48. いつも私から
エドガー宅のゲストルームは、二階の湖に面した角部屋だった。
四角い窓には緑のカーテンが束ねられ、ガラス越しに灰色の水面が静かに広がっていた。
古びた家具からは木の香りが漂い、壁にはプラハの橋を描いた水彩画が掛けられていた。
流音は荷物を置くと、パジャマの上に厚手のカーディガンを羽織り、階段をそっと下りていった。居間では、エドガーが暖炉に薪をくべていた。
「ここは寒いのですか?」
流音が問いかけると、エドガーは火を見つめたまま答えた。
「湖が近いから、ロンドンよりは寒いよ。でもプラハよりは少し暖かいかな」
「プラハの冬は厳しいんですね」
「そうだよ。ルネは寒がりだった。もしゲストルームが冷えるようなら、ここのソファで寝るといい。暖炉があるから、暖かい」
「この家にはゲストルームがあるんですね。ブルームズベリーのアパートでは、私は棺桶のような部屋で寝ていました」
流音はその記憶を思い出して、くすりと笑った。
「ルネがあそこで寝たいと言ったんだろう。でもデリオンと住むようになってから改築して、寝室とアトリエを作ったんだ」
「アトリエも?」
「デリオンは絵に興味があって、パリの学校に行く計画をしていた」
「デリオンさんのことは、ミュンヘンでのコンサートのとき、ベルダさんから聞きました」
薪がパチパチと音を立て、火の粉が舞った。
エドガーは顔をしかめ、流音は揺れる炎を見つめながら、彼にかけるべき言葉を探したが、何も見つからなかった。
「デリオンのことを思うと、まだどう考えればいいのか、何をすればいいのか、わからないんだ」
煙にむせて咳き込むエドガーに、流音は視線を落とし、指を組んだ。
外では風が窓を叩き、冷たい音が部屋の隙間から忍び込んでいた。
「私たち、プラハの橋塔の上で寝たことがありましたね」
流音が話題を変えると、エドガーは静かに頷いた。
*
七年前の最後の夜、ふたりは旧市街の橋塔の上にいた。
「ここ、ずっと登ってみたかったの」
流音は身を乗り出して、夜の街を見下ろした。
塔の上から見える旧市街は闇に沈み、街灯の光が星のように散らばっていた。
ヴルタヴァ川は黒い絹のように流れ、橋のランプが細い金糸のようにその上を照らしていた。
遠くにはプラハ城のシルエットが浮かび、聖ヴィート大聖堂の尖塔が淡く光を帯びていた。
ゴシックのアーチは、何か重大な秘密を宿しているかのようにそびえていた。
その時、流音は彼のマントを床に敷いた。
「私、ここで寝ます。いいですか?」
そして体の向きを変えて言った。
「あのう、私、寒いんですけど」
*
「あの時、ルネは寒いと言ったよね」
「でも、それほどは寒くなかったですよ。夏ですもの」
エドガーが「えっ」と驚いた顔をした。
「今は寒いですけど」
「この部屋が寒いのかい? じゃあ、もっと薪をくべよう」
「体は寒くないです」
「じゃあ、どこが?」
「……心です」
「心?」
「ええ。人間的な感情というか、情熱的なものが感じられなくて、寂しいんです」
「ルネは、ずいぶん言うようになったね」
「七年間で五百回以上、コンサートをしましたから、鍛えられました」
「すごいなぁ」
「エドガーさん、感心してる場合じゃないですよ。私が寒いって言ってるのに」
「そうだね、確かに」
エドガーは部屋の中を歩き回った。
「二階は寒いし、ここのソファは狭い」
「はい」
エドガーはほんの一瞬だけ彼女の顔を見て、慌てるように目をそらし、再び暖炉の炎へと顔を向けた。
火の赤が頬を染めているのか、それとも彼自身が少しだけ赤らんだのか、流音にはよくわからなかった。
「それでは、今夜は、ぼくの部屋に来ませんか」
「はい。そのお部屋に、暖炉はあるのですか」
「ないですけど、あたたかいです」
「あたたかいのは、うれしいです」
「でも、ちょっと待って。準備してきますから」
流音は、またやってしまったわ、と照れ隠しにうつむいて笑った。
昔も今も、こういう分野では、私が先に動かないと彼は乗ってこない。
でも、それでもいい。
そういうところも、好きなのだから。




