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8. ショパンのワルツ

流音は怯えたような表情で、そっとピアノの前に腰を下ろした。


椅子の位置を少し直し、指先で鍵盤に愛おしげに触れる。 両手を合わせて揉み、指を曲げてほぐしたあと、鍵盤を軽く叩いた。


目をしばたたき、もう一度、二度。 腕を回し、再び手を揉みながら、観客席のエドガーに不安げな視線を送る。 その瞳には、驚きと喜び、そして恐れが混ざっていた。

この子を、助けてやりたい。

エドガーは胸の奥に痛みを覚えた。


「好きなだけ、時間を使いなさい」 彼はそう言い残し、階段を上って重い扉を開け、ロビーへと出ていった。


ロビーは天井が高く、白い漆喰の壁に古びたシャンデリアが柔らかな光を落としていた。 深紅の絨毯には淡い幾何学模様が浮かび、ガラス扉の向こうには夜の街の灯りが瞬いている。


舞台の緊張から切り離された静けさが、そこには漂っていた。 壁際には椅子が並び、コンクールのポスターが貼られている。 笑顔の作曲家たちの肖像が、今にも語りかけてきそうだった。


再び胸が痛み、エドガーはChatDC――通称チャット・ドラキュラに尋ねた。


「心臓病ではない。感情の高ぶりによる現象。人間が恋をした時などに起こるが、価値はない。情けない症状で、何の役にも立たない」


もしかして、ぼくは人間に近づいているのか。


急いで人間度を測ってみると、十二パーセント。 通常の吸血鬼はマイナスで、高くても五パーセント。 それに比べれば高い数値だが、九十五を超えなければ、本格的な人間とは言えない。


そのとき、ホールの中から音楽が聞こえてきた。 レクイエムとはまったく異なる、しかし美しい旋律。


ChatDCに聴かせると、それはショパンのワルツ第2番 変イ長調 Op.34-1だと教えてくれた。 ショパン、名前だけは、エドガーも知っている。


優雅で華やか、繊細な表現力と完成度の高さが求められる。 有名な曲ゆえに、審査員も聴き慣れている。 だからこそ、些細なミスも目立ちやすく、磨き抜かれた技術が不可欠なのだという。


エドガーはロビーの椅子に腰を下ろし、背を丸めて両手で顔を覆いながら、音に耳を澄ませた。


流音の演奏は、恐る恐る始まったかと思えば、すぐに軽やかに跳ね始めた。 ワルツのリズムは花びらのように舞い、艶やかな光をまとって観客の耳に降りてくる。


小さな身体からは想像できないほど豊かな響きが生まれ、繊細なフレーズが巧みに織り上げられていた。 時折、かすかに震える音が混じるが、それがかえって生々しい感情を伝えてくる。 音は舞い上がり、沈み、息をするように揺れていた。


およそ六分後、曲が終わった。 その瞬間、エドガーの瞳から涙があふれ、彼を混乱させた。


この感情は何なのだろう。あの、役に立たない情けない症状なのか。


しばらくして別の曲が始まり、彼はそっと扉を開けて中を覗いた。 小さな流音が、ひたむきにピアノへ向かう姿が、また胸を刺した。


彼は椅子に戻り、ChatDCにヤナーチェクの『霧の中』について調べるよう頼んだ。 どうしても、流音に一次審査を通過させたい。


「この曲を、どうすればうまく弾けるか」

「そんなことは、作曲家に聞け」

「作曲家は死んでいる」

「それがどうした?」


吸血鬼のチャットは、人間のそれとは違い、厳しく自主性を重んじる。簡単には教えてくれない。


ならば、彼を訪ねていけばいい。


「彼の墓はどこだ」

「チェコ・ブルノ市、聖トマーシュ教会に隣接する旧ブルノ修道院に埋葬されている」

「わかった。ありがとう」


流音の練習はまだ続きそうだった。 エドガーは外に出てマントを羽織り、夜空へと舞い上がった。


夜のブルノ市。修道院の墓地は静まり返り、黒々とした木々の影が石の十字架を覆っていた。 苔むした墓標の列、雨に濡れた石畳からは冷たい匂いが立ち上る。


遠くで鐘が十二回鳴り、空に重苦しい余韻を残している。 月光が差し込むと、大理石に刻まれた名前が白く浮かび上がった。


エドガーはヤナーチェクの墓の前に立ち、呼びかけた。


「ヤナーチェクさん、起きてくれ」


何度か繰り返すと、墓の下から声が聞こえた。

「誰だか知らんが、うるさいな。眠りを妨げないでくれるか」


「質問に答えてくれたらすぐに帰る。あなたの『霧の中』をうまく弾くコツを教えてほしい」

「自分で考えろ」


「今度のプラハ音楽コンクールで、あなたの曲が課題曲に選ばれている。三十五人がそれを弾く」

「それは、面白そうだな」


「ピアニストになりたかった日本人少女の、最後の演奏だ」

「日本人か。日本は好きな国だ。私の曲を聴いてくれる人が多い」


「では、その日本人のために、何かアドバイスを」


「そうだな……、『霧の中』は技術を誇示するための曲ではない。 霧に包まれた風景を思い浮かべてほしい。遠くに見えるものが、はっきりしているようで曖昧で、近づけばすぐに消えてしまう。 鍵盤を叩くのではなく、霧の粒を指先でそっと撫でるように弾け。 強さよりも揺らぎを大切に。音が消える、その余韻の中にこそ、私の揺れる心情があるのだ」


声はそこで途切れた。


「ありがとう」


エドガーはその言葉を胸に刻み、夜空を再び飛び、流音の待つアルバート・ホールへと戻っていった。

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