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51. すっぱいものを下さい

手術室には、張り詰めた緊張が満ちていた。


医師たちが疲労の色を滲ませながら見守る中、エドガーは十五歳の少年の腹部にメスを入れる。


局所麻酔と輸血はすでに限界まで施されており、今は時間との闘いだった。


腹壁を切開すると、予想通り、暗く汚染された血液と泥混じりの消化液が溢れ出す。エドガーはすぐに吸引器を手に取り、出血点を探した。


「輸血パックを全開で。体温も維持してくれ」


「了解」 とハミルトンが即座に応じる。


まず確認すべきは、生命を脅かす大血管と消化器官の損傷だった。ロータリー爪の軌跡は、まさに破壊の痕跡だった。


エドガーは損傷した腸管を慎重に引き出す。大腸と小腸には複数の深い穿孔があり、土壌による汚染がひどい。単なる縫合では、術後に致命的な腹膜炎を引き起こす可能性が高い。


「汚染が広範囲だ。損傷の激しい腸管は切除して吻合する」


止血と洗浄に追われるハミルトンたちの傍らで、エドガーは顕微鏡下のような精度で腸の組織を切除し、縫合していく。潰されて血流を失った組織をどこまで除去し、どこを残すか——その判断が命を左右する。


五時間が経過し、医師たちは小休憩を取りに行く者もいたが、エドガーは休まずに後腹膜腔へとメスを進めていった。


少年が飛び越えた際の体勢から、爪が腎臓付近を斜めに掠めた可能性が高い。案の定、右腎に深い裂傷が見つかった。腎臓は血流が豊富なため、止血は極めて困難だ。


「ライトをもう少し上げて」


エドガーは極細の縫合糸を使い、腎臓を傷つけぬよう慎重に裂傷を閉じていく。何度も生理食塩水と抗生物質で汚染を洗い流し、感染源を徹底的に除去した。これを怠れば、手術が成功しても命は救えない。


開始から八時間、内臓の損傷はすべて修復され、失血もなんとか食い止められた。


だが、腹壁はロータリーの爪によって大きく裂かれ、皮膚と筋肉が不足していた。術後の臓器脱出を防ぐため、これは重大な課題だった。


エドガーは残された筋肉と筋膜を最大限に活用し、張力がかかりすぎないよう慎重に層を重ねて縫合した。


「閉鎖は完了したが、まだ安定していない。最後まで気を抜くな」


彼の額には汗が滲み、ナースが何度もガーゼで拭った。


手術開始から十時間が経過した。


エドガーはモニターを凝視し、心拍・血圧・酸素飽和度が安定していることを確認する。


「よし、これで閉じられる」


最後の縫合を終え、器具を置くと、ハミルトンがマスクを外した。


「ドクター・フィルモア、心からありがとう。手術は成功だ。あとはチャーリーの生命力に委ねよう」


鋼鉄の爪に奪われかけた十五歳の少年の未来は、エドガーの十時間に及ぶ戦いによって、辛うじて繋ぎ止められたのだった。


*


手術が終わり、チャーリーが運ばれていった。医師やナースたちが次々と出てくる中、エドガーの姿だけが見えない。


外で待っていた流音が、おそるおそる手術室のドアを押すと、

「ひとりにしてくれ」 という声が聞こえた。


エドガーの声だ。


きょろきょろと探すと、血まみれの白衣の彼が床に倒れていた。


「どうしたの?」


流音が駆け寄ってひざまずいた。


「ああ、ルネか。寝てるだけだよ」


「どうして、こんなところで?」


「エネルギーが切れた。人間は大変だ」


ジョークを言えるくらいだから、まだ大丈夫ね。流音がポットの蓋を開け、緑茶を飲ませた。


「あれがいい」


エドガーが指を上に向ける。


「あれって?」


「あのすっぱいやつ」


「ああ、梅干しのことね。わかりました。じゃ、手に入れてきます」


わかったって、何が? 手に入れてきますって、どこで、とエドガーの瞳がそう問いかけている。


「それは私に任せて。まずは、床から起き上がってください。できますか」


「できる」


エドガーは床に手をついて、起き上がった。




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