悪役令嬢ですが、脳内の「最強AI」が王太子の愛を0%と断言しました。〜攻略対象をゴミ箱へ移動します〜
「セシリア・フォン・ローゼンベルク! 貴様のような傲慢で冷酷な女との婚約は、ただ今この瞬間をもって破棄させてもらう!」
王立学園の卒業パーティー。
華やかなシャンデリアが照らす大広間の中心で、第一王子であるユリウス殿下は、声高らかにそう宣言した。
彼の腕の中には、涙目で怯えたように震える男爵令嬢、リリィの姿がある。
周囲を取り囲む貴族たちのひそひそという囁き声が、波のように広がっていく。
『まあ、公爵令嬢が婚約破棄ですって』
『リリィ様を階段から突き落としたという噂、本当だったのね』
『なんて恐ろしい……』
彼らの冷たい視線の中央で、私――セシリアは、扇で口元を隠したまま、静かに立ち尽くしていた。
……普通なら、ここで泣き崩れるか、「私ではありませんわ!」と取り乱して叫ぶ場面なのだろう。
事実、私はリリィを虐めたりなどしていない。彼女が勝手に転んだり、教科書を失くしたりしたのを、すべて私のせいにされているだけだ。冤罪である。
しかし、私の頭の中は今、目の前の婚約破棄騒動どころではない、ある「異常事態」に見舞われていた。
『――システム起動。マスターの意識レベルの正常化を確認。これより、戦術支援AI「ノア」が、マスターの生存および利益の最大化をサポートします』
(……ちょっと待って。さっきから頭の中で鳴っているこの無機質な声は、一体何なの?)
婚約破棄を宣言されたまさにその瞬間、私の脳内に突如として響き渡った声。
幻聴かと思ったが、視界の隅には半透明の青いウィンドウまで浮かび上がっている。
『回答:私はマスターの脳内にインストールされた高次AIです。現状の不利益な状況を打開するため、最適解を算出・提示します』
(えっ……脳内、AI? どういうこと?)
『現在、マスターは第一王子ユリウスからの社会的攻撃(婚約破棄および冤罪の吹聴)を受けています。対象の音声パターン、心拍数、瞳孔の開き具合から感情をスキャンしました』
ピロリン、と脳内で軽快な電子音が鳴る。
そして視界に、ユリウス殿下の顔の横を指し示すように、赤いグラフがポップアップした。
『解析完了。第一王子ユリウスのマスターに対する愛情度は【 0% 】です。敵対心は【 85% 】。男爵令嬢への庇護欲求で自己陶酔している状態(いわゆる「脳内お花畑」)と推測されます』
(ゼロ……!?)
『はい。完全に0%です。四捨五入するまでもなくゼロです。さらに言えば、彼の王族としての総合評価値(知能・統率力・経済観念)も、平均を大きく下回る【 Dマイナス 】ランクです。マスターの人生における期待値はマイナスでしかありません』
あまりにも身も蓋もないAIの断言に、私は一瞬、呆気を取られてしまった。
ユリウス殿下は、この国の第一王子だ。
幼い頃から彼を支え、次期王妃としての厳しい教育に耐え、彼のために公爵家の財力まで惜しみなく投資してきた。いつか彼が私を愛してくれると信じて。
それが、愛情度ゼロ。
おまけに能力はDマイナス。
……なんだか、一気に憑き物が落ちたような気がした。
(そう。……私、こんな男のために、血を吐くような努力をしてきたのね)
『マスター、心拍数の低下と精神の安定化を確認しました。推奨アクションを提示します』
(推奨アクション?)
