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6. 華がないのです

日が傾くと、エドガーの気分がよくなってきたので、ふたりはワーズワースの村、グラスミアを訪ねた。


その村は、まるで詩人の心象風景がそのまま形になったかのようだった。

夕暮れの家々は古びた石壁に蔓が絡まり、苔むした屋根には煙突から柔らかな煙が棚引いている。


村の中心を流れる小川はきらきらと輝き、そのほとりには、どこからか子守唄のような優しい音色が聞こえてきた。


「こんな村に住めたら、幸せでしょうね」

流音がつぶやいて、エドガーを見上げた。


「そんなことはないでしょう。どんな場所に住む人も、たいてい同じではないですか。人は、他人が思うほど、幸せでも不幸せでもないのではないですか。戦争があれば別の話ですけれどね」

「そうでしょうか」


「ピアノがやりたくてもやれない人から見たら、あなたは幸せに見えるでしょう。でも、実際のところ、あなたはどうですか」


「先生のおっしゃる意味は、わかります。私、裕福な家の娘に見えますか?」

「貧しくはないでしょう」


「私の名前は『流れる音』という意味なのです。両親は私が生まれる前からこの名前をつけて、ピアニストにしようと決めていたのです。うちは全然、金持ちではないのです。父はタクシー運転手で、母は介護施設で働いて、スーパーでパートもしています。高いピアノのレッスン代を払うために、両親はすべてを犠牲にしてきました。ニューヨークにだって、留学させてくれたのですから。だから、私、とても恵まれていると言えます」


「どうして、両親はそんなにまでして、子どもをピアニストにしたいのですか」

「理由はあるのですが……。人って、他の人が聞いたら変でも、ひとつのことを目指すってこと、ないですか?」


「それは、ありますね、ひとつの夢を目指すということが。流音さんはピアニストを目指していますよね」


「子どもの頃はピアノがいやで、家出したことがあるのです。でも、方向音痴で、目の前に交番があったので、そこに行って聞いたものだから、すぐに捕まってしまいました。世の中で、家出をして警官に道を尋ねる馬鹿なんて、私だけです」

流音は目に涙をためて笑ったが、目の奥には、恨めしさが見えた。


「流音さん、その言い方だと、あなたは幸せではないように聞こえますが」

「どんなにがんばっても、両親の期待には応えられないので、幸せではありません」


「がんばって、審査に通ったではないですか」

「でも、私、才能がないのです」


「どうして、才能がないとわかるのですか」

「才能というか……私は誰よりも練習したので、技術はある程度あるのです。でも、私には華がないのです」


「華?」

「同じ学校に十三歳のハーフ、賀野マギーがいます。彼女はホンモノの天才で、舞台に出るとぱっと輝いて、観衆を魅了します。技術面ではかなうのですが、ステージで輝く魅力が私にはないのです。今度のコンクールでは、マギーが優勝候補だと言われていますし、私もそう思います」


「まだコンクールは、始まってもいないではないですか」

「オリンピックの試合なら逆転優勝もあるでしょうが、音楽の世界では、大体、わかります。この大会は、一次が課題、二次が自由曲で、三次は三人選ばれ、オーケストラと共演し、ドヴォルザークのピアノ協奏曲を演奏します。私は予備予選を通過し、三十五人の出場者のひとりに選ばれましたが、それがもう奇跡で、一次では落ちます。私、ここまでなんです」


「そんなことはない。一次の課題曲は『霧の中』ですよね。ぼくがプラハのことを教えてあげますから、ぜひ、一次を通過してください」


「それに、事故でここ二週間もピアノに触れていません。そんなことって、ピアノを習い始めた日から初めてです。風邪を引いて寝込んだ日だって、弾いていましたから。正直に言いますと、ピアノに触れるのがこわいです」

「それなら、急いで帰りましょう」


「いいのです。もうピアノはいいです。必死でがんばったことは両親も知っていますから、ここで落ちたら、ようやく諦めてくれるでしょう。そしたら」

「そしたら?」


「私、学校に行って、看護師になります。子どもの頃は身体が弱かったので、看護師になりたいと思っていたのです。今度の事故で、ナースにはとてもよくしていただきました。ずっと私の手を握りしめてくれていた方もいて、私も、あんなナースになりたいと思っています」


ふたりは話しながら、小川に架かる小さな石橋を渡り、羊の群れが草を食む牧草地を抜けた。やがて、なだらかな丘を登り切ったところで、ワーズワースの生家が姿を現した。


彼の生家は、この村の穏やかな空気をそのまま閉じ込めたかのようだった。壁には青々と繁った蔓が絡みつき、小さな窓からは温かいランプの光がこぼれていた。

庭には、手入れの行き届いたバラが咲き誇り、風に揺れるたびに甘い香りをあたりにまき散らしていた。


古い木のベンチがぽつりと置かれ、誰かがつい先ほどまでそこに座っていたかのような、静かで温かい気配が漂っていた。


夕暮れの空は、燃えるようなオレンジ色から深い紫へと変わり、通りを歩く影が長く伸びた。


空に、最初の星が小さく瞬き始めていた。

ワーズワースが「世界一美しい」と言った景色が、目の前に広がっていた。


「流音さん、これで、満足ですか」

「えっ。はい」


「あなたは湖水を見たし、ワーズワースの家も見ましたよね」

「はい。ありがとうございます」


「では、帰りましょう」

「どこに?」


「ロンドンですよ。練習の時間がないではないですか。プラハに行く前に、練習をするのです」

「今から帰るのですか。先生は、お疲れではないのですか」

「ぼくは大丈夫」


エドガーは夜中になると、元気になるのである。





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