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47. グラスミアの家

エドガーの家は、グラスミア湖のほとりにひっそりと佇んでいた。


それは石造りの小さな家で、窓辺からは静かな湖面が広がり、月がゆっくりと昇っていた。


流音が玄関を入ると、暖かな空気と、ほのかにアロマの香りが迎えてくれた。


「寒かっただろう。すぐにお茶をいれるよ」

エドガーはキッチンへ向かいながら、柔らかく言った。


流音はソファに腰を下ろし、窓の外に目をやった。

湖面には、月の光が皺のような波紋を描いていた。静けさが、心の奥に染み込んでくる。


「ここに住んで、どれくらいになるの?」


「二年くらいかな。仮住まいのつもりだったけど、気づいたら根を張っていたよ。

近くに小中学校があってね。ぼんやり見ていたら、デリオンに似た子供がいてさ。最初は校医としてボランティアをしていたんだ。子供はいいよ。そばにいるだけで、慰められる」


エドガーは笑いながら、ティーカップを流音の前に置いた。

「ありがとう」


ふたりはしばらく黙って紅茶を飲んだ。


「ベルダから、ぼくのことを聞きましたか。ぼくの父親が誰かということを」


「はい。アジア人ですよね」


「ぼくの本当の父は、長谷川星座はせがわ・せいざという日本人で、あなたのお父さんは彼の弟ですよね」


「はい。あの写真に写っていたブロンドの方は、エドガーさんのお母さまでしたね」


「つまり、ぼくの父とあなたのお父さんは兄弟で、ぼくたちはいとこということになるんですよ」


「それがどうかしましたか。何の問題もないですよね」


流音がティーカップをソーサーの上に、かちゃりと置いた。


「デリオンのことを知っていますか。人間の世界では法的に問題がなくても、ぼくたちの世界では、彼のような不幸な子供が生まれてしまうことがあるんです」


「だから、それはどうして?」


「だから言っているでしょう。ぼくの父と、あなたのお父さんが兄弟だからです」


「おじさんと父は、法的には兄弟ですが、血はまったくつながっていません」


「それは、どういうことですか?」


「父の父、つまり私の祖父は長谷川家の運転手でした。でも、ある事故で亡くなって、母子家庭では三人の子供を養っていけなかったので、真ん中の父が長谷川家に養子にもらわれて、長谷川昭はせがわあきらになったんです」


「えっ……どうして。それを早く言わなかったんですか」


「どうして、それを早く聞かなかったんですか。ちょっと考えれば、わかると思いますけど。長谷川一家はみんな音楽ができるのに、父だけができないのは変だと思いませんでしたか?養子になったのが中学生のときで、少しは習ったみたいですが、ものにはならなかったんです。だから父は、娘の私にどうしてもピアノをやらせたかったのです」


「ああ……」


エドガーは頭を抱え、部屋の中を歩き回った。

「そういうことか」


「そういうことですよ」


「ぼくは、浅はかだったな」


「世の中に、浅はかでない人間なんていませんから」


「そうですか」


「そうですよ。私も浅はかですから。今のスケジュールが終わったら、ピアノをやめて、ここに来て住んでもいいですか。何度も『これが最後』って言ってきましたけど、今度こそ本物の最後です」


「もったいないよ。せっかく、ここまで来たのに」


「『神の手』を手放したあなたは、もったいなくなかったのですか?」


「こんなにがんばってピアニストになれたのに、後悔すると思うよ」


「人って、何を選んでも後悔するようにできているのではないですか。だから私は、後悔してみたいのです」


「ここに来て、何をするつもりなんだい?」


「看護学校に通って、ナースになりたいです」


「前にもそんなことを言っていたね」


「そうですよ。私はぶれない女です。それに、もしあなたの医院がつぶれそうになったら、近所の子供にピアノを教える、というのはどうですか?」


エドガーは少しだけ目を伏せてから、微笑んだ。


「それから、できたら子供をたくさん産んで、毎日、湖のそばを散歩したいです」


「それは、いいね。ぼくも本当は、ずっとそう願っていたんだよ」


「そう思っていたのなら、言ってくれたらよかったのに」


「……一度、どうしても伝えたい気持ちが湧いてきた夜があって、言ってみたことがある」


「いつ?」


エドガーがスマホを開き、流音のサイトを見せた。


「ここ、『にんにく』のコメントのところ」


そこに書かれていたのは、「ああ、今このラーメンを一緒に食ってくれてないのが残念だ」という一行だった。


「なんですか、これ。私とラーメンが食べたかったんですか?」


「ラーメン? いや、『I wish you were here』をAIに翻訳してもらったんだけど」


「なるほど。AIが誤訳したんですね。これからは、私に直接言ってくださいね」


窓辺の景色は、まるでイギリスの画家コンスタブルが描いた一枚の絵のようで、

机の上の古時計の針が、静かに次の瞬間へと進んでいった。



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