39. 王国の最後
ベルダは、コンサートホールの近くにある「マックスズ・ヴィルトハウス」という庶民的なレストランへ流音を案内した。
そこは深夜まで営業しており、伝統的なバイエルン料理が味わえることで知られていた。
流音はシュヴァイハクセ(豚のすね肉のロースト)を、ベルダはヴルストテラー(ソーセージの盛り合わせ)を注文した。
シュヴァイハクセは外は香ばしくパリッと焼き上げられ、中は驚くほどジューシーだった。酸味のきいたザワークラウトが添えられ、脂の重さをやわらげてくれる。
ベルダの皿には、ブルートヴルスト(血のソーセージ)やレバーヴルスト(レバーソーセージ)など、店自慢の手作りソーセージが並んでいた。
「豚の血のソーセージ」と聞いた瞬間、流音はふと、あの屋敷での朝を思い出した。
エドガーがイギリス式の朝食を用意してくれた、あの日のこと。
「ブラックプディングって、何ですか?」
と流音が聞いたのだった。
「豚の血のソーセージです」
「へえ……イギリス人の祖先も吸血鬼なんですか?」
「ルネは、面白い人ですね」
彼がそう言って笑ったときの表情が、鮮やかによみがえった。
*
その話をすると、ベルダは驚いたように目を見開いた。
「まあ、彼が料理を? それは珍しいわね」
「そうなんです。あのとき、私は何もできなくて……。今はできますけど」
「知っているわよ。あなたは、時々、インスタグラムに載せているから」
ベルダも自分のSNSを見てくれていたのだ、と流音が驚いた。
「彼ね、ルネさんのことをいつも気にかけていたのよ。コンクールの演奏を聴いていた時も、心配で顔を覆っていたことがあったわ。今でも覚えているの」
ベルダはその様子を手振りで再現してみせた。
「エドガーってね、本来はそんな人じゃないの。いつもクールで、自信に満ちていて……なのにあなたのこととなると、まるで少年みたいに落ち着かなかった。ああ、可笑しかった」
けれど、ベルダの顔には笑みがなかった。
「それほど、あなたのことが好きだったのね」
「だったら……なぜ、彼のほうから連絡を絶ってしまったのでしょう。私、何か気に障ることをしたのでしょうか」
「そんなはずないわ。きっと、あなたのためよ。あなたに『偉大なピアニスト』になってほしかったのよ」
「そんなこと……私は望んでいません。私は、一緒に生きていたかったのに。でも、エドガーさんが、『神の手を失いたくない』、『人間にはならない』って……」
「エドガーが、そんなことを言ったの?」
「はい。確かにそう言いました」
ベルダはしばらく沈黙した。
やがて静かに言葉を選ぶようにして口を開いた。
「エドガーがあなたに送った最後のメール、見せてくれる?」
「ええ」
流音がスマートフォンを取り出し、メールを表示させる。
「三年前……この日」
ベルダの視線が画面に釘付けになった。
「その日、何があったのですか?」
「この日は、ドルハースラフナ城が焼け落ちた日よ」
「えっ、あの大きな城が? 私、そこへ行ったことがあります」
「いつ? どうして?」
「コンクールの前、エドガーさんが図書館で本を探していて……」
「赤い革の本?」
「そうです」
「そう。……これで少し、話の輪郭が見えてきたわ。もう一度メールを見せて」
ベルダは画面に顔を近づけ、目を細めて食い入るように読んだ。
そして、自分のスマホで何かを確かめながら、低くつぶやいた。
「エドガーは生きているわ。どこかで、生きている」
「どうして、そんなことがわかるのですか?」
「城が焼ける前夜、みんながあそこにいたの。エドガーの両親のレタナトスとセラフィナ、弟のモルティマ、それに小学校からの仲間、ギルガルド、ヴァルナス、リュシフル、ノクス」
「なぜですか?」
「本当は、関係のないあなたには言わないつもりだった。でも、……あの日は、ドルハースラフナ王国が滅んだ日なの。唯一の後継者であり、私たちの希望の星だったデリオンが死んだのよ」
「あのデリオンが……? でも、こんなに元気で、幸せそうだったのに」
流音は急いでスマホを操作し、一枚の写真を見せた。
髪を黒く染め、高校の灰色の制服を着たデリオンが、満面の笑みを浮かべている。
「あなたも、これを受け取ったのね。デリオンが一番幸せだった日。高校に行く前に撮った写真。私もその写真をもらったけれど、今はもう見られない。見るたびに、胸が裂かれるの。拷問のように、心が痛むから」




