第二話
どこからともなく吹いた微風がユウトの頬を撫でる。
暗い意識の中で、不意に目覚めたユウトは重いまぶたをゆっくりと開き、息を大きく吸い込んだ。
けたたましく、聞いたこともない鳥の鳴き声が辺りを騒然とさせ、ほのかな花の芳香が鼻孔に飛び込む。
身体はどうやら地面の上にあるようで背中でジメジメとした土を感じる。
うっすらと開かれた目からは、真っ青な空が……空?
そこでようやく意識をはっきりさせたユウトは、がばっと身体を起き上がらせ辺りを見回した。
薄暗い森の中。
ユウトを中心に木が周りを囲むように、その視界三百六十度全て覆い尽くしていた。
辺りには、さわやかな若草色の雑草が生えている。
時々吹き付ける風が、辺りの木々の葉を揺らし、ユウトの黒色の髪もそれに同期するように揺れる。
大きく息を吸うと、普段よりも濃い空気がユウトの中を満たす。
「……ここはどこだ?」
ユウトの口から、不安とともに掠れた声で言葉が出る。
当然のように、ユウトはこんな場所は、来たことも見たこともなかった。
…………なぜ、こんなところにいるのか。俺が覚えている限りでは、最後にいたのは保健室だったはずなのに。
釈然としない気持ちで、何か手がかりはないかと立ち上がる。
しかし、ユウトの視界に入ってきたのは、やはり木が延々と続く光景だった。
そして、そのさらに向こうには一つの巨大な城。
城といっても日本で見られるようなものではない。
西洋造りで、まるでお伽噺にでてきそうなもの。
城壁は白く、高さは紺碧の空に届くかと思えるほど高い。
その白亜の城の全体のサイズはこの場所からでは計り知れないほど大きい。某遊園地にあっても全く可笑しくはないだろう。
「…………ああ…………」
ユウトの口から何かに反応するように言葉が漏れた。
ユウトは、その城とその一枚の絵画のような光景をどこかで見たことがあるような気がした。
いや、見たことあるのではなく、ユウト自身の中の記憶に植え付けられているような。そんな感じだ。
遠い記憶。
ひとりの少女の物語がそこから始まり──
だが、ユウトはそこから先を思い出すことは出来なかった。
数秒、自身の記憶を探り、それでもわからなかったユウトは悶々とした気持ちを抱えながらも、今の状況を冷静に捉えようとし、再び記憶の糸を手繰り寄せる。
いつものように憂鬱だった剣道の授業を受けようとし、そして──
殴り続ける高城、保健室での甲高い音、熱を帯びた痛みを立て続けに思い出す。
しかし、それ以降の記憶を一切思い出すことはできない。
記憶を補完するかのように、ユウトはもう一度辺りを見渡すが、やはり見たことがない景色がそこには広がっていた。
西洋式のお城を見る限り──あくまで可能性の範疇であるが、ここはおそらく日本ではないのだろう。
咄嗟に思いつくのは高城や同級生の嫌がらせだが、さすがに外国まで運びはしない──という考えでユウトは自身の中で一蹴した。
もちろん本当に総動員で外国まで運んだなら、否定するのは間違っていることになるが。
次にユウトが思いつくのは、誘拐や拉致だが、財産などないに等しい霧神家から誘拐したところで、メリットはほとんどないし、ましてや監視をつけていない時点でその二つは考えにくい。
そもそも、大衆の監視下における青桜高校の中で誰にも知られずに、人間を運ぶなどほぼ不可能と言ってもよい。
そのリスクを冒す価値がない人間ならなおさらだ。
そして、もう一つの考えがユウトの脳裏をよぎった。
すなわち、ユウトが願ったから──この世界から逃げたい、と。だがそれはあまりにも馬鹿馬鹿しい。
そんなことがあるはずもない。だいたい自分の思い通りになるはずなら、あんなに惨めな状況になるはずがないのだから。
そこまで考えてふと、自分の服装が気になったユウトは自身の身体を見下ろした。
そこに見えたのは、学校でずっと着ていた黒色の学生服ではなかった。大量販売店に売っている茶色のパンツに、上は半袖の黒色のTシャツ姿──いつものユウトの家での服装だ。
様々な疑問が次から次へと、頭の中に浮かび上がり、いよいよ分からなくなってきたユウトは、あてもなく新たな情報を探すかのように耳を澄ました。
刹那。
遠くから何かが空気を切り裂き、こちらに飛んでくる音を、ユウトの耳が捉えた。
それをユウトが避けることができたのは、幸運以外の何物でもなかった。
遠くから飛翔してくる物体に、ある種の危機感を感じたユウトは、その場所から急いで離れようとする──が、反射神経に追いつかない身体のせいで大木の根に足を引っ掛けてしまい、ユウトは無様に転んだ。
結果的に避けることが出来たのだが、ユウトは今しがたまで自分が居たところに、一本の矢が刺さっているのを見た瞬間、激しい悪寒に襲われた。
──狙われてる!
