第十一話 既読スルー、もう一度
(現在軸・奏視点)
一月になった。
年が変わったことで、何かが劇的に変わるわけではなかった。
仕事は五日から始まって、締め切りがあって、打ち合わせがあって、図面を引く日々が続いた。
東京の一月は乾いていて、空気が冷たく澄んでいた。
朝、事務所へ向かう道で息が白くなった。
それだけが、年末と違う景色だった。
麻衣との関係は、年末の夜から少しずつ変わっていた。
劇的な変化ではなかった。
大きな話し合いがあったわけでも、何かを誓い合ったわけでもなかった。
ただ奏が夕食を作るようになっていた。
麻衣が帰ってくる前に、たいしたものではないが、温かいものを食卓に並べるようになっていた。
麻衣はその変化を、何も言わずに受け取った。
「ありがとう」と言って、座って、食べた。
その「ありがとう」の言い方が、毎回少し違った。
嬉しそうな日もあった。
疲れているのにほっとした顔をする日もあった。
奏はその違いを、以前より注意して見るようになっていた。
見ていなかったものを、見る。
それが今の奏にできることだった。
メッセージを送ったのは、一月の第二週に入ったころだった。
深夜、仕事の残業を終えて帰宅した後、スマートフォンを開いて、気づいたら打っていた。
送るかどうかを、長く迷ったわけではなかった。
迷う以前に、送るべきかどうかの答えは、年末の夜にすでに出ていた気がした。
それでも指が動いたのは、終わりをちゃんと終わりにしたかったからかもしれなかった。
あるいは、ただ確かめたかったからかもしれなかった。
何を確かめたかったのかは、自分でも正確にはわからなかった。
また会えますか。
それだけを送った。
既読がついた。
返信は来なかった。
一時間待った。
その間、奏は風呂に入って、コーヒーを淹れて、スケッチブックを開いた。
返信を待っていたわけではなかった。
正確には、待っていたが、返信が来ないかもしれないということも、最初からわかっていた。
どちらの可能性も、等しく持っていた。
既読がついた瞬間に、日向がメッセージを読んだことは確かだった。
読んで、返信しないことを選んだ。
それが日向の答えだった。
奏はそれを、責める気持ちがなかった。
最初の夜を思い出した。
古いSNSのアプリに橘日向からのフォローリクエストが届いて、承認するかどうかを電車の中で考えていた夜。
あのとき奏は既読スルーしかけた。
スルーしかけて、結局承認ボタンを押した。
あの夜から始まったことが、今夜、逆の形で終わろうとしていた。
あのときの自分が既読スルーしかけたように、今夜の日向は既読スルーを選んだ。
その逆転の中に、何かが完結している気がした。
翌朝、起き抜けに確認した。
返信は、来ていなかった。
奏は画面を見て、少し間を置いた。
それから、スマートフォンをポケットにしまった。
麻衣がキッチンで動く音がした。
奏はリビングを出て、キッチンに入った。
麻衣がトーストを焼いていた。
「おはよう」と奏は言った。
「おはよう」と麻衣が言った。
それだけだった。
それだけで、朝が始まった。
奏はコーヒーメーカーのスイッチを入れて、冷蔵庫から牛乳を出した。
麻衣の隣に立って、朝の支度をした。
二人分の朝食を作ることが、いつの間にか自然になっていた。
麻衣が「今日、早い?」と聞いた。
「普通くらい」と奏は答えた。
「夜は帰れると思う」
「じゃあ、一緒に食べよう。夕飯」
「うん」
会話はそれだけだった。
饒舌ではなかった。
しかし過不足がなかった。
以前の「過不足ない」とは、少し質が違った。
以前の過不足なさは、言葉が少ない、ということだった。
今朝の過不足なさは、必要なことが、必要なだけ、そこにある、ということだった。
その違いに気づいたとき、奏は麻衣の横顔を見た。
トーストが焼き上がって、麻衣が皿に乗せた。
その仕草を、奏はまっすぐ見た。
三年間、この人がそばにいた。
そばにいながら、ちゃんと見ていなかった時間があった。
その時間が戻ってくるわけではなかった。
しかし今から見ることは、できる。
それで十分かどうかは、まだわからなかった。
しかし今朝の奏には、それが出発点だった。
