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第四話 別れの予兆

(過去軸・日向視点)


 秋になると、街の空気が変わった。

 高校三年の十月は、受験という言葉が教室の温度をじわじわと変えていく季節だった。

 志望校の話、模試の結果、担任との面談。

 それまで同じ速度で流れていた日常が、少しずつ個別の方向へ分かれていく感覚があった。

 日向は東京の大学を第一志望にしていた。

 文学部か社会学部か、まだ迷っていたが、東京に行くこと自体は高校に入ったころから決めていた。

 この街にずっといるつもりはない、という気持ちが、理由というより前提としてあった。


 奏は、まだ決めていなかった。

 地元の大学も考えている、美術系の専門学校も視野にある、しかしどちらも「考えている」の段階で、どこかに向かって動いている気配がなかった。

 日向はそのことを、最初のうちは「奏らしい」と思っていた。

 物事を決めるのに時間がかかる人だということは、付き合い始めてすぐにわかっていた。

 時間をかけた分だけ、決めたことへの確信が強い人でもあった。

 だから焦らなくてもいい、とそのときは思っていた。

 しかし十月が深まるにつれて、日向の中で何かが少しずつ形を変え始めた。


 変化は些細なところから始まった。

 放課後、二人で歩いている途中に日向が「東京のこと、調べてる?」と聞いた。

 東京の大学の話ではなく、東京という場所のことを、という含みがあった。

 奏は少し間を置いて「まだあんまり」と答えた。

 その答え自体は想定の範囲だった。

 しかし続く言葉がなかったことが、日向の中に小さな引っかかりを残した。

 別の日、日向が志望校のオープンキャンパスに行った話をした。

 キャンパスの広さ、図書館の蔵書数、通学に使いそうな路線のこと。

 奏は聞いていた。

 きちんと聞いていた。

 しかし何も言わなかった。

 感想も、質問も、「いいな」という相槌すらなかった。

 話し終えてしばらくして、奏が「楽しそうだったな」と言った。

 過去形だった。日向が今そこにいるかもしれないということへの想像ではなく、日向が楽しんだという事実への確認だった。

 そのころから、些細なことでぶつかるようになった。

 待ち合わせの時間に奏が少し遅れた日、日向はいつもより強い言い方をした。

 奏が謝って、それで終わったが、日向は自分がなぜあれほど言いたくなったのかを、後から一人で考えた。

 遅刻への怒りではなかった、と思った。

 もっと別の場所に溜まっていた何かが、小さな出来事をきっかけに外に出た、という感じだった。

 その「別の場所に溜まっていた何か」が何なのか、日向はうまく言葉にできなかった。

 言葉にできないまま、十一月になった。


 奏の口癖は「そのとき考える」だった。

 付き合い始めのころは、その言葉を日向は好ましいと思っていた。

 先のことを決めすぎない、今にいられる人、という印象があった。

 しかし秋が深まるにつれて、その言葉の別の側面が見え始めた。

「そのとき考える」は、今は考えない、という意味でもあった。

 今考えることを、先送りしている言葉でもあった。

 ある夜、電話で日向は聞いた。

「奏は、卒業した後のこと、どう考えてる?」

 進路のことだけを聞いたつもりではなかった。

 奏にはそれが伝わっていると思っていた。

 しかし奏は少し間を置いてから「まだはっきりしてない」と答えた。

「東京には来ないの?」

 日向は初めてそれを直接聞いた。聞いてしまってから、聞くべきではなかったかもしれない、と思った。しかし引っ込めることもできなかった。

 奏は長い間を置いた。

「わからない」

 その一言だった。

 わからない、は嘘ではないのだろうと思った。

 奏が嘘をつく人ではないことは知っていた。

 しかし「わからない」と「考えていない」のあいだに、どれほどの距離があるのかを、日向はその夜から測り始めた。

 測り始めて、やめられなくなった。