いったい何故!なんで、狙われてるんだ!
ユウトの無言の絶叫によって言い放たれた疑問は、続いて聞こえた足音と声ともに、森の奥から現れた人型の影によって氷解した。
「ちっ、はずしちまったぜぇ」
森の奥から現れたのは三匹の人間型の獣だった。
口からは涎がたれ、黄色のその肌は土に汚れ、それがより一層荒々しさを際立てる。
筋肉質のその身体にはさびれた鎧類を装備し、手には弓を持ち、威圧するかのようにそれを高々と掲げる。
眼は赤く光り、その瞳孔は人間のものよりもやや細い。
それは、ユウトがゲームで慣れ親しんできた、まさに《ゴブリン》の姿そのもの。
まるでゲームの中に入り込んだかのようなリアリティ溢れるその姿は、ユウトに恐怖を与えるには十分だった。
ユウトの身体が条件反射のように恐怖に対して硬直する。
そのうちの一匹のゴブリンはユウトに鋭い眼光を浴びせ──喋った。
「おい、このガキどうする?」
「そうだな……男はどうせ売れねぇからな……殺して食うか」
「ヒヒヒヒヒ、人間の肉は久しぶりだからなぁ」
それぞれが口々に勝手なことを歪な声で話し、ユウトをどうするか相談し始める。
「なんなんだよ……これは……」
ユウトの口から声が漏れ出る。
意味が分からない。
なんでこの世界にゴブリンが居るんだ。
あれはゲームの中の産物じゃないのか。
実は、実物が存在した? そんなわけがない。
なら、今俺が見ているのは──
「……いったい、なんなんだ?」
そこで、ゴブリンの一匹が思い出したように、相変わらず地面に尻餅をつき続ける、ユウトを見下ろした。
赤く血走った眼がぎらつき、それはユウトに六年前、母親を殺したあの男の眼を彷彿とさせた。
人を殺しても何も感じさせない──人殺しの眼。
確実に殺される。
それが、六年前目の前で母親を殺されたユウトが感じた未来への予測だった。
ユウトを見下ろしていたゴブリンが腰から曲刀を抜刀する。
その錆びついた刀身が日光に反射し、ギラリと光る。
「う、うわわわわわあああ」
情けない声を上げながら、ユウトはその場から素早く立ち上がると逃げ出した。
その滑稽な姿にゴブリン達がユウトの背中の全面に嘲笑を浴びせる。
ユウトは走り続けるものの、足がもたつき遅々として進まない。
身体からあふれ出る冷や汗が止まらず、心臓がバクバクと音をたてる。
……そう言えば、前もこんなことあったな。
走りづけるユウトの脳裏に浮かんだのは、六年前母親が殺された時の事。あの時も、ナイフを持ったあの男に全く同じように追いかけられ──
違う。全く同じではない。
今回はあいつらが持っているのはナイフではなく、弓だ。だとすると、こうして走っている俺はいい的になるわけで──
そこまでを刹那の間に考えたユウトは、背中の方で弓が引き絞られる音を聞いた。
ぴりっと感覚が刺激され、第六感が警告するのを感じる。
──避けろ!
脳の命令に従うまま、ユウトは地面に転がり込んだ。
柔らかい地面がその衝撃を吸収し、ユウトは一転すると、顔を上げる。
直後、ユウトは視界の隅を一本の光の筋が過ぎ去ったのを捉えた。
続いて、カッという乾いた音がユウトの耳に届く。
先程まで走っていたユウトの頭の位置。ちょうどその場所に矢は放たれ、ユウトのすぐ横にある木に刺さっていた。
ほっと胸を撫で下ろすのも束の間、ユウトは木に刺さった矢の矢先が突如、光り始めるのを視認した。
危険だ。
さっきよりも第六感が警告を喚くが、その時はもうすでに遅かった。
視界前面が白光で包まれ、ユウトは反射的に目を瞑った。
数秒後、壮絶な爆音がユウトの聴覚を叩いた。
爆風がユウトの身体を持ち上げ、地面に抑え込む。
いくつかの小石が頬を掠め、ねっとりとした赤い血が流れ出るのを感じる。
なんという威力だろうか!
