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第一話 既読、10年後

 通知が来たのは、終電ひとつ前の電車の中だった。


 芹沢奏は吊り革につかまったまま、スマートフォンの画面を見ていた。

 LINEのアプリに麻衣からのメッセージが三件たまっていて、そのうちの一件だけ開いた。

「今日も遅いの?」。

 既読マークをつけて、返信はしなかった。

 するべき言葉が見つからないというより、今夜はそこに言葉を費やす余力が残っていなかった。


 締め切りが続いていた。

 事務所のコンペ案件が来月頭に重なっていて、先週から残業が続いている。

 設計の仕事はそういうものだと奏は思っている。

 波があって、波が来ているときは波の中にいるしかない。

 麻衣はそれをわかっていて、だからこそ「今日も」という言葉を使う。

 責めているのではなく、確認している。

 わかっているのに、その確認に答えるだけの言葉が今夜は出てこなかった。

 電車が揺れた。

 奏はスマートフォンをコートのポケットに戻そうとして、画面の端に見慣れない通知バッジが光っているのに気づいた。

 赤い小さな丸。

 ほとんど使っていないSNSのアプリだった。

 大学時代に友人に勧められて入れたまま、二十三か四のころからほとんど触っていないアカウント。

 いつの間にかスマートフォンを機種変更するたびに引き継がれてきた、抜け殻みたいなアプリ。

 開いた。

 フォローリクエストが一件。

 ユーザー名を見た瞬間、電車が大きくカーブを曲がった。

 吊り革を握る手に、余計な力が入った。

 

 橘日向。

 アイコンの写真は小さくて、よく見えなかった。

 短い髪の、明るい場所にいる人の輪郭だけが見えた。

 それが彼女かどうか、この小さな画像では確認できない。

 しかし、この名前は世界にそう多くない。

 少なくとも奏の知っている範囲には、橘日向という名前を持つ人間はひとりしかいなかった。


 十年前に別れた。

 正確には、別れを告げられた。

 十二月の、寒い日だった。

 それ以外の細部は、思い出そうとすればおそらく出てくるのだろうが、奏は普段そこに意識を向けないようにしていた。

 向けなくても生きていけるし、向けることで得るものが何かあるとは思えなかった。


 電車が駅に着いた。

 乗り換えの駅だった。

 ホームに降りて、人の流れに乗って歩きながら、奏はスマートフォンの画面から目を離せなかった。

「承認する」と「拒否する」のボタンが並んでいる。

 どちらかを押さなくてもこのまま保留にしておける。

 そうする人間もいると思う。

 それが普通かもしれない。

 十年ぶりに元交際相手からフォローリクエストが来たとして、普通の人間はどうするのか。

 奏には判断する基準がなかった。

 乗り換えの電車を待つホームで、奏は柱の脇に立った。

 スマートフォンの画面がスリープになった。

 また起こして、画面を見た。

 指が、承認ボタンを押した。

 押してから、スマートフォンをポケットに突っ込んだ。

 何かをしてしまったという感覚が、うっすらと胸に広がった。

 それが何なのかを考える前に電車が来て、奏は乗り込んだ。


 翌朝、メッセージが届いていた。

 奏はキッチンでコーヒーを淹れながら気づいた。

 昨夜と同じSNSのアプリに通知が来ている。

 麻衣へのLINEの返信は寝る前に短く済ませてあった。

「疲れてた、ごめん。明日は早く帰れると思う」。

 麻衣から「わかった、おやすみ」と返ってきて、それで終わった。

 過不足ない、いつものやり取りだった。

 コーヒーをマグカップに注いで、テーブルに座った。

 アプリを開いた。

 橘日向からのメッセージ。

 久しぶり。元気?