昼休み、奏は事務所近くの公園のベンチに座った。
スケッチブックを膝に置いた。
年末に描いた東京の公園の景色の、続きのページを開いた。
前回の絵を少し見てから、今日の景色を描き始めた。
一月の公園は、枯れた木と、低い空と、遠くで走る子供の姿があった。
それをそのまま、線にした。
描きながら、日向のことを考えた。
返信が来なかったことで、日向の選択がわかった。
日向は誠司との関係を、前に進めようとしている。
あるいはすでに進め始めている。
そのための既読スルーだった。
奏にはそれが伝わった。
言葉がなくても、伝わることがある。
言葉にしなくても届くものがある。
そのことを、奏は十八歳のころから知っていたはずだった。
しかし大人になる過程で、どこかに置いてきていた気がした。
日向と会ったことで、それを思い出した。
そう考えると、この数ヶ月は何だったのか、という問いへの答えが、少しだけ見えた気がした。
失ってはいけないものを、確認する時間だったのかもしれなかった。
日向との時間が、麻衣との関係の中で自分が見ていなかったものを、照らし出した。
その照らし出し方は、遠回りで、危うくて、麻衣を傷つけるすれすれのものだった。
それは間違っていたかもしれない。
しかし、気づいた。
気づいたことを、これからどう使うかが、問題だった。
奏はスケッチブックの線を見た。
今日の公園が、そこにあった。
どこでもない海ではなく、今日の、この場所の景色が。
夕方、事務所を出る前に、奏は古いSNSのアプリを開いた。
日向のアカウントを見た。
最後の投稿は、年末のものだった。
短いテキストで、特別なことは書いていなかった。
フォローは、まだ続いていた。
奏も日向も、フォローを外していなかった。
奏はアプリを閉じた。
外すべきかどうかを、少し考えた。
考えて、今日は外さないことにした。
外すことが正解なのか、外さないことが正解なのか、まだわからなかった。
ただ、今日の奏には、それを決める必要がなかった。
必要なことは、もう少し別のところにあった。
コートを着て、鞄を持って、事務所を出た。
外は暗くなっていた。
一月の夜は早い。
しかし空気が澄んでいて、遠くのビルの明かりがはっきり見えた。
奏は駅へ向かいながら、麻衣に「今から帰る」とLINEを送った。
すぐに返信が来た。
「わかった。待ってる」
今夜のその言葉は、いつもと同じ四文字だった。
しかし奏には、その四文字の中に、三年分の時間が入っている気がした。
待ってる。
それは、今日も待っていた、ということで、昨日も待っていた、ということで、ずっと待っていた、ということだった。
奏は歩きながら、その言葉を、受け取った。
今夜は、ちゃんと受け取れた気がした。
帰宅すると、部屋が温かかった。
麻衣が暖房をつけて待っていた。
テレビの音がして、キッチンから何かを煮る匂いがした。
奏はコートを脱ぎながら「ただいま」と言った。
「おかえり」と麻衣が言った。
それだけだった。
しかしその「おかえり」が、今夜は部屋の温かさと同じ質感を持っていた。
奏はしばらくその場所に立って、温かさを、素直に受け取った。
受け取ることを、以前より自然にできた気がした。
夕食を食べながら、他愛のない話をした。
今日の仕事の話、テレビの話、週末の話。
どれも大きな話ではなかった。
しかし小さな話の積み重ねが、日常というものだった。
その日常の中にいることを、奏は今夜、少し違う目で見ていた。
食後、麻衣が洗い物をしていた。
奏はテーブルで、スケッチブックを開いた。
新しいページに、線を引いた。
今夜の部屋の景色だった。
テーブルの上の食器、窓の外の夜、キッチンに立つ麻衣の後ろ姿。
奏が今いる場所の、今見えているものを、そのまま描いた。
描きながら、奏は静かだった。
日向のことを、忘れたわけではなかった。
忘れることは、たぶん、しばらくはできない。
しかし手放した。
年末の夜に、一度手放した。
今夜のこの絵が、その続きだった。
どこでもない海ではなく、今ここにある場所を描くことが、今の自分の答えだった。
完全な答えかどうかは、まだわからなかった。
しかし、これが今夜の奏の、正直な場所だった。