『はい。当該攻略対象は、マスターの将来において不良債権となります。直ちに【ゴミ箱へ移動(関係の完全清算)】することを推奨します』
ゴミ箱へ移動。
その身も蓋もない表現に、私は思わず扇の陰でクスッと吹き出しそうになった。
◇◇◇
「おい、セシリア! 聞いているのか! 貴様のように嫉妬に狂い、リリィを害するような悪女は、王妃にふさわしくない!」
私が沈黙しているのを「絶望して言葉も出ないのだ」と勘違いしたらしいユリウス殿下が、さらに声を張り上げる。
「貴様との婚約は無効だ! 俺は、この心優しく純真なリリィと真実の愛を育み、新たな婚約を結ぶことにする!」
ユリウスの腕の中で、リリィが「殿下ぁ……っ、私のためにそこまで……っ」と涙ぐんで見せる。見事な悲劇のヒロインっぷりだ。
『報告:男爵令嬢リリィの心拍数は極めて安定しています。現在発せられている涙は、眼輪筋の意図的な収縮による「嘘泣き」である確率が【 99.8% 】です』
(分かっていたけれど、数値で出されると清々しいわね)
私はゆっくりと扇を閉じ、背筋をピンと伸ばしてユリウス殿下を見据えた。
「ユリウス殿下。ただ今のご発言、間違いなく『婚約破棄』ということでよろしいですね?」
「あ、ああ! その通りだ。今さら泣いて縋っても遅いぞ!」
「承知いたしました。では、喜んでお受けいたしますわ」
私が美しいカーテシー(淑女の礼)と共にそう告げると、大広間が水を打ったように静まり返った。
「……は?」
「な、なに?」
ユリウス殿下もリリィも、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
私が泣き喚いて見苦しく縋り付いてくる、とでも思っていたのだろう。
『マスター。対象の思考が停止しました。追撃のタイミングです。ローゼンベルク公爵家が王家に行っていた支援のデータを出力します。口頭での読み上げを推奨します』
(ええ、お願いノア)
脳内の視界に、ズラリと数字が並んだ帳簿のデータが展開される。私はそれを、まるで最初から暗記していたかのように、淀みなく読み上げ始めた。
「婚約破棄が成立したとのことですので、事務的な確認をさせていただきます。まず、殿下が現在着用されているその礼服ですが、我が公爵家のお抱え職人が仕立てたものです。速やかにご返却くださいませ」
「なっ……礼服だと?」
「ええ。それだけではありません。殿下が学園に寄付された新図書館の建設費、殿下の個人的な馬の飼育費、さらには王宮の東棟の改修工事費に至るまで。これらはすべて『次期王妃となる私への誠意』として、ローゼンベルク家が無利子で立て替えていたものです」
大広間がざわつき始めた。
王家が公爵家に多額の借金をしているという事実は、暗黙の了解ではあったものの、公の場で口にされることなど今までなかったからだ。
『計算完了。これまでの投資総額は、金貨約85万枚。現在の王家の財政状況(流動資産)から推測するに、一括返済が可能な確率は【 0.02% 】です』
(ふふっ、王家、破産寸前じゃない)
「婚約が白紙に戻った以上、これらは単なる『借入金』となります。期日までの全額一括返済を求めさせていただきますわ。もちろん、正当な慰謝料と共にご請求申し上げます」
ユリウス殿下の顔から、サァァッと血の気が引いていくのが分かった。
「お、お待ちください、セシリア様!」
焦ったように声を上げたのは、殿下の隣にいたリリィだった。
「愛し合う二人を引き裂こうとするなんて……っ、お金の力で殿下を縛るおつもりですか!? そんなの、あまりにも冷酷ですっ!」
『報告:男爵令嬢リリィの発言に論理的矛盾を検知。「愛し合う二人」という定義に基づくならば、金銭的制約は障害にならないはずです。論破モードを起動します』
脳内のAIの頼もしいアシストを受け、私は冷ややかな笑みを浮かべた。
「冷酷? おかしなことを仰いますね、リリィ男爵令嬢。お金で縛るも何も、これは殿下が我が家から借りたお金を『法に則って返す』というだけの、当たり前の義務ですわ」
「そ、それは……」
「それに、真実の愛で結ばれたお二人なのでしょう? 王家が破産し、平民のように慎ましく暮らすことになっても、お二人の愛の力があればきっと乗り越えられますわよね? ……それとも、殿下の『お金』がなくなるなら、愛も冷めてしまうとでも?」
リリィはビクッと肩を震わせ、言葉に詰まった。
『対象リリィの動揺レベルが上昇。彼女の目的が「次期王妃という地位と財産」である確率が【 98% 】に達しました。痛いところを突かれた証拠です』
(完璧ね、ノア。これで心置きなく不良債権を処分できるわ)
「き、貴様ぁっ! どこまで俺をコケにすれば気が済むのだ!」
ついにプライドをズタズタにされたユリウス殿下が、激昂して私に向かって手を振り上げた。
女性の顔を平手打ちしようとする、王族としてあるまじき行為。
だが、私が身構えるより早く――。
『警告:マスターに対する物理的脅威を検知。回避行動よりも、さらに高価値な【第三者】による介入を利用した迎撃を推奨』
(高価値な第三者?)
