表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/12

第十話 それぞれの朝

(現在軸・奏/日向、交互描写)


 一 奏、午前七時


 目が覚めたとき、部屋はまだ暗かった。

 カーテンの端から、冬の朝の光が細く入っていた。

 奏はしばらく天井を見ていた。

 昨夜、麻衣に「ごめん、今から帰る」と送って、帰宅したのは十一時を過ぎていた。

 麻衣は起きていた。

 夕食を温め直してくれていた。

 二人で食卓に座って、ほとんど話さずに食べた。

 麻衣は何も聞かなかった。

 奏も何も言わなかった。

 食器を片付けて、それぞれ眠った。


 その沈黙が、朝になってもまだ部屋に残っていた。

 奏は起き上がって、キッチンに行った。

 コーヒーを淹れながら、昨夜の麻衣の顔を思い出した。

 何も聞かなかった。

 しかし何も感じていなかったわけではないことは、その顔を見ればわかった。

 麻衣は賢い人だった。

 聞かないことを選ぶとき、麻衣は必ず理由を持っていた。

 今夜は聞かない、という判断を、昨夜の麻衣はしていた。


 コーヒーができた。マグカップを両手で包んで、窓の外を見た。

 冬の朝の空は低くて、灰色だった。

 奏は麻衣の寝室のドアを見た。

 閉まっていた。

 まだ眠っているか、起きていても出てこないでいるか、どちらかだった。

 奏はそのドアの前に立って、ノックをしようとして、止まった。

 今すぐ話すべきことがある。

 そのことはわかっていた。

 しかし話す言葉が、まだ整っていなかった。

 言葉が整わないまま話すと、正確でないことを言ってしまう。

 正確でないことを言うより、もう少し待つ方がいい。

 それは先送りかもしれなかった。

 しかし今朝の奏には、それが誠実さでもあった。


 二 日向、午前七時十五分


 日向は朝から目が覚めていた。

 眠れなかったわけではなかった。

 ただ、夜明け前に一度目が覚めて、そこから浅い眠りと覚醒を繰り返していた。

 スマートフォンを見ると七時を過ぎていた。

 起き上がる理由もなかったが、横になっている理由もなくなって、日向は布団から出た。

 洗面台の鏡を見た。

 昨夜泣いたことが、少し目に残っていた。

 泣いた、という事実を、今朝の日向はそのまま受け取った。

 泣いたことを後悔していなかった。

 泣くべき夜だったと思った。

 声を出さずに泣いたのは、泣いていることを認めたくなかったからではなく、声を出すほど大きな感情ではなかったからだ、と今なら思う。

 静かな涙だった。

 静かだったが、本物だった。


 コーヒーを淹れて、ソファに座った。

 誠司からLINEが来ていた。

 昨夜送った「おやすみ」への返信がそのままになっていて、今朝「おはよう、今日会える?」と新しいメッセージが来ていた。

 日向はそのメッセージを見て、少し考えた。

 今日会える?

 その問いへの答えは、すぐに出た。

 会いたかった。

 会って、話したかった。

 話したいことが、今朝の日向にはあった。

 それが何かを、日向はすでに知っていた。

 知っていたから、昨夜から少しずつ、その言葉の形を整えていた。

 日向はLINEを返した。

 会いたい。

 今日の夕方、時間ある?

