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54/54

54. ありがとう

ベルダとリュシフルが婚約したことがわかったので、流音が「湖水地方に旅行に出かけてはどうかしら」と勧めた。

もちろん、エドガーの家に宿泊する。


「家には車もあるし、冷蔵庫には食べ物がいっぱいだ」

とエドガーが言った。


「近くには、ワーズワースの家があるのよ」


「それはすてき」

とベルダが喜んだ。


「エドガーさんがね、交通事故のあと、一番先に連れていってくれたところ」


「エドガーが、そんなことをやったんだ。隅におけないわね」



ベルダとリュシフルが去ると、部屋が急に静かになった。

窓からのやわらかい夕陽が、居間の電子ピアノを照らしていた。


以前、流音が訪れたときにはなかったのだが、デリオンが音楽に興味を持っていたので、これを購入したのだという。


「デリオンさんは、どんな曲が好きでしたか」


「デリオンが好きなのは、マーラーだった」


「ずいぶん難しい曲が好きだったのね」


エドガーが棚からCDを取り出した。

「よく聴いていたのが、これだ」


それは『さすらう若者の歌』という歌曲集だった。


「デリオンさんは、失恋とか、したのですか」


「いや。女子の友達もいなかったから、それはないと思うけど。そういう曲なのですか」


「そういうことではないけれど……」


この作品は、マーラー自身の失恋体験から作られたと言われている。

彼があるソプラノ歌手に恋をし、普通なら慰めになる花や木々、鳥の声も、かえって心に痛く突き刺さるのだ。


「デリオンの場合は、女子ではなくても、世の中のすべてに失恋していたと言えるから」


エドガーが深くうつむき、握りしめた拳が微かに震えた。

その顔は悲痛な面持ちで歪み、今にも泣き出しそうだった。


押し殺した嗚咽が喉の奥で詰まり、胸の底に沈む、デリオンを失ったことへの深い絶望が痛いほど伝わってきた。


流音は、気づかれないように電子ピアノをオンにして、いくつかの音を鳴らした。

ハープやバイオリンなどの弦楽器の音を選び、タブレットを開いて、ピアノ用に編曲された楽譜を探した。


「私、デリオンさんのために一曲弾きますね。マーラーの『アダージェット』です」


『アダージェット』は、マーラーが妻に向けて書いた「愛の告白」のような曲だと言われている。


流音の指が、電子ピアノの鍵盤の上に静かに置かれた。

繊細でゆるやかな和音が響き、低音の深く沈んだ音色から、やがて澄んだ旋律が浮かび上がっていく。


流音は目を閉じ、丁寧に弾き進めた。

やがて弦楽器の響きが重なり、流音の目は楽譜ではなく、心の中のデリオンを見つめていた。


エドガーは目を閉じ、椅子に身を沈めた。

音の波が彼の中を通り抜け、心の奥に沈んでいた痛みを優しく撫でていく。

デリオンと過ごした美しい時間を思い、その心には深い哀しみと、不思議な優しさが広がった。


デリオンとの何気ない会話、笑顔、それらが音の中で甦り、通り過ぎていった。

エドガーの頬を、幾筋もの涙が流れた。


流音も感じていた。

デリオンは、今ここにいる。私たちの中に、生きている。


音楽が終わり、音が消えた。


音は静けさの中から生まれ、また静けさの中へと戻っていった。

しかし、その静けさはもう、悲しみの色だけではなかった。


部屋の空気が、やわらかな光に包まれているように感じられた。


「お兄さん、ありがとう」


その時、どこからともなく、やさしいあの声が聞こえたような気がして、エドガーは顔を上げた。


アパートの外では、冬の風が、細い枝に残る木の葉を小刻みに揺らしていた。


「ルネ、ありがとう。一緒に来てくれて、ありがとう」


流音は微笑みながら立ち上がり、彼の手を強く握った。


「こちらこそ。ありがとう、エドガー」

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