54. ありがとう
ベルダとリュシフルが婚約したことがわかったので、流音が「湖水地方に旅行に出かけてはどうかしら」と勧めた。
もちろん、エドガーの家に宿泊する。
「家には車もあるし、冷蔵庫には食べ物がいっぱいだ」
とエドガーが言った。
「近くには、ワーズワースの家があるのよ」
「それはすてき」
とベルダが喜んだ。
「エドガーさんがね、交通事故のあと、一番先に連れていってくれたところ」
「エドガーが、そんなことをやったんだ。隅におけないわね」
*
ベルダとリュシフルが去ると、部屋が急に静かになった。
窓からのやわらかい夕陽が、居間の電子ピアノを照らしていた。
以前、流音が訪れたときにはなかったのだが、デリオンが音楽に興味を持っていたので、これを購入したのだという。
「デリオンさんは、どんな曲が好きでしたか」
「デリオンが好きなのは、マーラーだった」
「ずいぶん難しい曲が好きだったのね」
エドガーが棚からCDを取り出した。
「よく聴いていたのが、これだ」
それは『さすらう若者の歌』という歌曲集だった。
「デリオンさんは、失恋とか、したのですか」
「いや。女子の友達もいなかったから、それはないと思うけど。そういう曲なのですか」
「そういうことではないけれど……」
この作品は、マーラー自身の失恋体験から作られたと言われている。
彼があるソプラノ歌手に恋をし、普通なら慰めになる花や木々、鳥の声も、かえって心に痛く突き刺さるのだ。
「デリオンの場合は、女子ではなくても、世の中のすべてに失恋していたと言えるから」
エドガーが深くうつむき、握りしめた拳が微かに震えた。
その顔は悲痛な面持ちで歪み、今にも泣き出しそうだった。
押し殺した嗚咽が喉の奥で詰まり、胸の底に沈む、デリオンを失ったことへの深い絶望が痛いほど伝わってきた。
流音は、気づかれないように電子ピアノをオンにして、いくつかの音を鳴らした。
ハープやバイオリンなどの弦楽器の音を選び、タブレットを開いて、ピアノ用に編曲された楽譜を探した。
「私、デリオンさんのために一曲弾きますね。マーラーの『アダージェット』です」
『アダージェット』は、マーラーが妻に向けて書いた「愛の告白」のような曲だと言われている。
流音の指が、電子ピアノの鍵盤の上に静かに置かれた。
繊細でゆるやかな和音が響き、低音の深く沈んだ音色から、やがて澄んだ旋律が浮かび上がっていく。
流音は目を閉じ、丁寧に弾き進めた。
やがて弦楽器の響きが重なり、流音の目は楽譜ではなく、心の中のデリオンを見つめていた。
エドガーは目を閉じ、椅子に身を沈めた。
音の波が彼の中を通り抜け、心の奥に沈んでいた痛みを優しく撫でていく。
デリオンと過ごした美しい時間を思い、その心には深い哀しみと、不思議な優しさが広がった。
デリオンとの何気ない会話、笑顔、それらが音の中で甦り、通り過ぎていった。
エドガーの頬を、幾筋もの涙が流れた。
流音も感じていた。
デリオンは、今ここにいる。私たちの中に、生きている。
音楽が終わり、音が消えた。
音は静けさの中から生まれ、また静けさの中へと戻っていった。
しかし、その静けさはもう、悲しみの色だけではなかった。
部屋の空気が、やわらかな光に包まれているように感じられた。
「お兄さん、ありがとう」
その時、どこからともなく、やさしいあの声が聞こえたような気がして、エドガーは顔を上げた。
アパートの外では、冬の風が、細い枝に残る木の葉を小刻みに揺らしていた。
「ルネ、ありがとう。一緒に来てくれて、ありがとう」
流音は微笑みながら立ち上がり、彼の手を強く握った。
「こちらこそ。ありがとう、エドガー」




