40. デリオンとの日々
ベルダは流音を案内して、マリエンプラッツから少し歩き、マックスフォアシュタットの通りまでやって来た。
昼間は学生や画廊の人々でにぎわうこの地区も、夜になると人影はまばらで、古い建物の壁に貼られた展覧会のポスターが、街灯の光を受けてわずかに揺れていた。
石畳の通りを曲がった先の角に、「カフェ・ヤスミン」と書かれた小さな看板が見えた。
ガラス窓の奥からは、琥珀色の灯りが静かにこぼれている。
「ここよ」
ベルダがドアを押すと、静かな鈴の音が響いた。
店内は、まるで古い映画のワンシーンのようだった。
カウンターの奥には金縁の鏡が掛けられ、年季の入ったエスプレッソマシンが鈍く光っている。
客は少なく、白髪の老人がひとり、新聞を畳んで静かに立ち上がったところだった。
ふたりは奥のテーブルに向かい合って座ると、遠くでトラムの軋む音がかすかに響いた。
「ここなら、ゆっくり話せるわ」
ベルダが微笑むと、流音は「そうね」とうなずいた。
店内には、ほとんど聞き取れないほど小さく、ジャズが流れていた。
ベルダはビールを、流音はカプチーノを注文する。
それからベルダはカウンターで煙草を買い、マッチを擦って火をつけた。
「しばらく吸っていなかったけれど、こんな夜は吸いたいわ。いいかしら?」
「どうぞ。そうね、私もブランデーを頼むことにするわ。」
*
ベルダは最後の一服を吐き出すと、無言のまま灰皿に煙草を押しつけた。
眉を寄せながら、唇に残った煙草の葉を指先で取り除いた。
「エドガーがデリオンを連れてロンドンに戻り、非常勤になって彼に勉強を教えていたのは、ご存じよね?」
「はい、知っています。ふたりとも、とても張り切っていました」
「あの頃、友人が勤めていた製薬会社が、興奮を抑える新薬を開発していてね。彼らはそれを試してみたの。すばらしい効果があって、誰もが幸せな時期だったわ」
その薬のおかげで、デリオンは発作を起こすことも、奇妙な行動をとることもなくなり、落ち着いて勉強に集中できるようになった。
そして、ある寄宿制の私立高校が彼の入学を認めてくれたのだった。
*
イギリスの学校は三学期制で、新学期は秋に始まる。
九月に登校し、最初に帰って来たのは十月半ば、ハーフタイムと呼ばれる短い休暇だった。
デリオンはその時、「美術の時間がいちばん楽しい」と話した。
エドガーは芸術関係の授業は担当していなかったが、彼を連れて大英博物館やナショナル・ギャラリー、そしてテイト・ブリテンへ出かけた。
テイト・ブリテンはロンドンのテムズ川沿い、静かなミルバンクの一角に建つ白い建物である。
大理石の階段を上ると円形のホールに出て、そこから枝分かれする回廊は、英国美術の歴史を時代順にたどるように設計されている。
デリオンがいちばん好きだったのは、ラファエル前派の部屋に展示されているミレーの「オフィーリア」だった。
その部屋は淡いグレーに青みを帯びた壁色で、絵の前には数人の来館者が立ち止まり、静かに見入っていた。
「オフィーリア」はシェイクスピアの『ハムレット』の一場面、恋人ハムレットに捨てられ、狂気のうちに川へ落ちて死ぬ瞬間を描いている。
オフィーリアは両手を祈るように広げ、片手に花を持って、水面に浮かんでいる。
彼女の目は半ば開かれ、唇は何かをつぶやくようにわずかに開いていて、周囲の草木や花々は、息をのむほど細密に描かれている。
「なんてきれいな絵なんだろう」
デリオンはしばらくその場を離れようとしなかった。
「この絵のモデルになった人は、本当に死にかかっている」
と彼が言った。
「デリオンは絵が好きなんだね」
「とても。ぼくも、こんな絵を描いてみたい。」
帰り道、エドガーは画材店に寄り、スケッチブックと鉛筆を買った。
デリオンはそれを大切そうに抱きしめ、スキップしながら歩いた。
寒い冬が近づいていたが、薬がよく効いていて、デリオンは学校に馴染み、まるで春へ向かうような希望に満ちた気持ちでいた。
冬の休暇にはプラハに帰る予定だったが、そのころエドガーの体調がすぐれず、デリオンは帰らずに看病をした。
そのとき、エドガーはデリオンの顔や腕に傷があることに気づき、確かめてみた。
デリオンは「ポロの試合で馬から落ちただけだよ。大丈夫」と笑ったが、エドガーの胸には不安が残った。
二月のハーフタイム、エドガーが学校へ迎えに行ったとき、担任と会って話をした。
教師は「デリオンには問題は何もなく、友人ともよくやっています」と言ったが、エドガーはその言葉の奥に、微かな悪意と嫌悪を感じ取った。
デリオンを連れて帰る途中、エドガーはテイト・ブリテンが見えるテムズ川のほとりに車を止めた。
「デリオン、学校でいじめられているのかい?」
「いいや」
「学校がいやなら、やめてもいいんだよ」
「いいの?せっかく入れたのに、やめても、いいの?」
デリオンの瞳から、涙が一筋流れた。
「いいよ。嫌な場所にいる必要なんてない。……今度は、美術学校に行くというのはどうだい? デリオンは絵が好きだろう?」
「いいの?」
「もちろん。美術高校はいくつもあるけど、パリに行くのはどうだい?」
「パリで勉強なんて、そんなことできるの?」
「できるさ。デリオンはプリンスなんだから、やりたいことができるんだよ」
「パリに行けるなんて、夢みたいだ。」
「な、プリンスも悪くないだろう?」
「うん」
デリオンはその学年を終え、秋から美術学校に通うことを決めた。
「そうだ、夏休みにはパリへ下見に行こう。ルーヴルやオルセー美術館を見学して、オペラ座でバレエを観ようか」
エドガーがそう言うと、デリオンは小躍りし、瞳を輝かせた。