「――そこまでにしておけ、愚弟」
振り下ろされるはずだったユリウス殿下の腕は、突如として横から現れた長身の男性によって、軽々と掴み止められていた。
「公衆の面前で淑女に手を上げるとは、王族の恥さらしもいいところだ」
低く、けれど大広間の隅々にまで響き渡るような威厳に満ちた声。
振り下ろされるはずだったユリウス殿下の腕は、突如として現れた黒衣の男性によって、万力のような力で掴み止められていた。
「あ、兄上……っ!?」
ユリウス殿下が顔を青ざめさせ、怯えたような声を上げる。
彼を取り囲んでいた貴族たちも、その人物の姿を認めるなり、弾かれたように頭を深く下げた。モーセの十戒のごとく、人垣が真っ二つに割れて道ができる。
現れたのは、夜の闇を固めたような漆黒の髪と、氷のように冷たい銀色の瞳を持つ長身の青年だった。
レオンハルト・フォン・ローゼンベルク大公殿下。
現国王の兄でありながら、圧倒的な軍功と冷徹な政治手腕から『氷の死神』と恐れられる、この国の裏の最高権力者だ。
『マスター。新規ターゲットの解析を完了しました』
(ノア、彼について教えて。……なんだか、ものすごく怒っているように見えるけれど)
私の視界に、レオンハルト大公のステータス画面がポップアップする。
『名前:レオンハルト。称号:大公。総合能力値は【 S+(測定不能レベル)】です。知能、武力、財力、すべてにおいて先ほどの廃棄対象を凌駕しています。文字通りの超優良物件です』
(なるほど、最強の助っ人というわけね)
「レオンハルト大公閣下……」
「怪我はないか、セシリア嬢」
彼が私に向けて放った声は、極寒の吹雪のように冷たく、表情には一切の感情が浮かんでいない。周囲の貴族たちがその威圧感に震え上がるのも無理はない。
――しかし。
私の脳内で、ノアが信じられない数値を弾き出していた。
『マスター、報告します。現在、レオンハルト大公の心拍数は【 140 BPM 】を突破。平常時の約2倍です』
(えっ? そんなに? 見た目は氷の彫像みたいに落ち着いているのに?)
『さらに、彼のマスターに対する愛情度は【 120%(計測上限突破)】を記録しています』
(……はい?)
『補足します。大公は現在、マスターが傷つけられそうになったことに対する「極度の怒り」と、マスターに直接話しかけていることへの「極度の緊張と歓喜」が入り混じり、脳内物質がショート寸前です。俗な言葉で言えば「限界突破のガチ恋」状態です』
……ええええ!?
この、泣く子も黙る氷の死神が!? 私にガチ恋!?
