第二話 18歳の夏
(過去軸・日向視点)
文化祭の準備期間は、いつも体育館が騒がしかった。
橘日向はクラス委員として進捗確認のリストを手に持ち、各班を順番に回っていた。
装飾班、劇の小道具班、食品販売班。
それぞれの責任者に声をかけて、返ってきた答えをチェックボックスに反映していく。
段取りを組んで、動いて、整理する。
人に頼まれる前に動いてしまうのが日向の癖で、それがクラスでは「頼りになる」と評価されていたが、本人はそれを意識したことがなかった。
ただそうしている方が、なんとなく落ち着いた。
体育館の隅で、ひとりで作業している男子に気がついたのは、二周目を回っているときだった。
大きなベニヤ板を床に置いて、膝をついて、筆を動かしていた。
海の絵だった。
遠くから見ても海だとわかった。
それだけ大きく、それだけ迷いのない線で描かれていた。
美術部の生徒だということは知っていた。
名前も、出席番号順の並びで記憶していた。
芹沢奏。それ以上のことは何も知らなかった。
日向は近づいて、声をかけた。
「装飾パネル、どのくらい進んでいますか」
奏は筆を持ったまま振り向いた。
表情が動くまでに、少し時間がかかった。
考えているのか、聞こえていなかったのか、それとも言葉を探しているのか、日向には判断できなかった。
「半分くらい」
「今週中に終わりそうですか」
「たぶん」
たぶん。
日向はリストの余白に「要確認」と書いた。
これ以上同じ質問を重ねても、同じ温度の答えが返ってくる気がした。
踵を返しかけて、止まった。
絵が、予想していたより良かった。
海だとわかる絵だった。
しかし写真のような正確さとは違う何かがあった。
波の輪郭が少し歪んでいて、水平線が微妙に傾いていた。
それでも見ていると、画面の向こうから潮の匂いが届いてくるような感じがした。
日向はそういう感覚を、絵を見て覚えたことがほとんどなかった。
「どこの海ですか」
気づいたら口から出ていた。
奏はまた少し間を置いた。今度は先ほどより長かった。
「どこでもない海」
その答えを、日向は予測していなかった。
どこかの海をモデルにしているとか、写真を見て描いているとか、そういう答えを想定していた。
どこでもない海、という言葉は、質問への答えとして成立しているのかどうか、すぐには判断できなかった。
しかし不思議と、嫌な感じはしなかった。
日向は「そうですか」とだけ言って、次の班へ向かった。
それから、放課後に顔を合わせることが増えた。
準備が佳境に入ると、各班の担当者が体育館に残って作業するようになった。
日向も委員として最後まで残ることが多く、奥の隅でひとり黙々と筆を動かしている奏と、自然に同じ空間にいる時間が生まれた。
話しかけることも、話しかけられることも、最初のうちはほとんどなかった。
奏は作業していて、日向は別の仕事をしていた。
ただ、同じ場所にいた。
変化があったのは、準備期間の終盤だった。
日向が残りの作業量を計算しながら奏のそばを通りかかると、奏が珍しく先に声をかけてきた。
「これ、バランスおかしいと思う?」
完成に近づいた海の絵を指していた。
中央よりやや左に、小さな船のシルエットが描き加えられていた。
船の位置が、全体の重心を少しだけずらしていた。
日向は少し離れた場所から絵を見た。
「ずれてる気はしないけど、船がいなくてもよかったかな、とは思う」
奏はその答えを聞いて、絵をしばらく見た。
それから筆を取って、船のシルエットを薄くなぞり始めた。
消すわけでもなく、描き直すわけでもなく、ただ輪郭を確認するように。
「なんで」と奏が言った。
「なんで船がいない方がいいか、ってこと?」
「うん」
「海だけの方が、どこでもない海のままでいられる気がするから」
奏が筆を止めた。
日向の方を向いた。
表情は読みにくかったが、何かが届いた顔だった、と日向は思った。
その夜、帰宅してから日向は奏の言葉を思い返した。
どこでもない海。
誰かにそういう言い方をされたことが、それまでなかった。
