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7. ヴェルディの「怒りの日」が好き

「でも先生、今から帰ったら、ロンドンに着くのは真夜中ですよ。ここに一泊して、明日の朝帰ったほうがいいのではないですか? 私がホテル代を払いますから」


「何を言っているのですか。あなたには一刻も早くピアノに触れてほしいのです」


流音に一刻も早くピアノを弾かせたいというのは本心だったが、エドガーはこの湖で朝を迎えたくはなかった。朝日に反射してきらきらと光る湖面を想像するだけで、頭がくらくらするのだ。


「ありがとうございます。でも先生、運転には気をつけてくださいね」

「任せてください」


車が走り出すと、間もなく流音は眠くなり、頭が時々かくんと落ちた。けれど、それではいけないと思うのか、目を覚ましては、寝てしまったのがばれたかどうかを気にするように、リスのような目でエドガーをちらりと見た。


「流音さんは家出をしたと言いましたが、どこへ行くつもりだったのですか?」

「あ、東京ディズニーランドです」


「そんなところへ、どうして?」

「ディズニーランドのトゥモローランドには宇宙を飛べるアトラクションがあって、クラスの友達みんながすごいって話していたから。私ったら、お金もないのに」

変でしょう、というように流音が唇を曲げた。


「先生は、空を飛びたいと思ったことはありませんか?」

「いや、特には」


「先生は、どんな曲がお好きですか?」

エドガーにしてみれば、そういう質問はせずに寝てくれたほうがありがたかった。


「専門家の前で音楽の話をするのは気が引けますが、ぼくはヴェルディが好きです」

「ヴェルディのどの曲が一番お好きですか?」


「……ヴェルディの『怒りの日』です」

エドガーは嘘がつけなかった。というより、他に曲名が浮かばなかったのだ。


「それ、レクイエムですよね?」

「ああ、そうです」


「怒りの日」はドラマチックで、嵐の夜と血の匂いがして、吸血鬼の間では特に人気のある曲なのである。


「レクイエムがお好きだなんて、珍しいですね」

「そうですか。弾いたことはありますか?」


「ないです。ヴェルディのその曲は、よく知らないです」


「聴いてみたいですか?」

「はい」


エドガーは微笑み、スイッチを押した。

「車の中にまでレクイエムを持っているのですか?」


ヴェルディの『怒りの日』が車内に流れ出した。


合唱が「Dies irae(怒りの日)」と叫び、ヴァイオリンが不安げに震え、ティンパニの大太鼓が「どん、どん、どん、どん」と地響きのように打ち鳴らされた。


オーケストラの音は、まるで審判の日の情景を描くかのように、空間を恐怖と不安で満たしていく。


死者の裁きを告げるその響きは、夜の闇に助けを叫ぶ人の声のように聞こえる。


流音は目を閉じ、音の波に身を委ねていた。


音楽は彼女の中に眠っていた感覚を呼び覚まし、消えかけていた情熱の残り火に息を吹きかけるようだった。


けれど、その熱に抗うように、彼女のまぶたは重くなり、やがてすーすーという寝息が聞こえてきた。


このレクイエムを聴きながら寝てしまうとは、どういう神経なのだろうか。こんなすばらしい曲を聴いて、やる気が湧いてこない人がいるのだろうか。


エドガーはその寝顔を横目で見つめながら、車を走らせ続けた。


やがて街灯もまばらな通りに差しかかると、大きなプラタナスの木の横で車を止め、鞄から黒いマントを取り出した。そして流音を抱きかかえ、車から降ろした。



流音が目を覚ますと、深紅のビロードに包まれた椅子に座っていた。


天井には巨大な円形の音響反射板が浮かび、壁には金色の装飾が施されたバルコニーが幾重にも連なっている。空間全体が、まるで音楽のために呼吸しているかのようだった。


夢を見ているのかと思い、彼女は周囲を見回すと、舞台の上にエドガーが立って手を振った。「ここですよ」


「ここは、どこですか?」


「ロイヤル・アルバート・ホールです」


「まさか、あのロイヤル・アルバート・ホールですか?」

「そうですよ」


「今、何時ですか? もうロンドンに着いたのですか?」


ロイヤル・アルバート・ホールは、ロンドンのサウス・ケンジントンにある世界的に名高いコンサートホールである。数々の巨匠たちがこの舞台に立ち、音楽史に残る瞬間を刻んできた場所だ。


「どうして、ここに入れたのですか? 私たちがここにいて、いいのですか?」

「さあ、早くこちらに来て、ピアノに触ってみたらどうですか?」


「私が、このロイヤル・アルバート・ホールのステージにですか? そんなこと、できるのですか?」

「できますよ」


そう言って、エドガーがピアノの蓋を開いた。


そこにあったのは、スタインウェイのフルコンサート・グランド。


「ああ、ピアノ」


漆黒のボディが舞台の光を受けて静かに輝き、鍵盤はまるで彼女を待っていたかのように、白と黒の静かな対比を見せていた。


流音は立ち上がり、耳まで赤くなって、胸を押さえながら、舞台に上がっていった。


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