私が内心で盛大にツッコミを入れている間にも、レオンハルト大公は冷酷な銀の瞳でユリウスを睥睨していた。
「ユリウス。先ほどのセシリア嬢の主張、一つ残らず正論である。貴様が私的に使った公爵家からの借入金、王室予算から補填することなど絶対に許さん。貴様個人の資産を売却してでも返済しろ」
「なっ……! 兄上! たかが女の嫉妬で言いがかりをつけられているだけです! 俺はリリィと真実の愛を――」
「黙れ」
大公の鋭い一瞥に、ユリウス殿下はヒィッと情けない悲鳴を上げて黙り込んだ。
「真実の愛だと? 自らの不始末のツケを女に払わせ、逆上して暴力を振るおうとする男のどこに愛があるというのだ。……近衛兵! この愚か者を直ちに謹慎させよ。隣にいる男爵令嬢も、王族への不敬罪および虚偽申告の疑いで取り調べろ!」
「はっ!」
近衛兵たちが雪崩れ込んできて、喚き散らすユリウス殿下と、泣き崩れるリリィを両脇から抱え上げ、文字通り「ゴミ箱(牢屋)」へと連行していった。
嵐が去った後のように静まり返る大広間。
レオンハルト大公は、ゆっくりと私に向き直った。相変わらず、表情筋が死滅しているかのような無表情だ。
「……見苦しいものを見せたな、セシリア嬢」
「いえ……お助けいただき、感謝いたしますわ、大公閣下」
「少し、よろしいか。君と今後の『取引』について話がしたい」
大公はそう言うと、私の手を取り、広間から続く静かなバルコニーへと私をエスコートした。
◇◇◇
夜風が心地よいバルコニー。
二人きりになった途端、大公の纏う空気がわずかに変わった気がした。
「セシリア嬢。先ほどの君の対応は完璧だったが、愚弟に公衆の面前で婚約破棄されたという『傷』は残る。今後の君の立場は、決して平穏とは言えないだろう」
「……はい。覚悟の上ですわ」
「そこでだ。私から、君に一つの提案がある」
大公は銀色の瞳で私を真っ直ぐに見据え、淡々と、まるで軍の作戦会議でもするかのような冷徹な口調で告げた。
「私と、結婚してはくれないか」
「……えっ?」
突然の求婚。
驚く私に対し、彼はどこまでも事務的に言葉を続ける。
「もちろん、これは政略的な『取引』だ。私は国境の領地管理と派閥の牽制のために、有能で血筋の良い妻を必要としている。君にとっても、私という盾があれば、国内で君を嘲笑する者は誰一人いなくなる。互いの利益が一致する、極めて合理的な契約結婚だ」
なるほど、理にかなっている。
感情を挟まない、純粋なビジネスパートナーとしての提案。氷の大公らしい、冷徹で計算高いプロポーズだ。
……普通なら、そう思ったことだろう。
私の脳内に、この「最強AI」さえいなければ。
『マスター。対象の音声解析およびバイタルチェックの結果をお伝えします』
(ええ、お願い。彼、すごく冷静に見えるけれど)
『現在、大公の掌には尋常ではない量の汗が分泌されています。また、表面上は無表情を取り繕っていますが、脳内では「断られたらどうしよう」「セシリアが可愛すぎて直視できない」というパニック信号が【 毎秒120回 】のペースで発信されています』
(……吹くからやめて、ノア)
私はプルプルと震えそうになる肩を必死に抑え、扇の陰で息を整えた。
『さらに補足します。「互いの利益が一致する合理的な契約結婚」という発言は、照れ隠しおよび、マスターに拒絶されないための予防線(言い訳)である確率が【 100% 】です』
(知ってた! 愛情度120%だものね!?)
