第三話 十年分の近況
(現在軸・奏視点)
神保町には、古い街の匂いがあった。
十一月の初旬、奏は待ち合わせの時間より十分早く着いて、喫茶店の前の路地に立っていた。
古書店が並ぶ通りは平日の昼間でも人が途切れず、コートの襟を立てた人々が背表紙を眺めながら歩いていた。
奏はその景色を見ながら、この街に日向の「好きな喫茶店」があることの意味を、またぼんやりと考えた。
東京に出てきて八年になるが、神保町に足を向けたことはほとんどなかった。
日向はここに、どのくらい通っているのだろう。
誰かと来たことがあるのだろうか。
そういうことを考えるべきではない、と思って、考えるのをやめた。
店は路地を一本入った場所にあった。
看板が小さくて、知らなければ通り過ぎてしまうような構えだった。
ドアを開けると珈琲の匂いが濃くあって、天井が低く、窓際に二人掛けのテーブルが並んでいた。
昭和の喫茶店がそのまま残っているような内装で、BGMはなく、食器の音と小さな会話だけが空間を満たしていた。
奏は窓際の席に座って、メニューも開かずに入口を見ていた。
日向は五分後に来た。
コートの色は深い緑で、マフラーを首に巻いていた。
店に入ってきて、奏を見つけて、小さく手を上げた。
その仕草が、十年という時間を一瞬だけ圧縮した。
大人になっていた、と奏は思った。
当たり前のことだったが、頭でわかっていることと目の前で確認することのあいだには、埋めるのに少し時間がかかる距離があった。
輪郭が、高校のころより少し鋭くなっていた。
立ち方が、落ち着いていた。
しかし向かいの席に座って「久しぶり」と言ったときの声の温度は、奏の記憶の中にある声と、ほとんど同じだった。
「久しぶり」と奏も言った。
「早かったね」と日向が言った。
「少し早く着いた」
「私も早めに出たんだけど、一本古本屋に寄ったら遅くなった」
日向はそう言いながらコートを脱いで、椅子の背にかけた。
笑い方が、変わっていなかった。
目が先に笑う。
それから口元が動く。
奏はそれを見て、自分の中の何かが静かに緩むのを感じて、同時にそれを警戒した。
珈琲を二つ頼んで、話が始まった。
最初の三十分は、穏やかだった。
互いの仕事の話をした。
日向が編集者だと聞いて、奏は意外ではなかった、と思った。
言葉を扱う仕事が日向には似合う気がした。
日向は設計の仕事について聞いてきて、奏は図面を引くことの地味な日常を話した。
締め切りがあること、コンペがあること、思い通りにいかないことの方が多いこと。
日向は相槌を打ちながら聞いていた。
共通の知人の近況にも話が及んだ。
高校のとき同じグループにいた友人が結婚したこと、別の友人が地元に戻って家業を継いだこと。
誰かの名前が出るたびに、十年という時間が少しずつ具体的な形を持ち始めた。
十年は長い、と奏は思った。
知っていたはずのことだったが、誰かの変化を通して聞くと、その長さが皮膚感覚で伝わってきた。
奏は、自分が「麻衣との関係」の話題を意識的に避けていることに、珈琲を半分飲んだころに気づいた。
避けているというより、出す機会がなかった、と言い換えることもできる。
しかし機会がなかったのではなく、出し方を考えているうちに話題が流れていた、という方が正確だった。
日向も、誰かの名前を出していなかった。
そのことに気づいて、奏は窓の外を一度見た。
路地を人が通り過ぎていく。コートの色が秋だった。
「奏って、まだ絵描いてる?」
日向が聞いた。
奏は少し間を置いた。
「仕事で使うくらい」
「設計の?」
「スケッチとか、手書きの図面とか」
「そっか」
日向は「そっか」と言って、窓の外を見た。
その「そっか」の重さを、奏は測りかねた。
残念に思っているのか、納得しているのか、それとも何も思っていないのか。
日向の横顔からは読み取れなかった。
聞けばよかったのかもしれないが、聞けなかった。
珈琲が二杯目になったころ、話の温度が少し変わった。
日向が「編集者になったのは、本が好きだからというより、言葉が怖かったからかもしれない」と言った。突然の話だった。
「怖かった?」
「ちゃんと使えないから。言葉。だから仕事にして、毎日向き合ってみようと思ったのかも。今でもうまくなった気はしないけど」
奏はそれを聞いて、何も言わなかった。
何か言おうとしたが、言葉が出てくる前に日向が続けた。
「奏は昔から、言葉少なかったよね」
「そうだな」
「でも不思議と、伝わってた気がしてた。当時は」
当時は、という言葉の末尾が、少し宙に浮いた。
日向はそれ以上続けなかった。
奏も続けなかった。
二人のあいだに、短い沈黙があった。
悪い沈黙ではなかったが、何かを含んでいる沈黙だった。
帰り際、レジで会計を済ませて、店の外に出た。
十一月の空気が冷たかった。
日向がマフラーを巻き直しながら、奏の方を向いた。
「また来る? この店」
奏は少し考えた。
考えたふりをした、というのが正確かもしれない。
「来るよ」
「じゃあ、また」と日向が言った。
それ以上の約束ではなかった。
次がいつかも、また二人で来るのかどうかも、何も決めていなかった。
路地を出て、大通りで日向と反対方向に別れた。
電車に乗って、座席に座ってから、奏はスマートフォンを取り出した。
麻衣にLINEを送った。
今日は旧友と会ってた。
今から帰る。
送信して、画面を消した。
嘘ではなかった。
しかし正確でもなかった。
「旧友」という言葉が、何かを平らにならしていた。
その平らさが便利であることと、その便利さが少し後ろめたいこととが、奏の中で同時にあった。
電車が動き出した。
窓の外に、夜の東京が流れていく。
奏はスケッチブックを取り出さなかった。
取り出したら、また何か描いてしまう気がした。
来るよ、と言った。
その言葉は本当だった。
本当だったから、少し厄介だった。




