49. 湖水地方の穏やかな朝
その朝、流音のほうが先に目を覚ました。
エドガーは枕を抱くようにして、ぐっすりと眠っている。
明け方、スマホの着信音が何度か鳴ったが、彼は手を伸ばして機内モードにしたらしく、それきり静かになった。
流音はそっと起き上がり、キッチンへ向かった。
コーヒーを淹れようと思ったが、ポットはあってもコーヒー豆が見つからない。
冷蔵庫を開けると、中には卵とリンゴしか入っていなかった。
戸棚を開けると、ツナ缶とコーン、それに豆の缶詰。
パンはどこにもない。
「なんという食生活……」
思い出して、流音は二階のバッグからレトルトご飯、海苔、梅干し、緑茶を取り出した。
お湯を沸かし、緑茶のティーバッグを茶碗に入れて、手にしたまま家の中を歩く。
本棚には『クラシック音楽入門』などの本が並び、流音のCDが四十枚以上もあった。でも、そのほとんどの封が切られていない。
彼女のアルバムは四枚しか発売されていないのに、エドガーは、こんなにたくさん買ってくれたのだ。
ありがとう、エドガー。
でも、そのことを伝えてくれたら、どれほど日々が輝いたかもしれないのに。
家の隣には小さな診療所があり、廊下でつながっていた。
診察室は小ぎれいに整っている。ドアには「月・水・金曜 診療、火・木曜および週末休み」と貼り出されていた。
「これでやっていけるのかしら……」
流音は緑茶を淹れたカップを手に寝室へ戻った。
「起きてください。朝食を作りたいのですが、何もありません。近くにお店がありますか?」
「あるけど、小さいから、あまり品はそろっていない。少し運転すれば、コープがあるよ」
「じゃあ、私、そこに行ってきます」
「ちょっと待って。ルネは行動が早すぎる。こっちはまだ頭が寝てるから、考えさせて」
エドガーが緑茶をすすった。
「これ、なんですか?」
「日本のお茶です」
「すごくいい香りだ……ああ、目が覚めた」
エドガーが背伸びをした。
「そうだ、ウィンダミアまで行けば、よいものが手に入る。一緒に行こう。A591号線は景色が特別に美しいんだ」
流音の顔がぱっと明るくなった。
ドライブして一緒に買い物、それは、流音が長い間、夢見ていたことだった。
*
エドガーがトヨタ・ヤリスを車庫から出してくると、流音は助手席に乗り込んだ。
「私、助手席に座るのは久しぶりです」
「運転ができるようになったんだね」
「そうですよ。今ではコンサートにも自分で運転して行くことが多いです」
「たくましいな」
エドガーは微笑み、サイドミラーを調整した。
ヤリスのエンジン音は控えめで、まるで彼の今の穏やかな生活を象徴しているようだった。
流音は窓の外に目を向けた。冬の風に揺れる紅葉を眺めながら、助手席のシートに深く腰を沈める。
車内に漂うほのかなレザーの香りに、ふと昔の記憶がよみがえった。
「あの黒いスポーツカーはどうしましたか?」
エドガーが吸血鬼だった頃、彼は漆黒のアストンマーティン・ヴァンキッシュに乗っていた。
「もう手放したよ」
「お金の問題ですか?」
「いいや。どうして?」
「だって、週に三回しか診察していないし……儲かっているのですか?」
「ぼちぼちだよ。儲かっていなくても、暮らしていければそれでいいじゃないか」
「診療のない日は、何をしているんですか?」
「湖で釣り」
「何が釣れるんです?」
「トラウトとか。冬場はパイクやパーチ」
「お魚が好きなんですか?」
「いや、魚は苦手だ。さばくのができない」
「手術は得意なのに?」
「それは、昔の話」
「じゃあ、釣った魚はどうするんですか?」
「患者にあげる。健康食だからね」
流音は思わず笑ってしまった。
エドガーの口調は真面目だったが、その姿を想像するとどこか滑稽だった。
かつては闇を飛んでいた吸血鬼が、いまは釣り竿を手に湖畔に立ち、釣れた魚を診察室で患者に渡している。そんな光景を思い浮かべると、胸の奥が温かくなった。
流音は彼の横顔を見つめた。エドガーの瞳は穏やかで、湖の水面のように静かだった。
「『神の手』はどうなりましたか?」
「もう長いこと、手術はしていない。『神の手』はもうないよ」
「『神の手』と『人間の手』の違いは何ですか?」
「なんだろうな。吸血鬼は移動が速く、疲れを知らない」
「技術的なことは?」
「どうなんだろう……わからない」
「今でも、特別な外科医かもしれませんよ」
「どうかな。ただ、そういうことをやろうという熱が、もう湧いてこないんだ」
エドガーはわずかに口元をゆるめ、視線を前へ戻した。
「どうしてだろう。湖の風が心地いいことに気づいてしまったからかもしれないね」
そう言って、彼はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
朝の光がフロントガラスに当たり、湖面が金色にきらめいていた。