私は扇を少しだけ下げ、あえて小首を傾げて大公を見つめてみた。
「……契約結婚、ですか。つまり、大公閣下は私を『優秀な駒』としてお求めになるということでしょうか?」
「っ……! そ、そうだ。それ以外の何物でもない。私と君の間に、無駄な感情など必要ないからな」
大公はピシッと背筋を伸ばし、氷のように冷たく言い放つ。
しかし。
『報告。対象の心拍数が【 180 BPM 】に到達。危険領域です。脳内で「違う! 優秀な駒なんかじゃない! 世界で一番愛しているんだ!」という絶叫を検知しました』
だめだ、面白すぎる。
この人、顔と言ってることが心の中と真逆すぎる!
私は湧き上がる笑いを噛み殺し、優雅に微笑んだ。
元婚約者のユリウスは愛情0%のクズだったが、目の前の大公は、愛情120%の超絶ハイスペック・不器用ヤンデレ(隠れ)である。
AIに頼るまでもなく、私の答えは決まっていた。
「……ふふっ。分かりましたわ、大公閣下。その合理的なご提案、喜んでお受けいたします」
「……!」
私が了承した瞬間、大公の銀色の瞳が、わずかに、しかしはっきりと見開かれた。
『マスター! 対象の脳内ドーパミン分泌量が限界を突破しました! 現在、大公の脳内では「やったああああ! セシリアが俺の妻になる! 今日は国を挙げて三日三晩の祝宴だあああ!」という歓喜のパレードが開催されています!』
(ノア、実況しなくていいから!)
「……そうか。賢明な判断に感謝する。では、今後の手続きについて、明日改めて公爵家に伺おう」
「はい、お待ちしておりますわ。レオンハルト様」
私が名前で呼ぶと、大公は「うむ」とだけ短く答え、足早にバルコニーから去っていった。
その背中はどこまでも堂々として隙がなかったが……。
『報告。大公は現在、廊下の角を曲がった直後に壁に手をつき、顔を真っ赤にして崩れ落ちています』
(だから実況はいいってば!!)
こうして私は、期待値マイナスのクズ王子を無事にゴミ箱へ捨て去り、最高の(そして最高に面白い)超優良物件を確保することに成功したのだった。
◇◇◇
翌日。
ローゼンベルク公爵家の豪奢な応接室は、ピリッと張り詰めたような異様な緊張感に包まれていた。
「約束通り、参った。セシリア嬢」
漆黒の軍服に身を包んだレオンハルト大公は、まるでこれから敵陣に乗り込むかのような険しい無表情で、私の中央のソファに腰を下ろした。その後ろには、青ざめた顔の側近たちが幾重もの大きな木箱を抱えて控えている。
「ようこそおいでくださいましたわ、大公閣下。……その後ろのお荷物は?」
「結納品の一部だ。契約とはいえ、大公家が公爵家から妻を迎えるのだ。これくらいの体裁は整えねばなるまい。中身は適当に見繕ったものだが、気に入らなければ捨ててくれて構わない」
氷の声音で淡々と告げられ、私は「まあ」と優雅に微笑んだ。
適当に見繕った。なるほど、政略結婚の体裁を保つための事務的な贈り物というわけね。
『マスター。側近が持っている木箱の内容物をスキャンしました』
(どうせ無難なものなんでしょう? ノア)
『回答。中身は王都で一番人気の宝石店を借り切って購入された特注のダイヤモンド一式、マスターの瞳の色に合わせた最高級のシルクドレス数十着、およびマスターが好む南部の希少な茶葉(市場の流通分をすべて買い占め)です。結納品の総額は、小国の国家予算の約3%に匹敵します』
(適当に見繕うレベルじゃないわよ!? 買い占めちゃダメでしょ!)
