9. ぼくは吸血鬼です。
アルバート・ホールでの練習を終えて外に出ると、夜中の二時を過ぎていた。 流音は憧れの劇場で演奏できたことに、まだ興奮していた。
ケンジントン・パークの近くは、もうほとんど人影がなく、街灯の光だけがアスファルトをぼんやりと照らしている。冷たい夜の空気が肌を刺し、エドガーは黒いコートの襟を立てた。遠くでタクシーのエンジン音が静かに響くだけで、あとは何も聞こえない。
「疲れたでしょう。さあ、うちに帰りましょう」
「うちに?」
「ぼくのうちです。ロンドンのアパートですが、嫌ですか?」
「いいえ、とんでもない。先生がどんなところにお住まいなのか、見てみたいです」
「きっと驚きますよ」
「すごいところなのですか?それとも、散らかっているという意味ですか?」
「整理はしているほうですが、散らかってはいます。半分が研究室なので」
「何の研究ですか?」
エドガーはいよいよ言わなければならない時が来たと心を決めた。
「DNAの研究です。吸血鬼が人間になる研究です」
「それは、……おもしろい研究ですね」
「そう思いますか?吸血鬼の染色体を探して、それを取り出してしまう研究です。まだ、うまくはいっていませんが」
「どうして、そんな研究を?人間になりたい吸血鬼がいるのですか?」
「いますよ」
「吸血鬼は死なないと聞いています。そのほうが楽なのに、どうして人間になりたいのでしょうか?」
「どうしてでしょうね。なりたいとか、好きとかいうのには理由はないでしょう。ぼくは子供の時から、人間になるのが夢なのです」
「先生が?」
流音は意味がまだよく理解できていない。
「そうです。ぼくは吸血鬼です。湖水地方から、どうしてこんなに早くロンドンに帰って来られたのか、わかりますか?」
「ああ、そう言えば」
流音の目が左右に動いた。
「にんにくも、明るい場所もだめでしたね」
「気がつきましたか」
「車はどこですか」
「途中に置いて、空を飛んできたのですよ」
「空を」
流音が空を見上げた。
「でも、先生は、お医者さんですよね。たくさんの人間を助けていらっしゃいます」
「ぼくは人間になりたくて、十三歳でロンドンにやって来て、医学校に入りました」
「医学校で、人間になる方法を教えてくれるのですか」
「そんなこと、教えてくれませんよ。自分で見つけなければなりません」
「そうですにね。あのう、吸血鬼って、血が必要だと聞いていますが」
「そうですよ。ぼくは緊急外科医ですからね、輸血用の血液はたくさん手に入ります。ぼくは他の医者より手術がうまいので、普通の医者の半分しか輸血を使いません。だから、残りをもらっても、誰も不審には思わないのです」
「じゃ、それって、先生にぴったりの職業ですね」
と流音が喜んだ。
エドガーは思うのだが、この流音という日本人は、純粋なのか、それとも天然なのか、予想外の反応をする。
この子は、吸血鬼と聞いても、少しも驚きはしなかった。
「流音さん、ぼくは告白しなければならないことがあります。あの手術していた時、ぼくはあなたの首に噛みつき、何度も吸血しました」
エドガーが彼女の首を指さした。
「ああ、どうりで」
と彼女は手を首に当てて、頭を傾けた。
「腕の傷はすっかり治ったのに、首が痛くて、触ってみたら、穴がありました。あそこですか?」
「そうですが、まだ痛いですか?」
「少し」
「どれどれ」
エドガーは彼女の髪をよけて、傷口を見た。
「ああ。炎症している。うちに帰ったら、手当てをしましょう。すぐに治ります」
「ありがとうございます」
「あなたはぼくが吸血鬼だと言っても、少しも恐れていませんね。冗談だと思っていますか?」
「いいえ。先生の言うことは、なんでも信じます。それに……」
流音はもじもじして、顔を赤くした。
「先生が必要なら、いくらでも、私の血を吸っていただいてかまいませんから。先生、おなかはすいていませんか?」
エドガーはもう少しで泣き笑いをするところだった。
この女子ときたら、本当に、ピュアすぎるのか、馬鹿なのか分からない。
エドガーの心臓がまた痛くなった。
なぜ流音の言葉でこんなにも心臓が締め付けられるのか、エドガーには分からなかった。 彼女の無垢な信頼は、これまでの孤独な人生で、出会ったことのないものだった。
彼女の純粋さに触れるたび、人間になりたいという長年の夢が、もっと深い願望として、胸に迫ってくる。
彼女の存在が、吸血鬼である自分の冷たい心臓に、初めて、熱い血を流し込んできた。
エドガーは、彼女を抱きしめたい。守ってあげたい。
こんな感情は初めてで、うれしさと不安が入り混じり、心の中が雲のようにふわふわする。
人間は、感情の動物だと聞いている。
ぼくは、人間に近づいているのだろうか。




