるような夕日が、不気味なほど陰を残さず照らし出す。羽黒領の関所で、圭馬は単騎馬上の圭輔を出迎え、その轡を取った。


「そう、成種様は減封ですか」

「お前達が調べ上げてくれた証拠を突きつけたら本人も吐いた。弱音と共に。礼を言います」


 右隣を連れ立って馬の歩を進める兄は敗戦直後には見せなかった、晴れやかな顔を向けた。

 大評定の日、本来謹慎中の身でありながら、突如桜尾本拠、蓮花(はすばな)城に登った圭輔は名指しで成種を非難。数々の証拠を並べ、かよとの密通、次郎兵衛の死因について強く糾弾した。

 結果は成功と言えるだろう。

 少なくとも圭馬はそう思うことにした。

 兄は無傷でお咎めもない。これ以上の成果があるだろうか、と。


「これで義父圭道(けいどう)死して、一敗地にまみれようととも羽黒に力ありと諸将に見せつけることができました」

「全ては兄者の望み通りに」

 ゴホン、と右で聞こえる咳払い。いかんな、と圭馬は口を噤んだ。兄はそれでも上機嫌のままだった。

 上目で見守り、圭馬はおずおずと問うた。

「あの、かよ殿はどうなさるおつもりですか」

「彼女は被害者。兄上がその美貌に横恋慕し、無理矢理に手込めにしたというだけのこと。両人もそう告白しています」

「そうですか……」


 ほっとしたのも束の間、そうですかと相槌打ったその響きに、圭馬自身がどこか嫌なものを感じた。

 ――何か、つながっていない気がする。連ねられた玉と緒を、結び留める何かが欠けている?

 思案にあけるまま、蹄の音は侍町にいたる。

「田掛次郎兵衛の屋敷は、確かこの辺りだったか?」

 兄の言葉に、思案顔の圭馬は素直に頷いた。


「思えばあの老人」

 そもそもどこの忍だったのだ、と口にせずに首を傾げた。それを聞きとがめた圭輔が怪訝そうな顔して弟を見返している。

 圭馬は慌てて訂正した。

「ああいえ、あの下男を装っていた爺さんが、いったいいつから田掛家に紛れていたのか気になりまして。おそらく密通の直の前後から侵入していたのだと思いますが」

 兄の疑念を解くため言ったそれが、逆になお、不思議そうな顔を作らせ兄を困らせている。

 あまつさえ、兄はこう言った。


「…………お前、何言っているのです?」


 え、という形のままで、圭輔の唇が固まる。

 季節に置き去りにされた蝉が一声「ジジ」と、どこかで鳴いた。

「老いた狐目の男のことを言ってるのでしょう?」

「はい」

「あの老人は、田掛家にの代々仕えていた老練な草の者ですよ。顔は何度か合わせたから覚えています」

 圭馬は心にさざ波が立つ。潮騒のように、徐々に音を立てているのを聞いた。

「とすると、少しキナ臭くなってきましたね」


 圭馬は答えなかった。

 ザワリザワリ心がざわつき、ザラついた。


 兄弟二人、歩みは止めないままに沈黙は数刻続いたろうか。

 その間、圭馬は額にじんわりにじむ汗を感じ、早まる鼓動の音を数えた。

 それを九十ばかり数えたあたりで、顔を上げる。町を染める赤が濃く深くなっている気がした。

「次を曲がれば田掛家だが」

 兄の言葉で圭馬は思い立った。手綱を手放し蝋塗りの黒鞘を掴んで、

「それがし、見て参ります」

 兄の制止の声を背に受けながら駆けた。駆けて思った。行って何になる。どうなる。そう考えると何もかもが虚しくなってきそうで、そんな己を圭馬は戒めて、足の裏に力をかける。



 田掛邸は燃えているようだった。いや、実際に燃えているはずもなかったが、半分ほど沈みかけてもなお強い光を放ち続ける西日と、うだるような残暑、屋敷の物々しい雰囲気がそう圭馬に錯覚させた。

