43. デリオンのさよなら
エドガーの目の前に現れたのは、銀色の毛並みに青い瞳をした若い狼だった。
肩で荒く息をしながら、白く鋭い牙をむき出しにしている。
彼はゆっくりと歩み寄り、抵抗する狼を力強く抱きしめた。
狼は激しく身をよじり、エドガーの腕に噛みついた。赤い血が白いシャツに染み、袖からぽたぽたと流れ落ちた。
「いいよ、好きなだけ噛みつけばいい」
エドガーはそう言ってシャツを脱ぎ、裸の上半身をさらした。
「首でも、腹でも、どこでもいい。噛みたいだけ、噛みついていいから」
狼は唸り声をあげ、牙を剥いた。
だが、エドガーはもう一度、強く抱きしめた。
「デリオン、悔しいことが、たくさんあったんだよな。どんなにか、苦しかったことだろう。兄さんなのに、助けてやれなくて、本当にすまなかった」
その言葉に、狼は不思議そうな表情を浮かべ、唸り声を止めた。
「デリオン、ぼくのことを覚えてるかい? きみはまだ一歳だったけど、きみは特別に賢いから、きっと覚えてるはずだ。あの時も、ぼくはこうして、赤ちゃんだったきみにシャツを着せて、しっかりと抱いて、家に連れて帰ったんだよ」
エドガーは脱いだシャツをそっと狼の背にかけた。
その瞬間、狼の荒い呼吸が徐々に落ち着き、銀の毛が薄れていく。骨の形がわずかに軋み、毛の間から白い人の肌がのぞいた。
やがて、そこには、人間の姿をしたデリオンが現れた。
「……お兄さん」
デリオンの青い目から、透明の涙がぽとぽとと落ちた。
「そうだよ。ぼくは、きみの兄さんだよ。エドガーだよ。ロンドンで、一緒に暮らしていたじゃないか。一緒に、美術館へ行っただろう」
「お兄さん! 助けに来てくれたの?」
「もちろんだよ。遅くなったけど、仲間が迎えに来てくれて、やっと来られたんだよ」
「ぼく……どうなったの?」
「薬の副作用が出てしまったせいで、こんなことになったんだよ」
「ぼくは、どうすればいいの?」
「今、新しい薬を全力で開発している。もう少しで完成するはずだ。だから、もうちょっとの辛抱だ。がんばろう」
「でも、ぼくはもう、取り返しのつかないことを、たくさんしてしまった気がする」
「今は世の中が混乱しているから、全部がきみのせいとは限らないよ。状況が落ち着いたら、ぼくがちゃんと調べるから。まずは心を落ち着けよう。深呼吸をしてごらん」
「うん」
デリオンが深呼吸をした。
「デリオン、絵の勉強は続けてるのかい? パリに行くんだろう? その時は、兄さんも一緒に行くから。ずっと一緒だ」
「でも、兄さんはルネさんと結婚するために、辛い思いをして、人間になったんじゃないのかい?」
「それはもういいんだ。今のぼくの夢は、デリオンを完全に治して、一緒にパリへ行くことだよ」
「ほんとう?」
「約束する」
「すごくうれしい」
デリオンはエドガーの胸に顔を埋めた。
その時、遠くから「ウォーウォー」とパトカーのサイレンが鳴り響き、石畳と建物に反響して街を揺らした。
赤い赤色灯が、川の流れのように点滅している。
「あんなにパトカーがこっちに向かっている。ぼくは、もうだめだよ」
そう言って、デリオンは立ち上がった。
「大丈夫だ。兄さんが、なんとかするから」
「もう、どうにもできないよ。お兄さんは、上手く逃げてね」
「だめだよ。きみは兄さんと生きるんだ」
「お兄さん……たくさんのことをありがとう。ぼくは、お兄さんと暮らした日々が、一番幸せだった。さよなら」
「デリオン、待て!」
その時、デリオンは身を翻し、闇の中へと落ちていった。
エドガーは伸ばした手を宙に残したまま、声も出せずに立ち尽くした。
下にいて見守っていたヴァルナス、リュシフル、ノクスが急いでデリオンを抱えて、ドルハースラフナの城へと運び、ギルガルドとベルダは少し遅れてエドガーを連れて到着した。




