第十二話 春と、答え
(現在軸・奏視点)
四月になった。
東京の春は、気づかないうちに来ている。
三月の終わりまで冬の顔をしていた街が、ある朝突然、別の色になっている。
コートを脱いで歩ける日が来て、駅前の桜が一斉に開いて、風が変わる。
その変化は毎年同じように訪れるのに、毎年少し驚く。今年もそうだった。
事務所の窓から、桜の木が見えた。
隣のビルとビルのあいだに、一本だけある木だった。
誰が植えたのか、誰の管理なのかも知らない。
ただ毎年この季節になると、そこに白い花を咲かせた。
奏はその木を、窓越しに三年見てきた。
しかし今年初めて、ちゃんと見た気がした。
見えていたものと、見ているものは、違う。
そのことを、今年の春に奏は知った。
図面を引く手を止めて、少しの間、窓の外を見た。
桜はまだ七分咲きだった。
麻衣との関係は、冬のあいだに少しずつ変わっていた。
大きな話し合いを重ねたわけではなかった。
劇的な和解があったわけでも、何かを誓い合ったわけでもなかった。
ただ、小さなことが積み重なっていた。
奏が夕食を作るようになったこと。
麻衣の話を、以前より少し多く聞くようになったこと。
週末、二人でどこかへ行くことが増えたこと。
どれも小さなことだったが、小さなことの積み重ねが、日常というものの実質だと奏は思うようになっていた。
二月の終わり、麻衣が「春になったら、少し遠くへ行きたい」と言った。
「どこがいい?」と奏は聞いた。
「海」と麻衣は言った。
奏は少し間を置いた。
間を置いたことに、麻衣は気づかなかったかもしれない。
あるいは気づいていたかもしれない。
どちらにせよ、奏は答えた。
「いいね」と奏は言った。
それは本当のことだった。
麻衣と海へ行く、ということを想像したとき、奏の中に別の海が浮かんだ。
しかしその海は、浮かんで、通り過ぎた。
通り過ぎることができた。
それが、冬を越えた自分と、冬の前の自分の違いだった。
結婚の話は、まだ決まっていなかった。
麻衣から急かされることも、この冬はなくなっていた。
奏が変わったことを、麻衣は感じているのだと思う。
変わった方向が正しいかどうかを、麻衣はまだ見ているのかもしれない。
それでいいと奏は思っていた。
答えを急ぐより、今ここで正直にいることの方が、二人にとって必要だった。
結婚という言葉を聞いたとき、以前のように何かが止まることが、少なくなっていた。
完全になくなったわけではなかった。
しかし以前の「止まる」は、どこへも向かわない止まり方だった。
今の「止まる」は、考えるための止まり方だった。
その違いを、奏は自分の中で感じていた。
向かっている、という感覚が、今年の春にはあった。
どこへ向かっているかを、言葉にするにはまだ早かった。
しかし方向は、見えていた。
昼休み、奏は公園のベンチに座っていた。
四月の日差しは柔らかくて、コートなしで外にいられた。
サンドイッチを食べながら、スケッチブックを膝に置いた。
冬のあいだに、スケッチブックは一冊使い切っていた。
新しいスケッチブックだった。
最初のページを開いた。
まだ何も描いていないページだった。
白かった。
奏はしばらく、その白さを見ていた。
新しいスケッチブックの最初のページには、いつも少し緊張する。
ここに引く最初の線が、このスケッチブックの色を決める気がして。
線を引いた。
公園の景色だった。
四月の光の中にある、桜の木と、ベンチと、遠くで弁当を食べているサラリーマンの後ろ姿。
今ここにある景色を、そのまま線にした。
描きながら、奏は穏やかだった。
日向のことは、時々、思い出した。
思い出さない日もあったが、思い出す日もあった。
それは自然なことだと思っていた。
忘れようとすることも、思い出さないようにすることも、奏にはしっくりこなかった。
あの数ヶ月は、確かにあった。
日向と話したことは、本物だった。
それを消すことは、自分に嘘をつくことだった。
ただ、手放した。
手放すことと、忘れることは違う。
そのことを、この春の奏は知っていた。
その日の夕方、事務所に戻る前に、奏はスマートフォンを確認した。
麻衣からLINEが来ていた。
「桜、今週末が見頃らしいよ。どこか行く?」。
奏は「行こう」と返した。
すぐに「やった」と絵文字付きで返ってきた。
その絵文字を、奏は今日は素直に受け取れた気がした。
もう一つ、確認することがあった。
古いSNSのアプリを開いた。
日向のアカウントを見た。
最後の投稿が、更新されていた。
三月の終わりに投稿された、短いテキストだった。
春になった。ちゃんと、前を向いている。
それだけだった。
写真も、詳細な説明も、何もなかった。
しかしその文字の中に、日向の冬が入っていた。
奏にはそれが伝わった。
ちゃんと、前を向いている。
奏はその言葉を、もう一度読んだ。
日向が前を向いている。
それは、奏にとって安堵だった。
