表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

49/54

49. 湖水地方の穏やかな朝

その朝、流音のほうが先に目を覚ました。


エドガーは枕を抱くようにして、ぐっすりと眠っている。


明け方、スマホの着信音が何度か鳴ったが、彼は手を伸ばして機内モードにしたらしく、それきり静かになった。


流音はそっと起き上がり、キッチンへ向かった。

コーヒーを淹れようと思ったが、ポットはあってもコーヒー豆が見つからない。


冷蔵庫を開けると、中には卵とリンゴしか入っていなかった。

戸棚を開けると、ツナ缶とコーン、それに豆の缶詰。

パンはどこにもない。


「なんという食生活……」


思い出して、流音は二階のバッグからレトルトご飯、海苔、梅干し、緑茶を取り出した。

お湯を沸かし、緑茶のティーバッグを茶碗に入れて、手にしたまま家の中を歩く。


本棚には『クラシック音楽入門』などの本が並び、流音のCDが四十枚以上もあった。でも、そのほとんどの封が切られていない。

彼女のアルバムは四枚しか発売されていないのに、エドガーは、こんなにたくさん買ってくれたのだ。


ありがとう、エドガー。

でも、そのことを伝えてくれたら、どれほど日々が輝いたかもしれないのに。


家の隣には小さな診療所があり、廊下でつながっていた。

診察室は小ぎれいに整っている。ドアには「月・水・金曜 診療、火・木曜および週末休み」と貼り出されていた。


「これでやっていけるのかしら……」


流音は緑茶を淹れたカップを手に寝室へ戻った。


「起きてください。朝食を作りたいのですが、何もありません。近くにお店がありますか?」


「あるけど、小さいから、あまり品はそろっていない。少し運転すれば、コープがあるよ」


「じゃあ、私、そこに行ってきます」


「ちょっと待って。ルネは行動が早すぎる。こっちはまだ頭が寝てるから、考えさせて」


エドガーが緑茶をすすった。

「これ、なんですか?」


「日本のお茶です」


「すごくいい香りだ……ああ、目が覚めた」


エドガーが背伸びをした。


「そうだ、ウィンダミアまで行けば、よいものが手に入る。一緒に行こう。A591号線は景色が特別に美しいんだ」


流音の顔がぱっと明るくなった。


ドライブして一緒に買い物、それは、流音が長い間、夢見ていたことだった。



エドガーがトヨタ・ヤリスを車庫から出してくると、流音は助手席に乗り込んだ。


「私、助手席に座るのは久しぶりです」


「運転ができるようになったんだね」


「そうですよ。今ではコンサートにも自分で運転して行くことが多いです」


「たくましいな」


エドガーは微笑み、サイドミラーを調整した。


ヤリスのエンジン音は控えめで、まるで彼の今の穏やかな生活を象徴しているようだった。


流音は窓の外に目を向けた。冬の風に揺れる紅葉を眺めながら、助手席のシートに深く腰を沈める。


車内に漂うほのかなレザーの香りに、ふと昔の記憶がよみがえった。


「あの黒いスポーツカーはどうしましたか?」


エドガーが吸血鬼だった頃、彼は漆黒のアストンマーティン・ヴァンキッシュに乗っていた。


「もう手放したよ」


「お金の問題ですか?」


「いいや。どうして?」


「だって、週に三回しか診察していないし……儲かっているのですか?」


「ぼちぼちだよ。儲かっていなくても、暮らしていければそれでいいじゃないか」


「診療のない日は、何をしているんですか?」


「湖で釣り」


「何が釣れるんです?」


「トラウトとか。冬場はパイクやパーチ」


「お魚が好きなんですか?」


「いや、魚は苦手だ。さばくのができない」


「手術は得意なのに?」


「それは、昔の話」


「じゃあ、釣った魚はどうするんですか?」


「患者にあげる。健康食だからね」


流音は思わず笑ってしまった。


エドガーの口調は真面目だったが、その姿を想像するとどこか滑稽だった。


かつては闇を飛んでいた吸血鬼が、いまは釣り竿を手に湖畔に立ち、釣れた魚を診察室で患者に渡している。そんな光景を思い浮かべると、胸の奥が温かくなった。


流音は彼の横顔を見つめた。エドガーの瞳は穏やかで、湖の水面のように静かだった。


「『神の手』はどうなりましたか?」


「もう長いこと、手術はしていない。『神の手』はもうないよ」


「『神の手』と『人間の手』の違いは何ですか?」


「なんだろうな。吸血鬼は移動が速く、疲れを知らない」


「技術的なことは?」


「どうなんだろう……わからない」


「今でも、特別な外科医かもしれませんよ」


「どうかな。ただ、そういうことをやろうという熱が、もう湧いてこないんだ」


エドガーはわずかに口元をゆるめ、視線を前へ戻した。


「どうしてだろう。湖の風が心地いいことに気づいてしまったからかもしれないね」


そう言って、彼はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

朝の光がフロントガラスに当たり、湖面が金色にきらめいていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