45. ウィーンのイブ
流音はあのミュンヘンの朝、ベルダが最後に言った言葉をよく覚えている。
彼女はグラスの水をゆっくりと口に運びながら言った。
「彼ったら、どこへ行ってしまったのかしら。本当に馬鹿なやつ。……かわいそうな奴」
*
その十二月二十四日、クリスマス・イブのウィーンは氷点下。 時折、粉雪が舞い、街は静かに白く染まっていた。
流音はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれ、ソリストとして楽友協会の大ホールに立つことになったのだ。
これが「おしまい」と本気で思っている流音なのだが、そう思うたびに、チャンスが訪れる。今回のウィーンのコンサーとでは、フランス人のピアニスト、あのプラハコンクールで審査員だったクレール・デュポンが演奏する予定だったのだ。
しかし、体調の不調が続き、流音に白羽の矢が立てられた。準備期間は短かったが、自分を推してくれたデュポンのためにも、精一杯がんばろうと流音は練習に集中した。
その日、楽友協会の大ホールで、流音はシューマンの「ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54」を奏でた。
演奏が終わると、拍手の波が流音を包み込んだ。
流音は楽団が用意したパーティを早々に抜け出し、十一時にはホテルに戻った。
翌朝には日本へ帰国し、事務所の忘年会、そして認知症になって施設にはいっている母を連れての箱根温泉行きが待っている。
窓の外を眺めながら、「今年も、よくここまで来られた」と、ほっと息をついた。
コンサートに至るまでには、いくつものごたごたがあった。けれど、やり遂げた先には、確かな喜びがあった。
感謝してもしきれないほどの一年だったのに、心の奥に、やりきれない寂しさがよぎった。
人は誰しも、寂しさを抱えて生きている。それいてきているという証。
そういう孤独感は、死んだら消えるのだろうか。
けれど、そうなれば、喜びもまた感じられなくなるのだろう。
その答えを知りたいわけではない。ただ、誰かと、そんなことを語り合いたいだけだった。誰かといっても、誰とでもよういというわけではない。
星が窓から顔を覗かせると、雪は止んでいた。
眠るには惜しい夜。
流音は白いコートを羽織り、街へと歩き出した。冷たい空気が耳を刺し、両手でそっと包み込んだ。
石畳には二センチほどの雪が積もり、街灯やイルミネーションの光を受けて、幻想的に輝いていた。
親子三人が歩いていた。赤いコートに白い毛糸の帽子をかぶった八歳くらいの少女が、雪の上を跳ねていた。 その後ろを、流音は静かについて行った。
やがてカールプラッツ広場に出た。
緑のドームを頂いたカールス教会が、夜の闇に浮かび上がり、人々が中へと吸い込まれていく。
AIに尋ねてみると、この教会は1737年に完成し、ペストの流行を鎮める祈りの場として、神聖ローマ皇帝カール六世が建てたものだという。
正面の二本の柱には、螺旋状のレリーフが施されていた。
流音はデリオンの短い人生を思い、両親とエドガーとモルティマ兄弟の悲しみを思い、祈りをささげたいと教会に近づいた。
入口の看板には、真夜中の特別コンサートが行われると書かれていた。演目はベートーヴェンの「運命」。
まだ二枚だけ、席が残っているというので、流音は四十ユーロを払い、空いていた壁際の席に腰を下ろした。
祭壇の上には、金色の太陽を模した装飾が輝いている。メキシコのレストランで見たけばけばしい壁時計に似ていた。
十五人ほどの楽団員の音合わせは間もなく終わり、あの「ジャジャジャジャーン」が始まった。
音楽が始まると、流音はすぐに別の世界の人になった。
人の人生には、波のように苦難が押し寄せる。乗り越えたと思えば、また次の試練が来る。
それでも、いつか苦難は希望に変わり、光の上を、天へ向かって昇っていく。 あの光をけばけばしいと思ったことを、流音は悔いた。あれは希望への道なのだから、あのくらい輝いていなければならないのだ。
流音は、これまで数々の名楽団の名指揮者による名演奏を聴いてきた。 けれど、この小さな室内楽団の演奏ほど、心を震わせたものはなかったように思う。
それは演奏の技術だけではなく、この夜、流音自身が、両手を広げて、すべてを許してもらい、すべてを受け入れようとしていたからかもしれない。
希望が光とともに昇っていくのを見て、流音はふと、「湖水地方に行ってみよう」と思った。
イギリスの、あのワーズワースの村がある場所へ。
そう思うと、胸が高鳴り、うれしさがこみ上げてきた。 教会の出口で足をくじいて転んでしまったのだが、それでも、流音は笑っていた。
ホテルに戻ると、荷物を整理し、アシスタントの吉長かおりにメモを残した。
「行くところがあるので、私のスーツケースを持って、先に帰ってください。詳しいことは後で、電話します」
そして、ロンドン行きのフライトとレンタカーを予約し、湖水地方への行き方を調べた。
翌朝、空港でチェックインした直後、かおりから電話がかかってきた。
「先生、急に、どこへ行かれるのですか」
「イギリスよ」
「どうして急に?」
「どうしても、会いたい人がいるのよ」
「見つかったのですか、あの方の居所が」
流音は彼のことを、かおりに話した覚えはなかったので、驚いた。 けれど、ぽろりとこぼした言葉の断片から、かおりは何かを感じ取っていたのかもしれない。 あるいは、隠していたつもりでも、漏れていたのかもしれない。
「そういう勘がしただけ。ただ、どうしても、行きたくなったの」
「その勘、当たるかもしれませんよ。先生、ずっと会いたがっていらしたから」
「そう?」
流音はまた驚いた。そのことも、かおりは知っていたのか。
「いや、あそこにはいるかどうかわからない。それに、会いたいというのでは、一目会って、一発食らわせてやろうかと思って」
「そうですね。そういう時は、行くべきです。わかりました。箱根旅行のことも、おまかせください」
かおりの声は、どこかうれしそうだった。私はこの子に何を語ったのだろうか。
私は気がつかずに、他の人にも、語っているのだろうか。みんな、察しているのだろうか。
*
搭乗アナウンスが流れ、流音はロンドンへと向かった。 うまくいけば、夕方には湖水地方に着くだろう。
その先に、何が待っているのかは、誰にもわからない。
これまでの私なら、こういう行動はしないだろう。
生涯にひとりの人を見つけたと思っても、相手はそうではないかもしれない。
変に追いかけたら、ストーカーになり、世間に知られたら、恥になる。
でも、そんなことを考えずに行動する人々を、浅はかだと思ったことがある。失敗して、人に嘲笑されれる可能性があることをするなんて。
私も少しは名の知れたピアニストだから、メディアに知られたらおもしろがられて、スキャンダルになる可能性は大だけれど、今は、そんなことはかまってはいられない。