 送信して、スマートフォンをテーブルに置いた。

 コーヒーを一口飲んだ。温かかった。


 三 奏、午前八時三十分


 麻衣が起きてきたのは、八時を過ぎたころだった。

 キッチンに来て、奏が淹れたコーヒーの残りを自分のカップに注いで、テーブルに座った。

 奏の向かいに座った。

 二人でコーヒーを飲んだ。

 しばらく、何も言わなかった。

 麻衣が先に口を開いた。

「話したいことがある?」

 聞き方が、いつもと違った。

 責めているのではなかった。

 確認している、という声の温度だった。

 奏が話したいことを抱えているかどうかを、麻衣は昨夜からわかっていて、今朝、その確認をしていた。

 奏は少し間を置いた。

「ある」

「今じゃなくていい」と麻衣は言った。

「でも、ちゃんと話してほしい」

「うん」

「それだけ」

 麻衣はそう言って、コーヒーを飲んだ。

 それ以上追わなかった。

 責めなかった。

 泣かなかった。

 ただ「ちゃんと話してほしい」という一言を、静かに置いた。

 奏はその言葉を、受け取った。

 受け取りながら、麻衣という人間のことを、今朝初めてちゃんと見ている気がした。

 三年間、そばにいた。

 そばにいながら、ちゃんと見ていなかった部分があったことを、今朝の奏は知っていた。

 それがどういう意味を持つのかを、奏はこの朝、少しずつ考え始めていた。


 四 日向、午前十時


 誠司から返信が来たのは、九時を過ぎたころだった。

「もちろん。夕方六時でどう?」

 日向はその返信を見て、少し息を吐いた。

 緊張していたわけではなかった。

 しかし何かが、その返信で少し動いた気がした。

 誠司の「もちろん」という言葉は、いつも迷いがなかった。

 日向が会いたいと言えば、もちろんと言う。

 日向が話したいと言えば、聞くと言う。

 その迷いのなさを、日向はこれまで「穏やかさ」として受け取っていた。

 しかし今朝は、違う角度から見えた。

 迷いがないのは、日向のことを必要としているからだ、と今朝は思った。

 穏やかさの下に、誠司なりの確かさがある。

 その確かさに、日向はこの一年、どれだけ気づいていただろう。

 気づかないふりをしていた部分が、あったかもしれない。


 日向は窓の外を見た。

 冬の空は低くて、灰色だった。

 しかし光はあった。

 雲の向こうに、冬の太陽が薄く滲んでいた。

 話したいことがあった。

 うまく言えるかどうかは、わからなかった。

 しかし言わなければならない、という感覚が、今朝の日向にははっきりあった。

 言葉にすると、外側にあるものが見えなくなる。

 そう思って言葉を避けてきた。

 しかし言葉にしなければ、相手には何も渡せない。

 渡せないまま受け取り続けることは、誠司に対して誠実ではなかった。

 そのことに、気づくのが遅かった。

 日向は「六時に」と返信した。

 それだけ送って、スマートフォンを置いた。

 本棚の端に目がいった。

 四つ折りの紙は、いつもの場所にあった。

 日向はそこから目を離して、窓の外の冬の空を、もう一度見た。


 五 奏、午後


 昼過ぎ、奏は一人で近くの公園を歩いた。

 麻衣は午後から友人と会う予定があって、出かけていた。

「夕方には戻る」と言っていた。

 奏は一人で部屋にいられなくて、外に出た。

 公園のベンチに座って、スケッチブックを開いた。

 何を描くつもりもなかった。

 ただ、手を動かしたかった。

 しばらく白いページを見ていた。

 それから、線を引いた。

 水平線ではなかった。

 東京の、冬の公園の景色だった。

 枯れた木の輪郭、遠くのビルの稜線、ベンチの影。

 奏が今いる場所の、今見えているものを、そのまま描いた。

 どこでもない場所ではなく、ここにある場所を。

 描きながら、麻衣の「ちゃんと話してほしい」という言葉を思い返した。

 ちゃんと話す、ということが何を意味するか、奏にはわかっていた。

 日向のことを、話すのではない。

 日向のことを話したとして、麻衣に何かを説明したとして、それは誠実さではなかった。

 誠実さとは、自分が今どこにいるかを、正確に伝えることだった。

 今どこにいるか。

 奏はスケッチブックの線を見た。

 ここにある場所を、描いていた。

 どこでもない海ではなく、今自分がいる東京の公園を、描いていた。

 それが、今朝から少しずつ動いていた何かの、答えに近いものだった気がした。

 答えに近い、という程度だった。

