50. ドクターズ・コール
ふたりが自宅に戻り、食料品を冷蔵庫や棚にしまっていた時、エドガーがふと何かを思い出したようにスマートフォンの電源を入れた。すると、画面が激しく点滅し、通知音が次々と鳴り響いた。
メッセージ着信、テキスト通知、不在着信の表示が途切れることなく流れていく。
着信 八件、
テキスト 四件。
「どうしたんですか?」
流音がスマートフォンを覗き込んだ。
「同じ人からの着信だ。何かあったのかもしれない」
「どなたですか?」
「ドクター・ハミルトン。知り合いの医師だけど……どうしてここがわかったんだろう」
「ハミルトン先生って、ミルトン・キーンズ大学病院の先生ですよね。私を助けてくれたお医者さんです」
「そうだったね。何の用件だろう」
エドガーは急いでメッセージアプリを開いた。
「すぐに連絡がほしい」
「重大事なんだ。一刻を争う」
「折り返してくれ。孫の命がかかっている」
エドガーがすぐに電話をかけると、相手の説明に耳を傾けた後、エドガーが矢継ぎ早に問いかけた。
「いつ?」
「どこで?」
「今は?」
「ランカスターですか?」
エドガーの声が切迫している。
「ぼくはグラスミアにいます」
「少し時間をください。折り返しますから」
電話を切ったエドガーの顔は青ざめていた。
「どうしたの?」
流音が彼の顔を心配そうに見つめた。
「ドクターの十五歳の孫、チャーリーが大怪我をしたんだ」
ハミルトン一家は冬休みの恒例で、湖水地方の西、ホークスヘッドの農場に滞在していた。納屋の裏には、硬い土を掘り起こすための耕運機が置かれていた。
今朝、元気すぎるチャーリーがそれを飛び越えようとして、誤ってロータリー爪の上に落ちてしまった。鋭利な刃に体が刺さってしまったのだ。
すぐに救急車で地元の病院に運ばれたが、刺し傷、切り傷、骨折、内臓や神経の損傷があまりにも複雑で、緊急手術が必要だった。地元では対応できず、最寄りのランカスターの大病院へヘリで搬送された。
ハミルトン自身が執刀し、応急処置は施したものの、腹部の損傷は深刻だった。
「チャーリーはあと数時間もつかもしれないし、数十分かもしれない。どうか、助けてほしい」
その懇願は、エドガーの胸に突き刺さった。 あのプラハのテレビ塔の上で、どれほどデリオンを助けてほしいと天に願ったことか。
「ここからランカスターまでは、どのくらいですか?」
と流音が尋ねた。
「一時間ほどだ」
「近くてよかったです。急いで、行きましょう」
「でも、問題はぼくがもう『神の手』の医者じゃないということなんだ」
「『人間の手』でできるかぎり助けてあげてください。エドガーさん、あなたにはできます。吸血鬼と人間の違いは、エネルギーと持久力だと言いましたよね。そこは、私に任せてください」
「ルネに?」
「はい。私を信じて。では、ハミルトン先生にそちらに向かうと連絡して、私に十分だけ時間をください」
「十分?」
「はい。あとは私に任せて。エドガーさんは出かける準備を」
流音は考えた。 手術にはエネルギーと持久力が必要だ。ならば、それを食べ物で補えるのではないか、と。
理想はおにぎり、ゆで卵、味噌汁。でも時間がない。 まず飯パックを電子レンジで温め、梅干しとツナマヨのおにぎりを作る。ゆで卵は間に合わないので、代わりにハム入りの卵焼きを。味噌汁は味噌がないので、緑茶で代用しよう。
準備が整うと、流音はそれらを自分の車の助手席に置いた。
「私が運転します。エドガーさんは助手席に座って、これを食べて、体力をつけてください」
「行けるのかい?」
「もちろんです。イギリスは右ハンドルですし、GPSがあります。地の果てだって行けます」
エドガーは流音の言葉にうなずき、助手席に乗り込んだ。彼の顔には不安と決意が入り混じっていた。
流音はエンジンをかけ、ナビに「ランカスター総合病院」と入力した。
車が静かに走り出すと、エドガーはバッグからおにぎりの包みを取り出し、不思議そうな顔をした。
「まずは海苔が巻いてあるのからどうぞ。梅干し入りです。塩分で集中力が戻りますよ」
エドガーは無言でひと口かじった。酸味が口に広がり、すっと目が覚めるように感じた。
「デリオンも十五歳だった。ぼくは彼を助けられなかった。でも、チャーリーはぜひ助けたい」
私も、と流音は思った。 父の時には病院に会いに行くこともできず、ひとりで逝かせてしまった。だからこそ、この命を、ぜひ助けてほしい。