全身の神経が焼き切れるような感覚に、ユウトは歯を食いしばって耐えた。視界が真っ赤に染まり、ちかちかと火花を散らす。
ユウトには、その不可解な現象を理解することは出来ない──が、これだけは確信を持って言うことが出来た。
ここは、確実に俺が知っている世界じゃない。
全身が悲鳴を上げながらも、顔を上げたユウトの視界に入ってきたのは、ユウトの顔の前で曲刀を突き付けているゴブリンの姿だった。
ゴブリンの顔に残酷な笑みが浮かび上がり、言葉を使わずとも勝利を確信しているのが、ありありと読み取れた。
「ちっ、こんなやつに魔法を使う羽目になるとはな」
「しょうがないだろ。だいたい、それが一番手っ取り早いじゃないか」
ゴブリンのやり取りが、頭上で行われるが、ユウトにとってそんなことはどうでも良かった。
…………結局死ぬのか。
哀愁漂った声で、ユウトは心中で呟いた。
今まで逃げ続けてきた人生が終わる──それは未練などが微塵もないと思っていたユウトにとって、それ以上でもそれ以下でもなく、むしろ、逃げ疲れたユウトには心地良くすらあるはずだった。
だが、いざ死を目の前にすると足は震え、身体から熱が逃げていく。
「死ね」
一匹のゴブリンがユウトの首を狙って一閃する。
その短い宣告をユウトは抗うことなく、顔を俯かせる。瞼を僅かに閉じ、その刃を受け入れようとした。
だが。
「セアアアアアアアッ!」
凛とした声が薄暗い森の中に響き渡る。
ユウトの視界の端を何かが超高速で駆け抜ける。
同時にそれは風を巻き起こし、ユウトの首に迫りつつあった鈍色の刀身を、金属が擦れ合う音ともに弾き返した。
──いったい何が起こったのか。
好奇心に負けたユウトは、二度と開くことのないと思っていた瞼を開き、顔を上げた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。年はユウトと同じぐらいだろうか。
その少女の顔は、まるで神が創ったかのような完璧な造形で、肌は雪のように白く、その瞳は黒く光っている。
その整った容姿もそうなのだが、特徴的なのは髪の毛だった。桜色、というのがよいのだろうか。
華美なピンクではなく、落ち着いた色で、その少女が少しでも動くたびに空中で流れるように舞う。
その顔をこちらにちらりと一度向けた後、少女は片手に持った金色の剣の切っ先をゴブリンに突きつけながら、柔らかい口調で声を発した。
「大丈夫?」
突然の出来事に頭が追いつかないユウトは、声を出すことなく、こくりと頷く。
少女はそれに、満足げに笑みを浮かべた後、表情を一転し、警戒した面持ちで前を見つめた。
騎士という言葉がぴったりなその少女──という割には、鎧類は一切装備していないのだが──は、ゴブリン達に一歩も引くことなく堂々と、澄んだ声で言い放った。
「ここから早く去りなさい。今ならまだ、見逃してあげるわ」
な、何を言っているんだ!