 まだ答えではなかった。

 しかし答えに向かって、歩き始めている。

 そのことだけは、今日の奏にはわかった。


 六 日向、夕方


 誠司と会ったのは、駅の近くのカフェだった。

 向かいに座った誠司は、いつもと変わらなかった。

 穏やかで、日向を急かさない、いつもの誠司だった。

 コーヒーを頼んで、少し話して、それから日向は言った。

「話したいことがあって」

「うん」と誠司は言った。

「聞く」

 日向は少し間を置いた。

 言葉を整えた。

 整えた言葉が、本当のことを言えているかどうかを、もう一度確認した。

 完全ではないかもしれない。

 しかし今の自分が言える、一番正直な言葉だと思った。

「私、誠司のこと、ちゃんと見てなかったと思う」

 誠司は何も言わなかった。

 続きを待っていた。

「安心できる人だって思ってた。それは本当だった。でも安心、って言葉で、もっと大事なものを見ないようにしてた気がする」

「もっと大事なもの、って?」

 日向は少し考えた。

「誠司が、私のことを必要としてくれてること。それを、ちゃんと受け取ってなかった」

 誠司はしばらく黙っていた。窓の外を一度見て、それから日向を見た。

「なんで今日、それを言おうと思ったの」

「言わなきゃいけないと思ったから」と日向は言った。「言葉にしないと、渡せないものがあるって、やっと気づいたから」

 誠司が、小さく笑った。

 責めている笑いではなかった。

 何かを受け取った、という笑い方だった。

「気づいてくれてよかった」と誠司は言った。

 それだけだった。

 日向はその言葉を、今日は遠く感じなかった。


 七 奏、夜


 麻衣が帰ってきたのは、七時を過ぎたころだった。

 奏はテーブルに夕食を並べて待っていた。

 麻衣が「あ、作ってくれたの」と言った。

 驚いた顔だった。

 奏が夕食を作るのは、珍しかった。

「たいしたものじゃないけど」と奏は言った。

 二人でテーブルに座って、食べ始めた。

 しばらく、他愛のない話をした。

 麻衣の友人の話、年末の話、来年の話。

 食事が半分ほど進んだころ、奏は箸を置いた。

「話したいことがある」

 麻衣が奏を見た。

 今朝と同じ目だった。

 責めていない。

 ただ、聞く準備ができている目だった。

「俺、最近、どこかにいたと思う」

 麻衣の言葉を、そのまま使った。

 どこかにいた。

 その言葉が、今の自分の状態を一番正確に表していた。

「うん」と麻衣は言った。

「それが何だったかは、うまく説明できない。でも、もう少し、麻衣のそばにいたい、と思ってる」

 言葉にすると、小さくなる部分があるかもしれなかった。

 言葉の外側にある部分は、言葉にならないまま残るかもしれなかった。

 それでも、言わなければ渡せない。

 言葉にしなければ、麻衣には何も届かない。

 麻衣はしばらく奏を見ていた。

 それから、小さく「うん」と言った。

 それだけだった。

 許した、とも、許さない、とも言わなかった。

 ただ「うん」と言って、箸を取った。

 奏も箸を取った。

 二人でまた、食べ始めた。

 窓の外に、冬の夜があった。

 静かだった。


 八 夜、それぞれの場所で


 その夜、奏のスマートフォンに日向からメッセージが届いた。

 誠司と話した。

 ちゃんと話せてよかった。

 おやすみ。

 奏はそのメッセージを読んで、しばらく画面を見ていた。

 日向が何を話したかは、書いていなかった。

 しかし奏には、おおよそのことが伝わった。

 伝わった、と思った。

 そしてそれが、日向にとって正しい選択だったということも。

 奏は返信を打った。

 よかった。

 おやすみ。

 送信して、スマートフォンを置いた。

 麻衣はもう眠っていた。

 奏は部屋の明かりを落として、窓の外を少し見た。

 冬の夜空に、星は見えなかった。

 雲の向こうに、あるのかもしれなかった。

 今日、公園で描いた東京の景色を思い返した。

 どこでもない海ではなく、今ここにある場所を描いていた。

 その線が、今日の自分の答えだった気がした。

 完全な答えではなかった。

 しかし、向かっている方向は、今日初めて見えた気がした。


 奏は目を閉じた。

 日向の手が冷たかったことを、もう一度だけ思い出した。

 それから、手放した。

 手放すことが、今夜の奏にできる、一番誠実なことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