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第七話 言えないこと

 誘ったのは、また奏だった。

 今月だけで三度目になる、ということに気づいたのは、メッセージを送った後だった。

  十一月に二回、そして十二月に入って最初の週末。

  自分から誘う、という行為が、いつの間にか自然になっていた。

  その自然さを、奏は少し遠いところから眺めるようにして、しかし止めなかった。


 今回は喫茶店ではなかった。

 日向が「少し歩きたい気分」と言ったので、浅草で待ち合わせて隅田川沿いを歩くことにした。

  十二月の川沿いは寒かった。

  コートの前を合わせて、マフラーを巻いて、それでも風が来ると首のあたりに冷気が滑り込んできた。

  川の向こうに東京スカイツリーが見えて、その下に夜の街の明かりが広がっていた。

 喫茶店の窓際と、夜の川沿いとでは、空気の質が違った。

 屋根がない。

  壁がない。

  食器の音も、珈琲の匂いも、他の客の気配もない。

  ただ川と風と夜景だけがあって、二人はその中を並んで歩いた。

  奏はその違いを、歩き始めてすぐに感じた。

  喫茶店には、いざとなれば話題を変えられる余白があった。

  メニューを見る、窓の外を見る、珈琲を飲む。

  そういう小さな逃げ場があった。

  川沿いにはそれがなかった。

  歩きながら話すということは、立ち止まらない限り、会話から逃げられないということだった。


 最初は他愛のない話だった。

 十二月の街の話、年末の仕事の話、今年読んだ本の話。

 日向が担当した本が先月発売されて、思ったより売れていると言った。

 奏は「読んでみる」と言った。

 どんな本かを聞いて、日向が説明してくれるのを聞きながら、奏は日向が仕事の話をするときの声の温度が、他の話をするときより少し上がることに気づいた。

 好きなのだろう、と思った。

 この仕事が、本当に好きなのだ、と。

 川沿いのベンチの前を通り過ぎたとき、日向が「少し休む?」と言った。

 奏は「寒いけど」と言って、それでも二人でベンチに座った。

 川を渡ってくる風が冷たくて、日向がマフラーを顎の下まで引き上げた。

「ねえ」と日向が言った。

「うん」

「奏って、なんで絵、やめたの」

 前に一度、似たようなことを聞かれた気がした。

 しかしあのときは「仕事で使うくらい」と答えて、それで終わった。

 今夜の日向の聞き方は、少し違った。

 答えを求めているというより、本当のことを聞きたがっている、という声の温度だった。

 奏は川を見た。

「やめた、というより、いつの間にかそうなってた」

「大学では描いてたの?」

「最初の二年は描いてた。でも設計の勉強が忙しくなって、絵を描く時間が減って、気づいたら描かなくなってた」

「惜しくなかった?」

 奏は少し考えた。

 惜しい、という感情が当時あったかどうかを、記憶の中で探した。

「惜しいとも思わなかった。それが今になると、少し怖い」

「怖い?」

「好きだったものを失った感覚がないまま、失ってたっていうことだから」


 日向は何も言わなかった。

 川の音だけがしばらく続いた。

 奏は自分が思っていた以上のことを口にしてしまったことに、言い終えてから気づいた。

 こういうことを、麻衣に話したことはなかった。

 話す機会がなかった、というより、こういう言葉が出てくる文脈が、麻衣との会話の中にはなかった。

 日向のそばにいると、言葉が外に出る。

 その感覚が、今夜は喫茶店のときより強かった。

 壁がない分だけ、言葉も出やすかった。

 それが都合のいいことなのか、そうでないのかを、奏は判断できなかった。


 ベンチを立って、また歩き始めた。

 橋の手前まで来たところで、日向が言った。

「なんで別れたんだろうね、私たち」

 唐突ではなかった。

 この夜の流れの中では、むしろ自然な問いだった。

 しかし奏は少し立ち止まりそうになって、歩調を保った。

「日向から別れを言ったんだろう」

「そうだけど」と日向は言った。

「そうだけど、なんでそうなったんだろう、って今でも思うことがある」

「遠距離が不安だったんじゃないのか」

「それもあった」

 それもあった、という言い方が、奏の中に引っかかった。

 それだけじゃなかった、という含みがあった。

 しかし奏もそれ以上は聞かなかった。