 五文字だった。

 句読点もなく、絵文字もなく、ただ五文字だった。

 奏はその五文字を三回読んだ。

 読んでいる間にコーヒーが少し冷めた。


 返信を打ち始めた。

「久しぶり」と打って消した。

「元気だよ、日向は?」と打って、「日向は」の部分を消した。

 なぜ消したのか自分でもわからなかった。

 名前を使うことが、何かの一線を越える気がした。

 気がしただけで、実際には何でもないかもしれない。

 しかし気がしたので消した。

「元気だよ。そっちは?」

 それだけを送った。

 既読がすぐについた。

 日向は今、スマートフォンを手に持っている。

 奏はその事実を、少し奇妙な気持ちで受け取った。

 橘日向という人間が今この瞬間、どこかで画面を見ている。

 十年という時間が実在したことと、今この瞬間が実在していることの、両方が本当だという感覚。


 返信が来るまで、四分かかった。

 元気だよ。

 私も東京にいるよ。

 今度、会えたりする?

 奏はその文章を読んで、マグカップを両手で包んだ。

 コーヒーはもうほとんど冷めていた。


 昼休み、奏は事務所近くの公園のベンチに座っていた。

 コンビニで買ったサンドイッチを半分食べて、残り半分を袋に戻した。

 食欲がないというより、手が止まった。

 朝の返信を、まだしていなかった。

「今度、会えたりする?」

 この問いに対して、「会えるよ」と答えることと、「難しいかな」と答えることのあいだに、どれほどの距離があるのかを、奏は昼前からずっと測っていた。

 どちらも嘘ではない。

 会えるかと言われれば会える。

 難しいかと言われれば、そういう側面もある。

 しかし言葉というのは、どちらを選ぶかで意味が変わる。

 自分でも気づかないうちに、言葉は自分の意図を先取りしてしまうことがある。


 奏は仕事用のスケッチブックを膝に広げていた。

 午前中の打ち合わせで走り書きしたメモや、断面図の下書きが並んでいる。

 その余白に、気づかないまま線を引いていた。

 水平線だった。

 どこの水平線でもない、ただ一本の直線。

 その下に緩やかな波の線を二、三本。

 奏はその線を見て、少しの間動かなかった。


 スマートフォンを取り出して、返信を打った。

 いいよ。どのあたりが都合いい?

 送信して、スケッチブックを閉じた。

 サンドイッチの残りを袋ごとゴミ箱に捨てて、立ち上がった。

 公園の出口に向かいながら、ポケットの中でスマートフォンが振動した。

 返信が来た。

 奏は立ち止まらずに歩き続けて、事務所のビルに入って、エレベーターを待つあいだに画面を開いた。

 神保町に好きな喫茶店があるんだけど、そこどうかな。

 

 神保町。

 奏は東京に出てきて八年になるが、神保町に縁があったことはほとんどない。

 しかし日向がそこを「好きな喫茶店」と呼ぶことは、何かを意味している。少なくとも、提案するための名前として出てきた場所ではない。

 エレベーターが来た。

 奏は乗り込みながら返信した。

 神保町でいいよ。

 扉が閉まった。鏡張りの扉に、スマートフォンを持った自分が映っていた。

 その顔が何を考えているのか、奏にはよくわからなかった。

 階数ボタンを押して、奏はスケッチブックを開いた。

 さきほど描いた水平線のページを、一度だけ見て、また閉じた。


 その夜、麻衣からLINEが来た。

「明日、早く帰れそう? 一緒にご飯食べたいな」。

 奏は返信した。

「たぶん大丈夫。どこか予約しておいて」。

 麻衣が「やった」と絵文字付きで返してきた。

 奏はその返信を見て、スマートフォンを伏せた。

 テーブルの上に、伏せたまま置いた。

 今日一日の自分の行動を、順番に思い返した。

 昨夜、承認ボタンを押したこと。

 今朝、返信したこと。昼に、会う約束をしたこと。

 どれも、やましいことではなかった。

 高校の同級生と、久しぶりに連絡を取り合って、会う約束をしただけだ。

 それ以上でも以下でもない。

 やましいことは、何もない。


 奏はそのことを、もう一度確認した。

 確認する必要があったという事実を、奏はしばらく、見ないようにした。

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