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53. ブルームズベリーでの再会

ブルームズベリーに着いたのは、夜明け前の六時頃だった。


薄い藍と灰色が交わる空の端に、朝の光が少しずつ差し込み始めていた。


通りはまだ静まり返り、歩道には朝露をまとった落ち葉が、まばらに散っている。


低い石造りの建物やヴィクトリア朝のタウンハウスの窓には霜がうっすらと模様を描き、街灯の名残の光を淡く返していた。


人影はほとんどなく、冬のコートに身を包んだ男がひとり、白い息を吐きながら足早に通り過ぎる。遠くから、トラムとバスのエンジン音がかすかに聞こえてきた。


フロントガラス越しに、エドガーのアパートの前で二人の人影が立っているのが見えた。


「あの人、ヘルダじゃない?」

流音が身を乗り出した。


「本当だ。もう一人は……リュシフルだ。どうして」


「まさか、もう来ちゃった」

流音が首をすくめた。


「ベルダとはミュンヘンで再会してからメールのやりとりはしてるけど、湖水地方に行くとは書いたものの、まだ会えたなんて話はしていない」


「ああ、ベルダなら、わかるよ」


エドガーは不安げな表情で車のドアを開けた。


ベルダがこちらを見て、「やれやれ」という顔をして腕を組んだ。


これは、ひと悶着ありそうだわ。


そう思いながら、流音は静かに駐車場所を探した。



エドガーの四階の部屋に入ると、部屋の中央の壁に写真立てがあった。デリオンが高校の制服を着て、幸せそうに笑っている。


エドガーはまっすぐにその写真立てを手に取り、顔を歪めながら、愛おしそうに抱きしめた。


その姿は流音の胸を深く刺した。


この写真を見ることが辛くて、この部屋には帰って来られなかったのだろう。流音も父親を亡くしているので、その気持ちがよくわかる。


「ちょっと来て」


「なんだよ」


「来なさいって」

ベルダがエドガーを引っ張るようにして、研究室へ連れて行った。


「あのふたり、兄弟みたいなものだから。長いこと音信不通だったから、ベルダがかんかんに怒ってる。こわいぞ」

とリュシフルが言った。


「ぼくたち、同じ小学校に通った仲間なんだよ」

「はい」


「エドガーだけは中学でイギリスに行ってしまったけど、あの時ベルダは大暴れしてね。みんなでロンドンに飛んで、彼を取り戻そうなんて言うから、なだめるのが大変だった。それだけ悲しかったということだね」


「リュシフルさんは、おやさしいですね。ベルダさんをよく理解してあげて」


「そういうことじゃないけど。ベルダはとても人気があって、みんなが好きだったんだ。ギルガルドも、ヴァルナスも、ノクスも」


「すごいですね」

「でも、一番勝ち目のなかったぼくが、彼女と婚約できたんだよ。どうしてか、わかるかい?」


「婚約されたのですか」


「そうなんだよ」

リュシフルはとてもうれしそうだった。


「おめでとうございます」


「ぼくはギルガルドみたいに積極的ではなかったけど、最後まで諦めなかったから、イエスをもらえた」


「はい。私も、諦めませんでした」


「でも、おふたりは離れていたわけだから、再会して、もとのように戻れると信じていたのですか」


「いいえ。連絡がないわけですから、エドガーさんの心がすっかり変わってしまっているかもしれないとは思いましたけど、その時はその時だと」


「ルネさん、あなたはおもしろい人ですね」


その時、ベルダがひとりで部屋に戻ってきた。


「怪我はさせていないから、心配しないで。あのことを約束してくれたから、許すことにしたわ。リュシフル、具体的なことを説明してくれる?」


「いいよ」


リュシフルが身軽に立ち上がって、研究室にはいって行った。


「私たち、ドルハースラフナ王国の跡地に、子ども病院を建てようと計画しているの。財団の協力のもと、難病の子どもを助ける先端医学の病院をね。治療費は無料で、最初はチェコの子どもたちが中心だけれど、いずれは世界中で苦しんでいる子どもたちを救いたいわ。名前は、デリオン・メモリアル病院にしたいと考えているのよ」

ベルダが流音に説明した。


「すばらしいです」


「その病院に、エドガーに来てほしいと頼んだのよ。そしたら、オッケーをくれたわ。少々渋ってはいたけれど」


「どうして」


「湖水地方で暮らしたいらしいの。だから、言ってやったのよ。自分のことばかり考えるなって。突然イギリスに行ったり、人間になったり、失踪したり、もうやめてほしいって。まあ、あっちの気持ちはわからないではないんだけど」


「そしたら」

「ついに、承諾してくれたわ」


「じゃあ、いずれはプラハに帰ることになるのですか」


「そういうことね。セラフィナのことも放りっぱなしだし」


「エドガーさんのお母さまですよね」


「そう。彼女ね、人間になりたがっているのよ」


「どうして」


「初恋の人が日本人で、人間になって日本に行きたいらしいの」


「その相手は、私のおじさんです。父の兄。でも、父は養子なので、血はつながっていないのですが」


「それは今、聞いたわ。セラフィナがその彼のことを調べたら、彼はずっと独身で、北のほうで牧場を経営しているらしいわね」


「そうです。彼は長谷川星座はせがわせいざといって、今は北海道で羊を育てています」


「そこに行きたいらしいの」


「おじさんは父と違ってロマンチックな人でしたけれど、セラフィナさんのことがあったから、ずっとひとりだったのかしら」


「そうらしいわよ。この間会った時、セラフィナはこんなことを話していたわ。お互いに深い思いがあっても、運命の流れの中では『結ばれる』という形が取れないことが多い。ふたりが結ばれるためには『奇跡』が必要。だから、五十五歳で『奇跡』を起こして、彼のところに行くと決めたのですって」


「おじさんは六十歳ですよ」


「ね、この話って、いけるじゃない?」

とベルダが笑った。


「はい。すごくいけてます」


エドガーとリュシフルが居間に戻ってきた。


「先は長いけど、とにかく、病院建設に向かって前向きに進んでいこうということで、意見は一致したよ」

とリュシフルが言った。


「私、病院建設の資金集めのためのチャリティコンサートをします。私の名前が忘れられないうちに、早めのほうがいいです。来年の秋なんか、どうですか。シーズンの頭の九月頃なんか、人が集まると思います」


流音が「名前が忘れられないうちに」「人が集まる」などと言ったので、三人が驚いた。彼女がそういうことを言うタイプではないと思っていたからだ。


「何をびっくりしているのですか。私、コンクールの三次でセルフプロモーションをして、赤いドレスを着て、ブロンドで弾いたことがあるじゃないですか」


流音の笑顔には、自信が満ちていた。










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