5. ランチには、ぎとぎとのラム肉を
車はバタミア湖のほとりに静かに停まった。
湖は鏡のように澄み渡り、周囲の山々と雲を完璧に映し出している。水面には時折、風がさざ波を立て、光がきらめいた。湖畔には野生のアヤメが咲き、遠くから羊の鳴き声が聞こえてくる。
流音は歓声を上げて車から飛び出した。湖に向かって駆け寄り、両腕を広げて深呼吸する。
「すごい。まるで絵本の中みたい」
エドガーはサングラス越しに空を見上げた。青空が広がり、湖の反射が彼の視界を刺すように照らしている。光を見たせいでめまいを覚え、思わず目を閉じた。
「大事な電話をかけなければならないので、流音さんはひとりで歩いていてください」
そう言って、彼はシャツの首元を緩め、湖畔に立つ古いセイヨウカジカエデの木にもたれた。やはり、光は堪える。
木の幹はねじれ、苔が生えていて、まるで時を超えてそこに立ち続けているようだった。 どれほど眠っていたのだろうか。目を開けると、流音が心配そうな顔で見下ろしていた。
「先生、大丈夫ですか? 顔色が……」
「ああ、顔色はいつも悪いので、心配しないでいいですよ」
そう言って、エドガーは立ち上がろうとしたが、足元がふらついた。
「先生、お腹がすいたのでは?」
「ええっ」
昨夜は大きな交通事故があり、たっぷりと輸血用の血を飲んだので、腹は空いていない。だが、太陽の光が体力を奪っていく。吸血鬼にとって、明るさは毒に近い。
「私はお腹が空きました。ぺこぺこです」
「何が食べたいですか?」
「ここでは、ラム肉のガーリックローストがおいしいとガイドブックに写真が載っていました。ローズマリーとにんにくで香りづけされたぎとぎとしたお肉、そういうのが食べたいです」
エドガーは吐きそうになり、顔をしかめた。 にんにくの名を聞いただけで、胃がひっくり返りそうになる。 けれど、流音は、彼が彼女の食欲に驚いたのだと思った。
「だって、私、この二週間、病院食だったんですもの」
「そうだね。では、レストランを探しましょう」
「湖を眺めながら食べたいです」
「お昼は過ぎましたからね、パブにしましょう」
明るいレストランは耐えられないが、暗いパブならなんとかなるだろう。 彼らは「オールド・ランタン」というカントリーパブに入った。
店内は木の梁と石壁に囲まれ、燻された煙の香りが漂っていて、時間が止まったような空間だった。 流音はラムのガーリックローストを注文し、エドガーはブルーステーキとダムソンワインを選んだ。
ブルーステーキはほぼ生肉で、赤い肉汁がしたたる。ダムソンのワインは濃い赤紫で、血のようだから元気が出るかもしれない。
料理が運ばれてきた瞬間、ガーリックの香りが店内に充満した。流音は喜んで覗き込み、匂いを嗅いだが、エドガーは顔をしかめ、ナプキンで口を抑えた。
「実は」
とエドガーが青い顔で言った。
「ぼくはひどい太陽アレルギーで、明るいところが苦手です。それに、重度のにんにくアレルギーなので、申し訳ないけれど、流音さんは窓際でひとりで食べてくれませんか」
「先生って、まるで吸血鬼みたいじゃないですか」 と流音が笑った。
その言葉に、エドガーの目が一瞬、鋭く光った。流音はすぐに神妙な顔になった。
「すみません、失礼なことを言って。はい、窓際に行きます。ひとりで食べるの、慣れていますから」
流音が席を立ったあと、エドガーはワインを一口飲んだ。
まるで吸血鬼か。
そうなんだよ、ぼくは。
そして、彼の目は再び窓際の流音を見た。湖の光がその黒い髪を照らし、彼女はまるで聖女のように見えて、ぎくりとした。なぜか、守ってやらなければならないという不思議な感情が溢れた。
聖女は人間にとっては救いの人でも、吸血鬼にとっては怖い存在。十字架や聖水と同じく、吸血鬼の本能が拒絶するものである。
それなのに、この困った感情は、何なのだ。エドガーは彼女から目を逸らすことができなかった。どうしてなのだろうか。どうして、湖水地方まで連れてきてしまったのだろうか。
もしかして、これは人間がするという、あのくだらない「恋」の始まりと いうものなのか。
まさか。
はははは。
ちゃんとした家の吸血鬼なら、「恋」などしない。人を誘惑したりはするが、それはすべて「血を吸うため」で、女を追いかけるのは動物のすることだ。
しかし、エドガーは彼女の血がほしくて親切にしているわけではないのだ。 こういうことは初めてなので、彼はこの感情をどう取り扱えばよいのか、わからなかった。