 周囲には人が集まっていた。

「何事だっ!」

 門前に集う武士やその家族を散らしながら、圭馬は中に割り入ろうとした。そこに、二人武士が立ちはだかる。身なりは小ぎれい、身分はそれなり。長身の圭馬に負けないぐらいの体格を駆使して、行く手を遮る。

 三者が睨み合う。しんと場が静まりかえった。

「羽黒圭馬だ。貴公ら、どこの家中の者か」

 羽黒の姓を聞いた時、彼らの顔色に動揺がうかがえた。それでも威厳だけは保って、胸を張って圭馬を阻んだ。

 圭馬は重ねて問うた。


「お前たち、ここで何をしている?」

「ゆえあってここは通せぬ」


 左がまず、胴間声で脅すように言った。

「問いになっていないな。ここは羽黒領だ。ここで退かねば両家互いに禍根を残すことになるぞ」

 それでも彼らは肯んじなかった。圭馬はふたつの肺に溜まる空気を、全て、できるだけ長く引き延ばして吐き出した。そして恐れていた名を、口に出す。

「成種様の、ご家中か」


 今度こそ動揺は、はっきりと見えた。彼らは二歩ずつ退く。それで風の流れが変わったということはないだろうが、圭馬のすぐ鼻先に、家の中から漂う異臭が漂ってきた。

 圭馬にとっては慣れた臭いでもあり、平時には絶対に嗅ぐことのできることのない、決して許されない異臭でもあった。血の臭いだった。

 どけ、と怒鳴ったのは、他でもなく圭馬。

「このまま行くと貴公ら、謹慎どころでは済まなくなるぞ!」

 二人を両手で突き飛ばし、圭馬は家の中に入った。


 田掛邸に、突入。

 その時点で倍は濃くなったその臭いが、圭馬の頭の中身をかき乱した。

「かよ殿、かよ殿!」

 ひりつく喉から声を絞り出し、圭馬は彼女の名を呼ばわった。うまく声が出ずに裏返って、悲鳴のようだと自分で思った。

 圭馬は血の臭いを辿る。

 戸を開け障子を開け、その向こうが空だと知ると、すぐにきびすを返して別の部屋へと向かう。その繰り返しを五回ほど繰り返して、圭馬は台所の戸に手をかけた。そこで、違和感に気づいた。違和感と言うのも憚られるような、細い糸のごとき第六感だった。そしてわずかに鳴る鍔鳴りの音が耳に届き殺気を感じた時、圭馬は確信し決断した。父祖伝来の古刀をすらりと抜いて、横の壁に沿うように立ってからその戸を引いた。まず刃を先に入れた。

 確かな手応え。カラリ音を立てて短刀が床に落ちた。足を抱えてひきずり逃げるその背を、圭馬は強く踏み込んで刀で討った。衣、皮、肉と裂いて剥き出しになった背骨の白さが、不思議と目に痛かった。


「老いた」


 いかにもつまらなさそうに、それだけぽつりと漏らして、狐目の老人は材木のように倒れて伏した。嫌な予感がした圭馬がなんとなく刀を見ると、根本からほんのわずかに曲がっていた。おれも狼狽していたのだと自分を落ち着かせる。

 ふと何気なく見下ろした枯れた指先が、奥の間を示しているのに気づいた圭馬は弾かれたようにその指先に従って走った。

 

 圭馬は奥の間の戸を勢いよく開けた。

 すぐ視界いっぱい部屋いっぱいに、パッと散る血潮の海が広がった。その中央に一組の男女がいた。どちらもこの前何事もなく顔を合わせたばかりだと言うのに、男の方の桜尾成種は血刀片手に目をいからせているし、女の方のかよは、麻の着物を赤に沈めている。血臭が絡みついて、圭馬の喉を焼いた。