私はティーカップを持つ手を震わせないよう必死に堪えた。
『追加報告。対象は昨晩、マスターに何を贈れば喜ばれるか一睡もせずに考え込み、側近を叩き起こして王都中の店を回らせた形跡があります。現在の彼の脳内は「セシリアの好みに合わなかったらどうしよう。捨てられたら生きていけない」という不安で支配されています』
……大公閣下、側近の皆さんが後ろで死にそうな顔をしてますよ。
「セシリア嬢。気に入らなかったか?」
私の沈黙を「不満」と捉えたのか、大公の銀の瞳が微かに揺れる。
私は慌てて首を横に振った。
「とんでもありませんわ。これほど素晴らしいお品をご用意いただき、心より感謝申し上げます。大切にいたしますわ」
私がにっこりと笑いかけると、大公は「……そうか」とだけ短く呟き、ふいっと顔を逸らした。
『マスター。対象の脳内にて「セシリアが笑ってくれた。天使だ。女神だ。全財産を貢ぎたい」という特大の歓喜信号を受信しました。心拍数は現在【 160 BPM 】です』
(分かった、分かったから静かにしてノア。私が吹き出したらどうするの)
◇◇◇
「さて、本題に入ろう。契約結婚の条件についてだ」
大公は咳払いを一つして、テーブルの上に羊皮紙の書類を滑らせた。
そこには、婚姻における財産分与や、互いの派閥への不干渉など、ビジネスライクな条件が箇条書きにされている。
「君は『大公妃』としての公務と、私の夜会の同伴だけをこなしてくれればいい。それ以外の君の自由はすべて尊重する。……もちろん、君が望まないのなら、私が君に『妻としての義務』を強要することもない」
妻としての義務。要するに、白い結婚(肉体関係のない夫婦)で構わないという宣言だ。
女性の尊厳を守ってくれる、彼なりの誠実な提案なのだろう。
『音声解析完了。「義務を強要することはない」という発言の裏にある、大公の真の思考を読み上げます』
(ええ、お願い)
『「本当は今すぐ抱きしめたいし、毎晩愛を囁きたいし、俺のすべてを刻み込みたい。だが俺のような血塗られた恐ろしい男が触れれば、彼女はきっと怯えてしまう。せめて同じ屋根の下で、彼女が笑って息をしてくれているだけで、俺は十分幸せだ……」とのことです』
(重い! 愛が重すぎるわ大公閣下!)
一見すると氷のように冷酷な男が、腹の中では私のことを尊い推しアイドルか何かのように崇め奉っている。
なんだか、哀れというか、可愛く思えてきてしまった。
「……大公閣下のお心遣い、痛み入ります。ですが、私は大公妃となるからには、閣下をお支えする覚悟はできておりますわ。……その、『妻としての義務』も含めて」
私が少しだけ上目遣いで、わざと艶然と微笑んでみせる。
その瞬間。
「っ……!?」
大公の肩がビクンッと大きく跳ね、氷の仮面にわずかな亀裂が走った。
彼は口元を片手で覆い、信じられないものを見るような目で私を見つめている。
『警告! 対象の心拍数が【 210 BPM 】を突破! 限界値です! 大公の脳内処理能力が完全にオーバーヒートを起こしました!』
(あ、ちょっとやりすぎたかしら)
「大公閣下? お加減でも……」
「……すまない、今日は急ぎの軍務を思い出した! 契約書にはサインしておいてくれ。後日、また迎えをよこす!」
大公はガタッと音を立てて立ち上がると、マントを翻し、逃げるように応接室から去っていってしまった。
後に残されたのは、山積みの結納品と、呆然とする私だけだ。
「……嵐のような方ね」
ポツリと呟くと、脳内のノアが感情のない声で報告を上げてきた。
『報告。大公は現在、公爵家の庭の木陰で膝を抱え、「セシリアが可愛すぎる……俺を殺す気か……」と呻いています』
(だから実況はいらないって言ってるでしょ!)