心配していたわけではなかったかもしれないが、安堵だった。
日向が自分の場所で、自分の時間を生きている。
それが確認できたことで、奏の中で何かが、静かに、完全に、落ち着いた。
アプリを閉じた。
フォローは、外さなかった。
外す必要を感じなかった。
日向の存在を消すことが誠実さだとは、奏には思えなかった。
あの数ヶ月は自分の一部で、日向はその時間の中にいた人で、それはこれからも変わらない。
ただ、今の自分はここにいる。
それだけのことだった。
事務所に戻る道で、奏は空を見上げた。
四月の空は高かった。
冬の低い空とは別の空だった。
雲が少なくて、青が深かった。
桜の花びらが一枚、風に乗って視界を横切った。
どこへ行くのかわからないまま、花びらは遠ざかっていった。
奏はそれを見送った。
この数ヶ月で、何かが変わった。
何が変わったかを言葉にしようとすると、まだうまくいかない部分があった。
しかし変わったことは確かだった。
見えていなかったものが見えるようになった。
手放すことを、手放す前より怖くなくなった。
今ここにある場所を、今ここにある人を、以前より少しだけちゃんと見られるようになった。
それが日向と会ったことで得たものなのか、それとも自分の中にあったものが時間とともに育っただけなのか、奏にはわからなかった。
たぶん、両方だった。
たぶん、そういうものだった。
人は誰かと出会うことで変わる。
出会いは選べない。
しかし出会ったことで何を受け取るかは、自分次第だった。
奏はまた歩き始めた。
夜、麻衣と夕食を食べた。
今夜の夕食は麻衣が作っていた。
パスタだった。
奏が帰宅すると、温かい匂いが部屋に満ちていた。
「今日は私が作った」と麻衣は言って、少し得意そうだった。
奏は「ありがとう」と言って、席に座った。
食べながら、今週末の話をした。
桜を見に行くなら上野がいいか、それとも別の場所がいいか。
麻衣がいくつか候補を挙げて、奏はそれを聞きながら、麻衣が楽しそうに話しているということを、まっすぐ受け取った。
楽しそうだ、という事実を、今夜は素直に見ることができた。
食後、奏はスケッチブックを開いた。
今日の昼に描いた公園の絵の続きのページに、今夜の食卓を描いた。
パスタの皿、ワインのグラス、麻衣が肘をついてスマートフォンを見ている横顔。
それだけの景色だったが、描いていると、温かかった。
線を引きながら、奏は思った。
どこでもない海は、今もどこかにある。
十年前に二人で見た海も、奏が描き続けた海も、今も世界のどこかに実在している。
それは変わらない。
しかしあの海に帰っていくことと、今ここにある場所を描くことは、別のことだった。
どちらが正しいかではなく、今の自分にはここを描くことが、正直だった。
そのことが、答えだと奏は思った。
完全な答えかどうかは、相変わらずわからなかった。
人生の答えというものが、完全な形で出ることは、たぶんほとんどない。
しかし今夜のこの食卓を、今ここにいる人を描いていることが、今の自分の正直な場所だった。
それで十分だった。
窓の外に、春の夜があった。
桜はまだ、咲いていた。
エピローグ
その年の春、橘日向は誠司と同じ区に引っ越した。
同居ではなかった。
互いの部屋を持ちながら、近くに住む、という形を選んだ。
急がない、という選択だったが、前へ向かう選択でもあった。
誠司は「近くなってよかった」とだけ言った。
その言葉の迷いのなさを、今の日向は遠く感じなかった。
本棚を整理したとき、四つ折りの紙が出てきた。
捨てなかった。
新しい部屋の本棚の端に、また挟んだ。
捨てない理由を、今の日向は少しだけ言葉にできる気がした。
しかし言葉にしなかった。
言葉にしなくていいものが、世界にはある。
それを日向は、この一年で学んだ。
どこでもない海は、今もどこかにある。
それでいい、と日向は思った。
芹沢奏は、その春、麻衣に結婚を申し込んだ。
大げさな場所ではなかった。
週末の朝、二人で朝食を食べているときだった。
言おうと決めていたわけではなかった。
ただ、そのとき、言葉が自然に出た。
「結婚しよう」
麻衣はしばらく奏を見ていた。
それから「うん」と言った。
泣かなかった。
笑わなかった。
ただ「うん」と言って、コーヒーを飲んだ。
その「うん」の中に、三年分より少し多い何かが入っていた気がした。
奏にはそれが伝わった。
朝食を食べ終えて、二人で桜を見に行った。
上野の桜は、満開だった。
人が多かった。
花びらが風に舞っていた。
麻衣が「きれいだね」と言った。
奏は「そうだな」と言った。
麻衣の横顔を見た。
それから、空を見た。
青かった。
奏はコートのポケットにスケッチブックを入れていた。
しかし今日は取り出さなかった。
この景色は、描かなくてもいい気がした。
描かなくても、ここにある。
今日のこの青空と、満開の桜と、隣にいる人が、ここにある。
それは、答えだった。
(完)