 だが圭馬は大口開けて叫んだ。


「血迷われたかっ、自棄になるのはまだ分かるが、彼女を巻き込んだのはどういう了見だ!」

「貴様がそれを言うのか羽黒の『次男坊』!」


 成種は目を血走らせて甲高く怒鳴り、血の絡む刀を畳の上へと投げ捨てた。腰に残る脇差にを抜いてその場で振りかざし、圭馬を牽制している。

「今の今まで我らの行為を黙認していた貴様たちはどうなのだ! 身はまったくの潔白だと、璧に傷無しとそう言えるのか!」

 圭馬、一言も答えを与えなかった。答えようとも思わなかったし、答える必要もなく、そして何より答えたくなかった。

 ただ黙して心を無心にして、すっとそれとなく一歩詰め寄った。寄るなと、男にしては甲高い声で制止をかけられる。諸肌脱ぎになった成種が、恨みのこもったきつい両眼で圭馬を睨み、そして一息大きく吸い込んでから、おのれの腹に、立ったまま短刀を突き立てた。


「貴様らの情けになどかかる余ではない……見ているがいい」


 その瞬間に血反吐を蒔いた。立ったまま、三の字を入れでもするように、三度ほど往復させた。そのたびに血と臓腑がくねって踊った。

 作法も何もあったものではなかった。しかしだからこそ、圭馬の止める手は間に合わなかったと言える。膝をついてかいている脂汗が、痛々しく哀れに思えた。圭馬はそっとその後ろに立ち、刀を上段に構えて振り下ろした。

 圭馬の心は荒れてはいたが、静かだった。

「……せめて介錯をつかまつる」

 言うが早いか、圭馬はそのうなじを、吸い込ませるように刀で切り落とす。


 圭馬は首が転がる音を聞きながら、自分の首を別の女のもとへと向かわせ、足で駆けた。

 むちゃくちゃな斬り方をされている。全身刀傷にまみれていた。この有り様をなますのような斬り方、とたとえるのだろう。


 かよ自身部屋中を逃げ回っていたのと、あの男の剣の腕自体がそれほどたいしたことなかったのもかえって仇になった、と圭馬は見ていた。

「かよ殿」

 はだかの刀を畳において、強くかよを抱き起こした。どこか穏やかな目だった。この大量の血さえなければ、恍惚の表情のようでひどく惹かれる、何かを訴えるような強い目だった。何か言いたげに紅い唇を二、三度うごめかした。

 肉に食い込むほど彼女の爪が、圭馬の腕を掴んで放さないので、圭馬は戸惑った。


 ――何だ、何が言いたい?


 圭馬が重ねて問おうとした時には彼女は既に事切れていて、冷たく硬くなっていた。一人分の重みが、ずっしりと圭馬の両手にのしかかる。

 しがみつく二本細腕の先で桜色の爪が、何か別の生き物が乗り移ったかのように強く差し込む夕方の日差しを鈍く照り返していた。


 

 八月三十日。昼下がり。岩群城の圭馬の屋敷。

 縁側に三人腰掛ける。圭馬、圭輔、景時。並んで揃って、小ぶりの瓜を無心で食べる。夏の再来を思わせる蒸し暑さと、セミの大合唱だった。

 後ろでそっと妻のくにが控えていて、何がうれしいのかにこにこしながら、縫い物をしていた。


「兄の家は断絶。流石にそれは逃れられない。成種の中でも初の、一門衆の断絶、古きに執着する保守派の一人が、型紙破りの例外を作るとは、皮肉以外何者でもありません」

 義兄の、実兄に対する言葉は相変わらず辛辣だった。

 その兄が、景時に向き直った。

「景時も、事件の処理によく動いてくれました。僕からも礼を言います」

「滅相も。ただひとつよろしいでしょうか」

「何かな?」

「もうこのような件に首を突っ込むのは、謹んでくださいますな」

「なんのことです」

「謹んで、くださいますな」

「……わかった、と言っておくので怒らないよう」

「別に怒っておりませんが」

 怒っているだろう。圭馬は瓜の果肉を噛みながら苦笑する。


「しかし」

 そして顔を上げて言った。

「それがしが斬ったあの忍は成種様の手の者でなく、田掛家に仕えていた者、と兄者はおっしゃいました。それがどうして主の命を縮めるようなマネなどしたのでしょうか。いやあの忍は、かよ殿の密通を知っていた可能性もあったはず。なのに、何故……」

