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第九話 臨界点

(現在軸・奏視点)


 十二月の末、四度目の面会だった。

 今月だけで三度会っていることに、奏は改めて気づいていた。

 十一月に二回、十二月に入ってから二回。

 その頻度が何を意味するかを、奏はもう知らないふりができなかった。

 知らないふりをするには、会いすぎていた。


 今夜の待ち合わせは、日向が指定した神保町の喫茶店ではなかった。

「年末で神保町は混むから」と日向が言って、恵比寿の小さなバーになった。

 奏は仕事帰りに向かった。

 年の瀬の街は人が多く、コートの肩が見知らぬ誰かとぶつかりながら歩いた。

 店に入ると、日向は先に来ていた。

 カウンターの端の席に座って、ウーロン茶のグラスを両手で包んでいた。

 奏に気づいて顔を上げたとき、その表情に何かがあった。

 疲れているのか、考えごとをしていたのか、あるいはその両方か。

 奏には判断できなかったが、今夜の日向がいつもと少し違う、ということだけはわかった。


 隣に座った。

「待った?」

「少し」と日向は言った。

「でも、考えごとしてたから気にならなかった」

「何を考えてた?」

 日向は少し間を置いた。

「いろいろ」

 それ以上は言わなかった。

 奏も聞かなかった。


 最初の一時間は、穏やかだった。

 今年一年の話をした。

 仕事のこと、街のこと、年末の予定のこと。

 奏は麻衣と年末年始を過ごす予定だった。

 日向は誠司と大晦日に会うと言った。

 どちらもその話を、さらりと話して、さらりと流した。

 それ以上踏み込まなかった。

 踏み込まない、という暗黙の了解が、今夜も二人のあいだにあった。

 グラスが二杯目になったころ、日向が言った。

「ねえ、奏に聞いていいかな」

「うん」

「奏は、麻衣さんのこと、好きなの?」

 奏は少し驚いた。

 日向がそれを直接聞いてくることを、予期していなかった。

 いや、予期していなかったわけではないかもしれない。

 この夜の流れの中で、いつかそこに来る気はしていた。

 しかし実際に言葉として聞かれると、答えるための時間が必要だった。

「好きだよ」と奏は言った。

「ただ」

「ただ?」

「結婚、という言葉を聞くたびに、何かが止まる。その止まる理由が、自分でもわからない」

 日向はグラスを見ていた。

「誠司のことは?」と奏は聞き返した。

 今度は日向が間を置く番だった。

「好きだと思う」

「思う?」

「思う、としか言えない。断言できない自分がいる。それが答えなのか、それとも私がただ臆病なだけなのか、わからない」

 奏は何も言わなかった。

 二人分の沈黙が、カウンターの上に積み重なった。

 バーの中は静かで、グラスを磨く音と、遠くで誰かが笑う声だけがあった。


 二杯目が終わって、三杯目を頼まなかった。

 どちらからともなく、店を出た。

 年末の恵比寿の街は、イルミネーションが明るかった。

 光の多い場所から、一本路地に入ると急に暗くなった。

 二人はその路地を歩いた。

 並んで、少し近い距離で。

 川沿いを歩いた夜より、距離が近かった。

 日向が突然、立ち止まった。

 奏も止まった。

 日向は俯いていた。

 何も言わなかった。

 しかし何かを言おうとしているのは、わかった。

 言葉が出てくるのを、奏は待った。

 急かさなかった。

 急かしてはいけない気がした。

「ねえ」と日向が言った。

「うん」

「私たち、何をしてるんだろう」

 声が、いつもより少し低かった。

 問いかけというより、独り言に近かった。

 答えを求めているのではなく、言葉にせずにはいられなかった、という種類の言葉だった。


 奏は答えなかった。

 答えられなかった。

 同じ問いを、奏は何週間も前から自分の中に持っていた。

 私たちは何をしているのか。

 浮気ではない。

 不倫ではない。

 やましいことは、何もない。

 しかし何かが、静かに、確実に動いていた。

 それが何なのかに名前をつけてしまうと、今夜を境に何かが変わる気がした。

 日向が顔を上げた。

 目が濡れていた。

 泣いている、と気づくまでに少し時間がかかった。

 声を出さずに、ただ目から涙が伝っていた。

 日向は拭こうとしなかった。