◇◇◇
数日後。
王都は、第一王子ユリウスの「廃嫡」のニュースで持ちきりになっていた。
大公の迅速な根回しにより、王家が抱えていた負債問題が議会で明るみに出たのだ。
さらに、男爵令嬢リリィが過去に複数の貴族から金銭を騙し取っていた余罪まで発覚。
すべてを失ったユリウスとリリィは、王族の身分を剥奪され、借金返済のために国境の最果てにある魔獣の出る開拓村へと、平民として追放されたという。
『マスター。対象および(リリィ)の現在価値、および将来の脅威度は完全に【 0% 】となりました。ゴミ箱データの完全消去、完了です』
(ありがとう、ノア。これで私の懸念はすべて消え去ったわ)
私は自室の窓から、美しく晴れ渡った王都の空を見上げた。
婚約破棄という最悪のバッドエンドから一転。AIのナビゲートのおかげで、私は見事に「完璧なハッピーエンド」への切符を掴み取ったのだ。
「……あとは、あの不器用すぎる大公閣下を、どう料理するかね」
私は、契約書にサインされた大公の流麗な文字を指でなぞりながら、ふふっと意地悪く微笑んだ。
季節が初夏へと移り変わる頃、私とレオンハルト大公の結婚の儀式は、王家の主導により厳かかつ盛大に執り行われた。
王家としては、多額の負債を帳消しにしてもらうための「大公と公爵家への機嫌取り」の側面もあったのだろう。王都の民衆も、かつて不遇な扱いを受けていた公爵令嬢が、国の英雄である大公に見初められたというシンデレラストーリーに熱狂した。
そして、夜。
大公邸の最奥にある、豪奢な天蓋付きの主寝室。
薄絹のナイトドレスに着替えた私がソファで静かに待っていると、コンコン、と控えめなノックの音が鳴り、主であるレオンハルト大公が姿を現した。
「……夜分にすまない、セシリア」
寝着姿の上にガウンを羽織った大公は、相変わらず表情筋の死滅した「氷の死神」の顔を張り付けている。しかし、その視線はなぜか私から微妙に逸らされていた。
「約束通り、君の寝室はここを使え。私は別棟の客間を使用する。何か不自由があれば、遠慮なく使用人を呼ぶといい」
そう言って、大公は踵を返し、足早に部屋から出ていこうとする。
……初夜だというのに、見事なまでの逃げっぷりだ。
『マスター。対象の現在地およびバイタルを報告します』
(ええ、お願いノア。彼、本当に私に興味がないみたいに振る舞っているけれど)
『解析完了。対象は現在、ドアノブに手をかけた状態で完全に硬直しています。心拍数は【 190 BPM 】。脳内では「振り返ってはいけない。あの薄着のセシリアを見たら、俺の理性が吹き飛んで獣になってしまう」という強烈な自己暗示を繰り返しています』
なるほど。
私を傷つけないために、必死に自分の中の「好き」という感情を抑え込んでいるわけね。
……けれど、ここで逃がしてあげるほど、私はお人好しではない。
「お待ちになって、旦那様」
私が甘えたような声で呼びかけると、大公の背中がビクンッと大きく跳ねた。
「な、なんだ。何か必要なものでも――」
「私、少し寂しいのです。……せめて、もう少しだけここでお話ししていかれませんか?」
立ち上がり、ゆっくりと彼に歩み寄る。
香油の微かな匂いが漂う距離まで近づくと、大公は息を呑んで一歩後ずさった。
「セ、セシリア。君は疲れているはずだ。早く休んだ方が……」
「夫婦になったというのに、初日から別々の部屋だなんて。私、大公閣下にご不満を抱かせてしまうような至らない妻なのだと、悲しくなってしまいますわ」
わざと目を伏せ、しおらしく呟いてみる。
『報告。対象の脳内防壁(理性)に致命的なダメージ。「俺のせいでセシリアを悲しませた! 万死に値する!」という強烈な罪悪感とパニックが発生しています。理性ゲージ、残り【 30% 】です』
