4. 湖水地方へ
エドガー・フィルモアが病院の玄関で待っていると、流音が看護師に付き添われて、キャリーバッグを引きながら現れた。
そして、エドガーの漆黒のアストンマーティン・ヴァンキッシュを見ると、「ああっ、スポーツカー」と言って立ち止まった。
エドガーが降りて、助手席のドアを開けると、「スポーツカーに乗るなんて、生まれて初めてです」 流音は目を輝かせながら乗り込み、看護師たちに手を振った。
このミルトン・キーンズから湖水地方のグラスミアまでは、エドガーが流音を抱えて飛べば二十分で到着できるのだが、今回は普通の人間のように、車でM6号線を走って、四時間かけて行く。
エドガーは人間になりたい吸血鬼だが、移動に時間がかかることを考えると、吸血鬼のほうが楽だと思うことがある。しかし、それでも、やはり人間になりたい。
車は静かに滑り出した。 ミルトン・キーンズの幾何学的な街路を抜けると、景色は次第に変わり始め、やがて広大な牧草地が見えてきて、羊の群れが白い点となって点在していた。イギリスの田園風景が広がり、古い石造りの家々が静かに佇み、人影が見えない。
流音はポケットから紙に包まれた小さなものを出して、エドガーに見せた。 「いかがですか、キャンディーです」
「いいや」と彼が首を振ると、彼女は包みをくるくると開けて、白い塊を口に入れた。
「これ、ペコちゃん」
「ペコ…ちゃ? チャイナですか」
「いいえ。ペコちゃんという日本のミルクキャンディーです。どうですか」
彼がうなずくと、流音はまた包みをくるくると開けて、ちょっとためらいながら、それを彼の口に入れた。
口の中に甘い香りが広がり、なにか懐かしい思いがした。甘いものはほとんど食べたことがないのに、自分の血のどこかに、この味の記憶が残っているような気がして、面食らっていた。
「えーとですね、レオシュ・ヤナーチェクのことですが」
とエドガーが話し始めた。ややこしいことは、早く済ませておきたい。
ヤナーチェクの生没年は1854–1928年。出身地はチェコ(当時はオーストリア帝国領モラヴィア地方)で、民族音楽の要素を取り入れて独自の音楽を作り上げた。今では、ドヴォルザークやスメタナと並ぶチェコ音楽の巨匠だが、彼が広く知られるようになったのは晩年になってからである。
「はい」
流音が真剣な瞳をして、エドガーのほうを向いた。
彼女を手術室で最後に見た時の顔は、血まみれで腫れていたが、今、この少女の顔は腫れが引いて、想像以上に整っている。 日本人とは、こんな顔だったのか。もっと平たい……、いやいや、そんなことを考えている場合ではない。
「その『霧の中』のことですが」
「はい」
そんな信じ切った瞳で、いちいち「はい」と言われると、エドガーの血が頭に昇って、集中できなくなる。
憎しみの宿る懐疑な瞳こそが美しいとされ、純粋な人は考えが足りないと馬鹿にされる、そういう世界で彼は育ったのだ。
こんな人が、人間社会で生きていけるのかどうか、心配になる。不安がエドガーを襲い、血液をたっぷり飲んできたというのに、体調が悪くなった。ましてや今は明るい。昼間は苦手だから、厚いサングラスをかけているが、光はいやおうなしに入ってくる。
車はM6号線を北上するにつれて、景色はさらに雄大さを増していく。風力発電の巨大な風車が、なだらかな丘の稜線に沿ってゆっくりと回転している。流音は窓の外を食い入るように見つめ、そのたびに瞳が新鮮な驚きに満ちて輝く。
「彼が、1911年に作曲した曲で、それは、彼が人生の不安と孤独に直面していた時期でして」
それは、もちろん、エドガーがさっき読んだばかりの情報である。
「はい。彼の心の迷いや不安定さを象徴していると言われています。黒鍵の多用や拍子の頻繁な変更が難しいところですが、技巧面はなんとかできます。でも、特に深い感情表現が光る一曲なのです。演奏者によって解釈が大きく違うので、そこに自分自身の解釈を入れるのがなかなかわからなくて」
「なるほど」と答えてはみたものの、実は、彼女が何を言っているのか、エドガーにはさっぱりわからない。
「特に最初のアンダンテは、音が非常に細かくて、繊細な霧を感じるのです。先生が育ったプラハの雨は、どうなのですか」
エドガーの目に、故郷プラハの雨の情景が蘇った。
石畳に降り注ぐ冷たい雨、教会の尖塔を濡らす雨は、たしか霧のようだったような気がするが、霧といえばロンドンもそうで、そういうことに気を払ってこなかった。ロンドンの濃い霧は姿を消すから便利だと思ったことがあるだけで、エドガーにはその違いがうまく説明できない。
「ぼくも、そのアンダンテが好きですよ」
と言って、彼はハンドルを切った。
「ここから、スピードを出しますから、よいですか。しっかりとつかまっていてください」
「はい」
アストンマーティンはM6号線を猛スピードで飛ばし、より曲がりくねった道へと入っていった。景色は一変し、左右を高く切り立った岩肌に囲まれた、鬱蒼とした森の中を走り抜けた。緑の苔が岩肌を覆い、湿った土の香りがかすかに車内に入り込んだ。
「ここからは、道がもっと狭くなります」
「はい」
流音が緊張して、シートベルトを強く締めた。
ああ、それにしても、彼女は素直すぎる。 彼のいた世界では、人の言ったことをすぐに信じるなんて、子供でもしない。まずは疑い、どんな仕打ちができるのか考えるのが、やるべきことなのだ。
やがて、木々の隙間から光が差し込み、視界が開けた。目の前には、深い青を湛えた湖が広がり、その水面には周囲の険しい山々のシルエットが鏡のように映っていた。湖畔にはのどかな村が点在し、煙突からは穏やかに煙が立ち上がっている。それは、まるで時が止まったかのような、静かな風景だった。
エドガーは流音をちらりと見た。 彼女の瞳は驚きと感動と喜びで大きく見開かれている。人間というものは、こんな小さなことで驚くのか。
エドガーは景色には何も感じなかったが、流音の反応には驚いた。人間というものは、いかにして黒雲を呼ぼうとか、豪雨を降らせようとか思わず、そこにある景色は景色として、そのまま受け止めるようだ。
ただ景色を眺めるだけで、どこがおもしろいのだろうか。