場所でも写真でも記憶でもなく、ただ「どこでもない」ものを描く、という発想が、日向の知っている世界になかった。
文化祭当日、装飾パネルは体育館の正面に飾られた。
完成した絵から、船のシルエットは消えていた。
どこでもない海だけが残っていた。
日向はそれを見て、奏が自分の言葉を採用してくれたことを知った。
それだけのことだったが、なぜか午前中ずっと、少し落ち着かない気持ちが続いた。
文化祭終了後の片付けの日、日向は体育館でパイプ椅子を畳んでいた。
奏が近づいてきた。
片付けを手伝いに来たのかと思ったが、椅子には手を伸ばさなかった。
「橘さん」
日向は手を止めた。
「好きです。付き合ってください」
言葉が少なかった。
理由も、経緯の説明も、何もなかった。
ただそれだけだった。
体育館の中はまだざわついていて、周囲の声が続いていたが、日向にはしばらくそれが聞こえなかった。
計算がない、と思った。うまく見せようとしていない、と思った。
こういう告白の仕方をする人間が、日向の周囲にいなかったわけではない。
しかしこれほど言葉が少なく、それでいてこれほど迷いがない告白を、日向は受け取ったことがなかった。
「わかりました」
日向は答えた。それも、理由のない言葉だった。
付き合い始めてから、奏の不思議さが少しずつわかってきた。
言葉が少ない人だった。
しかし無関心なのとは違った。
日向が話しているとき、奏はいつもちゃんと聞いていた。
相槌は少なく、返す言葉は短かったが、話したことを後から覚えていた。
細かいことまで覚えていた。
日向が三週間前にふと言ったことを、ある日の帰り道に奏が参照してきたとき、日向は少し驚いた。
「覚えてたの」
「うん」
「なんで」
「大事だと思ったから」
それ以上の説明はなかった。
奏はそういう人だった。
言葉で説明するより先に、行動でそこにいた。
日向のそばにいることを、奏はいつも当然のように選んだ。
待ち合わせに遅れたことがなかった。
日向が疲れているときは、どこかへ行こうと誘わなかった。
何も言わなくても、その日の日向の状態を、奏は大抵のことを読んでいた。
言葉より先に存在がそこにある、という感覚を、日向は初めて誰かから受け取った。
週末、二人で電車に乗って海を見に行った。
神奈川の、さほど有名でない海岸だった。
奏が「行ったことがある」と言ったので日向がついていく形になったが、着いてみると奏は特に何をするわけでもなく、ただ海を見ていた。
日向もならんで海を見た。
波の音だけがあって、二人はほとんど話さなかった。
それでも、嫌な沈黙ではなかった。
どこでもない海、と日向は思った。
ここが、奏の描いていた海の原型なのかもしれなかった。
あるいは、そうではないのかもしれなかった。
聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく良かった。
夏が終わるころ、二人は三年生になった最初の夏を過ごし終えて、受験という言葉が会話に混じり始めた。
奏は地元の大学を考えていると言った。
美術系の専門学校も視野にある、とも言った。
まだ決まっていない、と付け加えた。
日向は東京の大学を志望していた。
文学部か、出版社への就職を見据えた学部か、それも迷っていたが、東京に行くこと自体は早くから決めていた。
二人の進路が重ならないことを、日向はそのとき初めてはっきり意識した。
「卒業したら、どうする?」
海を見ながら、日向は聞いた。
二度目の、夏の終わりの海だった。
奏は少し間を置いた。
いつもの間だった。しかし今回は、その間がいつもより少し長かった。
「そのとき考える」
その言葉の意味を、このとき日向はまだ知らなかった。
知らなかったから、それ以上聞かなかった。
波が来て、返して、また来た。
奏は海を見ていた。
日向もならんで、海を見ていた。
その夏が、二人にとって一番穏やかな季節だったということを、日向がわかるのはずっと後のことだ。