「あら」

 と小さく声を上げて、くにが裁縫に視線を落としたまま口を挟んだ。

「お分かりになりません?」

 景時がじろりと妹を振り返り、何か口にしかけた。機先を制して圭馬がそれより先に「教えてくれ」と真顔で言った。くにはにっこりと三者に笑いかけた。

「まず次郎兵衛殿を死地に立たせる伝令を差し向けたのが、あのかよ殿。だって、旦那さま以外に命じられる人がいたとすれば、奥方さまですもの。であれば、考えついたのも成種さまではなく、かよ殿であるかもしれません」

「馬鹿な。嫁いでも相変わらず突拍子なことを言うのは変わらんのか。夫を殺す妻がどこにいるか」

「まぁ、それで兄上は本当に名代官ですの?」

「……」

 渋い顔の景時を見て、くには手の甲を口に当てて声にして笑った。名とも鬼とも冠をつけるこの強面に、へきえきもせずおどおどもせず対等に向き合えるのは、天下広しと言えどもこの妻なのかもしれない。

 圭馬は蜜を吸うように瓜にかぶりついて、ふとそう思った。目で続きを促す。

「田掛家には、ご子息がいらっしゃいました」

 あぁ、と圭輔が声をあげた。次いで景時が醒めたような顔つきをして、不審がっていた圭馬の頭に電流が流れたのは、そのすぐ後だった。


「まさか……くに」

「そう考えるのは、自然ではありませんか? その子は、成種さまの御子であると」

「そうなればすべては繋がってくる」

 圭輔の言葉に、圭馬はかつて自分が空想したものを思い出していた。玉と緒、それを留めるもの。

「田掛がこのことを知れば……いや実際知っていたかもしれない。あの男は恥じて木津に家禄を返上したり、またあるいは不貞の息子を殺そうとするかも知れない。母としてかよが息子を選んだとしたならば、成種に協力することも、あるいは」

「では、忍は?」

「無論田掛家存続の為に動いたのだろう。跡継ぎさえ何事も無ければ潰されることもないと踏んでな。主個人より家を守ろうとしたのかもしれん」

 景時と圭輔の問答を、圭馬はどこか遠い、本の中の出来事のような気持ちで見ていた。

 瓜の残骸を皿に捨てる。くにに目をやる。

 いつも通り、「分かってますとも」だった。


「兄者」

 ん、といった感じに圭輔が見返す。

「田掛の……いえその子は、今はどうしておりますか?」

「この前の事件の際には、近所の友人と遊びに出かけていたために無事だったそうです。こちらで保護しています。……あるいは、兄の旧領を体よく吸収するための口実となるやもしれませんね」

 もう一度くにの顔を振り向いて、意を決してから身を乗り出して、

「田掛家を継がせるべきです。兄者。それまでは我が家で養育していきます」

 兄の表情は厳しい。


 ――そうすることでお前になんの得がある?


 と言いたげでもある。

「成種の子を?」

「そうではないのかもしれません。いずれにせよ証拠もないことですし、疑うことはできません。それがしは、信じたいのです。まぁ、色々と」

 おのれの腕に視線を落とし、かよの遺したその指の痕へと視線を落とした。

 兄は眩しげに弟の面を見据えた後、


「……本当に、面倒くさい男ですね。お前」

「面倒ですか?」

「家臣同様、苦労をかけさせられますよ」


 圭輔は顔も見ず、軽く笑んで圭馬のふさふさの総髪を、子どもでもあやすように撫でた。

「もう夏も終わりというのに、妙な季節ですな」

 景時が時機を見計らって、そんなことを言って

「雪が降るよりよっぽど良いさ」

 圭馬は青々と伸びる地面の草を見た。



 兄の命で隣国順門(じゅんもん)府から亡命者を受け入れるのは、その翌年のことであった。

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