46. 湖水地方へ
流音はウィーンを朝六時半の便で出発し、八時頃にロンドンのヒースロー空港へ着いた。
そこからレンタカーを運転して湖水地方のグラスミアに到着したのは、日没が近い午後四時過ぎ。すでに冬の黄昏が、あたりを包み込みはじめていた。
丘の尾根は藍色に染まり、低く傾いた太陽が牧草地を淡い橙に照らしている。
霜に覆われた地面や、裸の木々の枝先に光る水滴がきらめいていた。
流音は村の中心から少し離れた、小川のそばにある「シルバーベックホテル」を予約していた。オンラインで取れたのが、そこだけだったのだ。
重い木の扉を開けると、暖炉にくべられた薪の匂いが漂い、旅の疲れをやわらかく溶かしてくれるようだった。
部屋の窓のカーテンをあけると、冬の薄明かりの中にぼんやりとグラスミア湖が見えた。
持ち物は小さなキャリーバッグひとつ。
部屋にお茶の用意はあったけれど、沸かす時間が惜しくて、ペットボトルの水を飲んだだけで出かけることにした。
あたりがすっかり暗くなる前に、湖まで行ってみたかった。
本格的に探すのは明日からにして、とにかく、まず湖畔を歩いてみたかった。
湖へ続く小道はもう薄暗く、霜で滑る石畳に気をつけながら歩いた。
小川のせせらぎや、風に揺れる木々の音がかすかに聞こえる。
十分ほど歩くと、湖が開けた。
冷たい風が湖面を揺らし、遠くの水面には夕暮れの空が淡く映っている。
湖畔を歩き始めたそのとき、水辺に黒い影が佇んでいるのに気づいた。
黒いジャケットを着て、肩を丸めて立つその人物のシルエットには、どこか見覚えがある。
あまりに思いすぎて、誰でも彼に見えてしまうことは、これまでもあった。
まさか、エドガーのはずがないよね。
「エドガーさん?」
試しに声をかけると、その影がゆっくりと振り返った。
「……ルネ」
弱い冬の光に浮かび上がったその顔は、間違いなくエドガーだった。
流音は驚きのあまり体が石のように固まり、すぐには動けなかった。
エドガーも立ち尽くしたまま、軽く手を挙げた。
「本当に……エドガーさんなの?」
流音が駆け寄った。
「どうしたんだい。ルネはウィーンにいるはずだろ」
えっ。
「どうして知っているの?」
その言葉に、エドガーの表情に一瞬「あ、しまった」という影が走った。
「私のスケジュールを知っているんですか?」
「ルネのサイトを見てるんだ。スケジュールが載っているだろう」
「そんなの、ずるいです。私は、エドガーのことを何も知らないのに」
「ルネは気づかないから」
「どういう意味ですか?」
「時々、コメントを送っている」
エドガーがスマホを開き、画面を指さした。
「……『にんにく』って、エドガーのことだったの?」
「そうだよ」
「だって日本語で書いてあるから、日本人のファンだと思ってました」
「AIを使えば何語でも書ける。チェコ人のファンだよ」
「思いつかなかったです。『にんにくぎらい』が『にんにく』かぁ」
「もう嫌いじゃないから」
「ああ」
「それで、どうしてここがわかったの?」
「ウィーンでベルダに会いました。デリオンさんのことや、あなたの行方がわからないことを教えてくれたの。それで、ここを思いついたのは私の勘。普段はカンなんて当たらないけど、『火事場の馬鹿力』よ」
「それ、なに?」
エドガーがスマホで調べて、目を上げた。
「すごいな」
「エドガーさんは、ここで何をしているの?どうしてここに?」
「どうしてだろう。誰かが昔、ここに住んだら幸せだろうって言ったから、かもしれない」
流音は七年前、この村を訪れたときのことを思い出した。
あの時、「こんな村に住めたら幸せでしょうね」と流音が言ったら、エドガーはこう返したものだった。
「どんな場所に住む人も、たいてい同じではないですか。人が思うほど、幸せでも不幸せでもないのではないですか」
「エドガーさんは、ここで幸せなのですか?」
「幸せって、何ですか」
「また始まった」
流音が笑う。「もう、そういう質問返しはなしです」
「エドガーさんは、ここで何をしているの?」
「ぼくはここで小さな医院をやっている。昼は患者の力になり、夜はルネのサイトを見られるから、……幸せだと思おうとしているんだ。ルネは?」
「幸せって、何ですか」
「それはなしって、自分で言ったじゃないか」
流音は少し笑ってから、静かに言った。
「私の夢は、ほとんど実現しました。だから、幸せな人間だとは思うのに……あまり幸せだと感じられないんです」
「なぜ」
「ホテルからホテルの生活で、泣きたくなる夜が多いんです」
「なぜ泣くのですか」
「寂しいから、じゃないですか」
「誰かがそばにいたら、寂しくないんですか。誰がそばにいたって、寂しいですよ」
「そんなこと、わかっていますよ」
流音が睨んだ。
「でも、どっちにしても寂しいのなら……ふたりで寂しがりたいです」
エドガーの視線が地面に落ちた。
「七年ぶりに会ったのに、私たち、ずっと立ちっぱなしですね。私はロンドンからずっと運転してきたんですよ。疲れました」
「そうだったね、すまない。では、ぼくの家に案内してもいいですか。小さい家ですが、湖が見えます」
「もちろんです」
ふたりは、少しぎこちない様子で、ゆっくりとエドガーの住む場所に向かった。