 拭くことも、泣いていることを認めることになる、とでも思っているように見えた。

 奏は何も言わなかった。

 言葉が、どこにも見つからなかった。

 慰める言葉も、説明する言葉も、この場所には似合わなかった。

 似合わない言葉を選ぶより、黙っている方が正直だと思った。


 気づいたら、奏は日向の手に自分の手を重ねていた。

 計算ではなかった。

 考えてしたことではなかった。

 ただ、気づいたらそうしていた。

 日向の手は冷たかった。

 冬の路地を歩いてきた冷たさと、別の種類の冷たさが混じっていた。

 奏はその手を、握るのでも包むのでもなく、ただ重ねていた。

 それだけだった。

 しかしその「それだけ」が、奏がこの十年でしてきた行為の中で、最も正直なものだった気がした。

 言葉にできないものを、言葉以外の方法で、ただそこに置いた。

 それだけのことだったが、それ以上のことでもあった。

 日向は動かなかった。

 手を引かなかった。

 俯いたまま、しばらくそこにいた。

 路地には二人しかいなかった。

 イルミネーションの光が、路地の入口から遠く届いていた。

 風が来て、二人のコートの裾を動かした。

 それだけが動いていた。


 どのくらいそうしていたか、奏にはわからなかった。

 日向が静かに息を吸った。

 それから、ゆっくりと顔を上げた。

 目が少し赤くなっていたが、もう涙は出ていなかった。

 奏の方を見た。奏も日向を見た。

 何も言わなかった。

 言わなくていい、と二人とも思っていたかどうかは、奏にはわからない。

 しかし奏は、今夜ここで言葉を使うべきではないと思っていた。

 言葉にした瞬間に、今夜のこの時間が、言葉の形に収まってしまう。

 日向がかつて言った、言葉にされると外側にあるものが見えなくなる、という言葉を、奏はそのとき思い出していた。

 奏は手を離した。

 日向が「ごめん」と言った。

「謝ることじゃない」と奏は言った。

「そうかな」

「そうだよ」

 それだけだった。

 二人はまた歩き始めた。

 路地を抜けて、明るい通りに出た。

 イルミネーションの光の中に、人の流れがあった。

 年末の街は、何も知らずに賑やかだった。


 駅の近くで別れた。

「また連絡する」と日向は言った。

 奏は「うん」と返した。

 今夜は「またね」より少し重い言葉が必要な気がしたが、その言葉が何かを、奏は知らなかった。

 だから「うん」だけ言った。

 電車に乗って、席に座ってから、スマートフォンを見た。

 麻衣からLINEが来ていた。

「最近、どこかにいる気がする」。

 奏は画面を見たまま、動けなかった。

 どこかにいる気がする。

 その言葉の正確さが、奏の胸に刺さった。

 責めているのではなかった。

 麻衣は責める人ではなかった。

 ただ、感じたことを、そのまま言葉にする人だった。

 その正確さが、今夜に限って、奏には痛かった。

 返信を打とうとして、止まった。

 また打とうとして、止まった。


 電車が動いていた。

 車窓の外に、夜の街が流れていく。

 奏は窓を見ていた。

 日向の冷たい手の感触が、まだ指先にあった。

 どこかにいる気がする。

 麻衣の言葉が、暗い車窓に重なった。

 どこかにいる。

 奏は今、どこにいるのか。

 恵比寿の路地にいた自分と、この電車の中にいる自分と、麻衣が待っている家に帰ろうとしている自分と、そのどれもが本当の自分だった。

 しかしどれかが、本当ではない気もした。

 終点の一つ前の駅で、奏はようやく返信を打った。

 ごめん。

 今から帰る。

 それだけを送った。

 麻衣から「わかった」と返ってきた。

 絵文字はなかった。

 いつもと違う返信だった。

 その違いを、奏は見ないようにすることができなかった。


 電車を降りて、改札を出て、冬の夜気の中を歩いた。

 日向の手が冷たかったことを、また思い出した。

 思い出すたびに、その記憶は少しずつ現実の重さを持ち始めていた。

 今夜を境に、何かが変わる。

 奏にはそれがわかっていた。

 何がどう変わるのかはわからなかった。

 しかしもう、変わる前の場所には戻れない、ということだけは、冬の夜の中で、静かにわかっていた。

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