 十二月の最初の週末、二人で海に行った。

 冬の海は人が少なかった。

 砂浜に足跡がほとんどなくて、波だけが規則的に来ては返した。

 奏はいつものように海を見ていた。

 並んで立って、二人ともしばらく何も言わなかった。

 以前なら、その沈黙が心地よかった。

 しかし今日は、沈黙の中に何かが満ちていく感じがした。

 日向は先に口を開いた。

「私のことを、ちゃんと考えてくれてる?」

 自分でも、うまい聞き方ではないと思った。

 しかしもっと正確な言葉が見つからなかった。

 本当に聞きたいことは、「一緒に東京に来ることを、選択肢に入れてくれているか」だった。

 あるいは、「私たちがこれからも続くことを、あなたは想像しているか」だった。

 しかしそのどちらも、直接には言えなかった。

 奏は海を見たまま、少し間を置いた。

「考えてる」

「でも、言葉にならない」

 奏が付け加えた。

 それは正直な言葉だった。

 奏にとっては、考えていることと言葉にできることのあいだに、埋めにくい距離がある。

 そのことを日向は知っていた。

 知っていたから、付き合い始めのころはそれを「奏らしさ」として受け取ることができた。

 しかしそのときの日向には、もう届かなかった。

 考えていると言う。

 でも言葉にならない。

 その構造が、このときの日向には「考えていない」と同じに聞こえた。

 言葉にならないなら、日向には何も渡されない。

 渡されないなら、日向には何もわからない。

 わからないまま、東京へ行く日が近づいてくる。

 波が来た。冬の波は重くて、砂に深く染み込んでいった。


 別れを告げたのは、日向だった。

 十二月の中旬、放課後の教室だった。

 他の生徒がいなくなってから、日向は奏に「話がある」と言った。

 奏は黙って聞いていた。

「遠距離は、たぶん無理だと思う」

 それが日向の言った理由だった。

 嘘ではなかった。

 距離が生まれることへの不安は本当にあった。

 しかしそれが全部ではないことも、日向自身にはわかっていた。

 本当のことを言うなら、こうだった。

 奏がいつか自分を置いていく気がして、その前に自分から終わらせた。

 先に傷つく前に、先に動いた。

 それが本当のことだった。

 しかしその言葉は、日向の口から出てこなかった。

 出せなかった。

 出してしまったら、何かが取り返しのつかない形になる気がした。

 奏は「わかった」とだけ言った。

 引き止めなかった。

 理由を聞かなかった。

 泣かなかった。

 ただ「わかった」と言って、日向を見ていた。

 その目が何を見ていたのかを、日向は今でも正確には知らない。


 東京で一人暮らしを始めた春、日向は引っ越しの荷物を解きながら、奏のことをほとんど考えなかった。

 考えないようにした、というより、新しい生活の忙しさの中に沈んでいくことで、考える場所がなくなっていった。

 それでいいと思っていた。

 終わったことだ、と思っていた。

 しかし時々、誰かに「昔、好きだった人は?」と聞かれると、日向は少し間を置いた。

 奏のことを話すわけではなかった。

 ただ、間が空いた。

 その間が何を意味しているのかを、日向は長いあいだ、考えないようにしていた。

 神保町の喫茶店からの帰り道、師走の風が冷たかった。

 日向はマフラーを直しながら、ふと思った。

 遠距離が無理だと思ったから別れた、と奏に言った。

 しかしあのとき、奏から「一緒に東京へ行く」と言われていたら、自分はどうしただろう。

 その問いに対する答えを、日向はまだ持っていなかった。

 十年経っても、持っていなかった。


 地下鉄の入口に向かいながら、日向は今夜奏と交わした言葉を、順番に思い返した。

「当時は、伝わってた気がしてた」と自分が言ったときの、奏の沈黙を思い返した。

 あの沈黙は、何だったのだろう。

 階段を降りながら、日向はその問いを、地上に置いてきた。

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