 聞く代わりに、自分の側のことを話した。

「俺はあのとき、何も言えなかった」

「何を?」

「言うべきことを、何も」

 日向が奏の方を見た。

 奏は川の方を見ていた。

「一緒に東京へ行くことを、考えてた」

 言ってから、十年間一度も口にしなかった言葉だということに気づいた。

 考えていた、は本当だった。

 しかし当時の奏には、自分の進路も見えていない状態で、それを言葉にする勇気がなかった。

 言葉にして、それが叶わなかったときのことを、想像できなかった。

 だから言わなかった。言えなかった。

「知らなかった」と日向が言った。

 声が、少し低かった。

「私が先に終わらせたのは」と日向は続けた。

 少し間があった。

「怖かったから、だと思う。奏がいつか離れていく気がして、その前に自分から終わらせた」

 奏はその言葉を、川の音の中で聞いた。

 怖かった。

 先に終わらせた。

 十年前の別れが、このとき初めて、別れた当時とは違う形をして奏の前に現れた。


 あの別れは、必然ではなかったかもしれない。

 二人ともが、言えなかっただけだったかもしれない。

 その認識が、静かに、しかし確実に奏の中に入ってきた。

 奏は何も言わなかった。

 言えなかった。

 言葉にしてしまうと、その認識が現実の重さを持ち始める気がした。

 二人はしばらく、川を見て歩いた。


 橋を渡り終えたところで、日向が言った。

「奏って、麻衣さんに、自分のこと話せてる?」

 突然の問いではなかった。

 この夜の流れの中では、来るべくして来た問いだった。

 それでも奏は少し間を置いた。

「話せてない、とは思わないけど」

「でも?」

「言葉が出てくる文脈が、ない気がする」

 日向は「そっか」と言った。

 しばらく歩いてから、続けた。

「誠司はね、何でも言葉にしてくれる。

 私が感じていることを、私より先に言葉にしてくれることもある」

「それは、いいことじゃないか」

「そう思ってた」と日向は言った。

「でも言葉にされると、かえって遠く感じることがある。言葉の形に収まってしまうと、その外側にあるものが見えなくなる気がして」

 奏はその言葉を聞いて、黙った。

 二人の「欠落」が、鏡のように対応していることを、奏はそのとき感じた。

 麻衣との関係では言葉が出てこない。

 日向の関係では言葉にされすぎる。

 どちらも、言葉をめぐる話だった。

 そしてこの夜、川沿いを歩きながら、奏は今夜だけで麻衣に話したことのないことをいくつも口にしていた。

 そのことの意味を、奏は正面から考えないようにした。


 浅草駅の近くで、別れた。

 日向が「今日は話せてよかった」と言った。

 奏は「俺も」と返した。

 それだけだった。

 次の約束はしなかった。

 しかし「またね」という言葉が、今夜は前の二回より少し重かった。

 重さを二人とも感じていると思ったが、どちらも口にしなかった。


 電車の中で、奏は麻衣からのLINEを確認した。

「今日遅いの? 鍋にしようと思ってるんだけど」。

 奏は時刻を見た。

 九時を過ぎていた。

「今から帰る」と返した。

 麻衣から「わかった、待ってる」と返ってきた。

 奏はスマートフォンを膝の上に置いた。

 もうこれ以上会うべきではないかもしれない、と思った。

 はっきりと、今夜初めてそう思った。

 喫茶店で会っていたころは、その考えが輪郭を持たなかった。

 しかし今夜、屋根のない場所で話して、言えなかったことを言い合って、二人の欠落が鏡のように重なるのを感じた後では、その考えが輪郭を持ち始めていた。

 もうこれ以上会うべきではないかもしれない。

 そう思いながら、奏は同時に、次はいつ会えるかを考えていた。

 その矛盾を、奏は裁かなかった。

 裁けなかった。


 電車が動いて、夜の東京が窓の外を流れていった。

 川沿いで日向が言った言葉が、順番に戻ってきた。

 怖かったから。

 先に終わらせた。

 言葉の形に収まってしまうと、その外側にあるものが見えなくなる。

 帰ったら、鍋を食べる。

 麻衣が待っている。

 それが今夜の現実だった。

 奏はコートのポケットに手を入れた。

 スケッチブックは持ってきていなかった。

 それでも指先が、何かの線を探すように、ポケットの布地の上を動いていた。

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