ユウトは胸の内で絶叫した。
その挑発のような言葉にゴブリンが乗ってきたらどうするつもりなのか。
自分だけならまだ良い。だが、たとえ知らない人間でも目の前でもう人が傷つくのは、見たくなかった。
その少女の挑発とも取れる言葉に、案の定、一匹のゴブリンが怒号した。
「──人間の女が調子に乗るなああああ!」
そのゴブリンは僅かに腰を沈めると、地面を蹴り上げた。それに伴って、砂塵が巻き起こり辺りを包み込む。
「死ねえええええ!」
砂塵の中、ユウトの目がゴブリンの動作を捉えた。
ゴブリンはいつの間のか身体に引きつけた鈍色の曲刀を、桜色の髪の少女に向かって放つ。
それに対し少女は、その曲刀を冷然たる態度で見ていた。
まるで、その曲刀が人を傷つける武器だということを忘れているかのように。
その一筋の閃光は寸分の狂いもなく、少女に向かって空中を突き進み──
爆音と衝撃波。
衝撃によって生じた風がユウトの黒色の髪をなびかせる。
…………やられたのか。
ユウトはその場所に血しぶきが上がる光景を鮮やかに予測した。
だが、またしてもユウトは自身の予測が裏切る結果となったことに愕然した。
「今のは、攻撃したと見なしても良いわよね」
砂塵が霧散し、そこから澄んだ少女の声が聞こえる。
そこにはあったのは、血しぶきを上げた少女でも攻撃を受けた少女の姿でもなかった。
何も構えずにその少女は無傷のまま、ただ立っていた。
そして、ユウトはようやくそこで、その少女がなぜ華美な武器に釣り合うような鎧類を装備していないのか理解した。
その少女はシャボン玉のような、透き通った桜色の球の障壁に身を包み込みこんでいたのだ。
それが何でできているかなど、ユウトには分からない──が間違いなく、ユウトの知る世界の物質ではなかった。
問題の鈍色の剣先──それは、少女の数センチ手前でその桜色の障壁にそれ以上の前進を阻まれていた。
ゴブリンが驚愕する間すら与えず、その少女はとんでもない速さで、片手に握った金色の剣を一閃する。
ユウトの目には、一瞬その剣がぶれたようにも見えた。
あまりにも速いその斬撃は必殺の威力を持ったまま、その少女へ攻撃を放ったゴブリンへと襲い掛かる。
赤い筋がゴブリンの首筋に入った後、ゴキュッという嫌な音を立てながらその首を大きく後方へ吹っ飛ばした。
悲鳴すら上げさせない高速の攻撃。
目の前で行われた、流れるような一連の動作に、恐怖することすら忘れユウトは見惚れていた。
いったいどれだけ修練を積めば、あれほどまでに強くなれるのか。見た目の年齢は俺とそれほど変わらない──なのにどうして、一切、心がぶれることなく剣を振るうことができるのか。
そこには、ただ単の《強さ》を超えた何かがあるような気がしてならない。
強く──なりたい。
それは今まで逃げ続け、常に試合に勝利することを、心のどこかで諦めていたユウトにとって、異常ともいえる願望だった。
一匹のゴブリンを絶命させたあと、その少女はキッと残り二匹のゴブリンを睨んだ。
その人をも殺せそうな視線と剣呑した表情は、爆発的な殺気を含み、それに当てられていないユウトさえ威圧するものだった。
それで、完全にゴブリン達の意思は決定されたようだった。
せめてもの抵抗か、真紅に染まり、怒り狂っているようにも感じられる眼球から、忌々しげな視線をユウトと少女に投げかけ、何かをごもごもと言う。
数秒で、二匹のゴブリンを青白い光が包み込み、その場からシュンという音ともに消えていった。
…………俺は、助かったのか。
目の前で起きた不思議な現象を茫然と見ながら、ユウトはその場で立ち上がった。
あとに残ったのはユウトと桜色の髪の少女だけとなり、二人の間に静寂が訪れる。
そこでようやく、その少女は振り返った。その整った顔がこちらを向き、視線がユウトを捉える。
その少女が自分を助けてくれたのだ、という事実をユウトは頭の中で理解していたとしても、さっきまでの鬼気迫る姿を嫌でも思い出し、ユウトの身体がその視線から逃れるようにピクリと震える。
少女はそのユウトの様子を見て、一瞬悲しげな表情を浮かべる。
その黒い瞳が儚く揺れたようにもユウトは感じた。しかし、それはほんのひと時だけで、すぐにその少女は表情を一転し、ユウトを安心させるかのように微笑を浮かべ、穏やかな口調で切り出した。
「もう大丈夫よ」
その声に、死ぬ覚悟すらしていたはずのユウトは、生き延びたことへの安堵によって、緊張の糸が突然切れたかのようにその場に崩れ落ちた。
少女が途端に不安げな顔になり、何か声を掛けてくる。それにユウトは何とかして答えようとするが、ユウトの意思に反して、意識は暗くなっていくばかりだった。
薄れゆく意識中でユウトがその少女に聞きたいと思ったのは、「ここはいったい、どこなのか?」でも「キミの名前は?」でもなかった。
ユウトの心にこびりついていたのは、一瞬浮かべた少女の悲しげな表情。
───なんで、そんな顔をするんだ?