「ち、違う! 不満などあるはずがない! 君は世界で一番……っ、いや、その、つまり、君を大切にしたいからこそ、私は……!」
しどろもどろになりながら、必死に言い訳を探す氷の大公。
私はクスッと笑い、彼のガウンの袖をそっと摘んだ。
「大切にしたいから、触れないのですか?」
「……っ!」
「でも、私は触れてほしいと願っているのに?」
上目遣いで、彼をじっと見つめる。
銀色の瞳が、激しく揺れ動いた。彼の大きな手が、私の肩に触れようと迷うように持ち上がり――そして、ギュッと強く拳を握りしめて下ろされる。
「……だめだ」
絞り出すような、ひどく掠れた声だった。
「私は、不器用で、戦場にしか居場所のなかったつまらない男だ。ユリウスのように甘い言葉もかけられない。……もし君に触れて、私が隠しているこの醜く重い『執着』を知られたら、君はきっと私を軽蔑し、恐れるだろう」
彼はずっと、私のことを見ていたのだ。
私がユリウスの隣で笑い、彼を支えようと努力していた姿を。遠くから見つめることしかできなかった彼は、自分の激しすぎる感情が、私を壊してしまうのではないかと恐れている。
『マスター。対象の理性ゲージ、残り【 5% 】。彼の心は、マスターからの拒絶を極度に恐れています』
(ありがとう、ノア。……あとは、私が自分の言葉で伝えるわ)
私は、彼の握りしめた拳を両手でそっと包み込んだ。
氷の死神と呼ばれる大公の手は、微かに震えていた。
「レオンハルト様。私、あなたの頭の中がどうなっているか、すべてお見通しなんですよ」
「……え?」
「あなたは冷酷なんかじゃない。不器用で、優しすぎて、私のことが好きで好きでたまらない、とっても可愛い人です」
驚きに見開かれた大公の目を真っ直ぐに見返し、私は彼の手を引いて、私の頬に当てた。
「私はもう、愛のない男の隣で作り笑いをするのはごめんです。……あなたのその重い執着で、私を一生、逃げられないくらい溺愛してくださる?」
沈黙が落ちた。
大公は瞬きも忘れ、信じられないものを見るように私を見つめている。
『ピーーーッ。警告。対象の理性ゲージが【 0% 】になりました。脳内処理限界を突破、防壁が完全に決壊しました』
直後。
視界が反転した。
「きゃっ……!」
私は力強い腕に引き寄せられ、ふかふかのベッドの上へと押し倒されていた。
上から私を見下ろす大公の銀の瞳には、もう「氷」は微塵も残っていない。そこにあるのは、長年抑え込んできた飢えと、ドロドロに溶け出した熱い情欲だけだ。
「……後悔しても、もう遅いぞ、セシリア」
地を這うような、甘く低く、ひどく色気のある声。
「君がすべてお見通しだというなら、隠すのはやめだ。……私は君を、骨の髄まで愛し尽くす。君が泣いて許しを請うても、明日の朝までこの腕から逃がしはしない」
「ふふっ。望むところですわ、旦那様」
私が微笑んで彼の首に腕を回すと、レオンハルトは今日一番の、獲物を捕らえた肉食獣のような艶やかな笑みを浮かべ、私の唇を深く塞いだ。
――甘く、熱い口づけ。
触れ合う肌から伝わってくる彼の心拍数は、AIに教えてもらうまでもなく、狂おしいほどに早鐘を打っていた。
『……状況の進行を確認。これより先は、マスターのプライバシー保護のため、戦術支援AI「ノア」はスリープモードへと移行します』
(ええ、ゆっくり休んで、ノア。あなたのおかげで、最高のハッピーエンドを迎えられたわ)
『肯定。……お幸せに、マスター』
脳内の青いウィンドウがフッと消え去り、静寂が訪れる。
もう、AIの助けは必要ない。
私は、私だけを狂おしいほど愛してくれる最高の旦那様の背中に腕を回し、その甘い熱の中へと身を委ねたのだった。




