第五話 二度目の約束
(現在軸・奏視点)
今度は奏から誘った。
それだけのことだったが、奏の中ではそれだけのことではなかった。
日向から連絡が来て、会う約束をするのと、自分から「また会おう」と言うのとでは、同じ結果でも意味が違う。
どう違うのかを言葉にしようとすると難しかったが、違う、という感覚だけははっきりとあった。
メッセージを送ったのは、前回神保町で会った三日後だった。
三日のあいだ、送るべきかどうかを特に考えていたわけではない。
ただ気づいたら三日が経っていて、気づいたらメッセージを打っていた。
「また神保町の店、行きませんか」。
送信してから、「行きませんか」という丁寧な言い方が少し奇妙な距離感だと思ったが、訂正はしなかった。
日向からの返信は早かった。
「行こう、来週どう?」
十一月の終わり、同じ喫茶店の同じ窓際の席に、二人はいた。
前回と違うことが一つあった。
今日は奏が先にメニューを開いて、ブレンドではなくモカを頼んだ。
それだけのことだったが、前回より少し落ち着いていた、ということの表れだったかもしれない。
日向はカフェオレを頼んで、コートを脱ぎながら「今日は暖かいね」と言った。
十一月の末にしては気温が高い日だった。
奏は「そうだな」と答えた。
今回の会話は、前回より少し内側に入るのが早かった。
仕事の話から始まって、仕事の話がいつの間にか「自分がなぜこの仕事をしているか」という話になっていた。
日向が「編集者って、著者の言いたいことを言葉にする手伝いをする仕事だと思ってた。でも実際には、著者自身が気づいていない言いたいことを見つける仕事に近い気がしてきた」と言った。
奏はそれを聞いて、少し考えた。
「設計も似てるかもしれない」
「そう?」
「施主が最初に言う要望と、本当に必要としているものが、たいていズレてる。そのズレを埋めていくのが仕事な気がする」
日向は「そっか」と言って、窓の外を少し見てから、奏の方に視線を戻した。
「言葉を扱う仕事なのに、自分の気持ちを言語化するのが一番苦手なんだよね。変でしょ」
笑いながら言った。
自嘲ではなく、ただ事実を述べるような言い方だった。
「俺は最初からそうだった」と奏は言った。
二人が同時に笑った。
その笑いが、十年前の放課後に似た質感を持っていることに、奏は気づいて、気づいたことを気づかなかったことにした。
カップが二杯目になったころ、奏は自分でも予期していなかったことを口にした。
「麻衣が、最近、結婚の話を出してくる」
言ってから、なぜ今これを言ったのかを考えた。
考える前に言葉が出ていた。
日向に話すつもりはなかった。
少なくとも、話すかどうかを検討した結果として話したのではなかった。
ただ、この場所では言葉が外に出やすかった。
日向と話しているときだけ、普段は閉じている場所が開く感じがあった。
その感覚に、今日は少し乗りすぎた。
日向は表情を変えなかった。
驚いた様子もなく、困った様子もなく、ただ静かに聞いていた。
「麻衣さん、って今の彼女?」
「三年付き合ってる」
「どうするつもり?」
日向の問いは、責めているのでも、探っているのでもなかった。
ただ聞いている、という声の温度だった。
「わからない」
奏は正直に答えた。
これが今の自分の正確な状態だった。
麻衣のことが嫌いなわけではない。
三年間、穏やかにやってきた。
しかし「結婚」という言葉を聞くたびに、何かが奏の中で止まった。
その「止まる何か」が何なのかを、奏はうまく見つけられないでいた。
「そっか」と日向が言った。
それ以上のことは言わなかった。
短い沈黙があって、日向がカフェオレのカップを両手で包んだ。
「私も、誠司と付き合ってる。一年くらい」
奏は聞いた。
何も言わなかった。
「穏やかな人でね、私のことを急かさない。一緒にいると安心する」
「いい人なんだな」
「うん」と日向は言った。「いい人だと思う」
その答え方が、何かを含んでいる気がしたが、奏は続きを聞かなかった。
聞いてしまうと、何かの扉を開けることになる。
その扉は、今日はまだ開けるべきではない、と思った。
一瞬、空気が変わった。
二人ともそれを感じていたと思う。
しかしどちらもその変化を言葉にしなかった。
窓の外を路地を歩く人が通り過ぎて、食器の音がして、それだけが続いた。
店を出たのは、夕方に差し掛かるころだった。
路地に出ると、暖かいと言っていた空気が、夕方になって少し冷えていた。
日向がマフラーを巻きながら、息を白くした。
「奏ってさ」と日向が言った。
「うん」
「あの頃から変わってないね」
奏は少し考えた。
「変わってない、って悪口?」
「ほめてる」
日向が笑った。
目が先に笑う。
それから口元が動く。
奏はその笑い方を、今日だけで何度見たか数えていなかった。
数えない方がいいと思っていた。
大通りで反対方向に別れた。
奏は駅へ向かいながら、日向の「ほめてる」という言葉の意味を考えた。
あの頃から変わっていない、ということが、なぜほめ言葉になるのかを考えた。
変わっていないことは、必ずしもいいことではないはずだった。
十年という時間は、変わるためにある時間のはずだった。
それでも日向がそれをほめ言葉として言ったことは、伝わっていた。
伝わっていたから、何も答えられなかった。
電車に乗って、座席に座ってから、奏はスマートフォンを取り出した。
麻衣からのLINEが一件来ていた。
「今日のご飯、何がいい?」。
奏は「何でもいい」と返した。
すぐに既読がついて、「じゃあパスタにする」と返ってきた。
やり取りは三往復で終わった。
過不足ない、いつものやり取りだった。
奏はスマートフォンをポケットに入れて、窓の外を見た。
夕暮れの東京が流れていく。
車窓の景色は速くて、何かに焦点を合わせようとすると、すぐに視界の外に消えていった。
麻衣との結婚を考えると、何かが止まる。
その「止まる何か」が何なのか、今日の帰り道も、奏にはまだわからなかった。
わかりたくない、という気持ちが、わからない、の下にある気がしたが、そこまでは考えないことにした。
次の駅で、乗客が何人か降りた。
空いた席に、知らない誰かが座った。
電車はまた動き出した。
ほめてる、と日向は言った。
その言葉を、奏は何度も再生してしまう自分を、持て余しながら、家へ向かった。




