38. ミュンヘンの夜
その秋、流音はミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団からソリストとして招かれ、イザール・フィルハーモニーのホールでシューマンの「ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54」を演奏した。
彼女は、この曲に自分のすべてを注ぎ込みたいと願い、長い時間をかけて準備を重ねてきた。ドイツ人プロデューサーに頼み、この演奏を実況録音してCDにしてほしいと申し出た。
これまでのCDは、複数の録音から良い部分を編集して作られていた。だが、それは「自分の演奏」でありながら、どこか「自分の音」ではないと感じていた。
ホールの空気感も、些細なミスも含めて、その瞬間のすべてを残したい、そう思ったのだ。プロデューサーは快く賛同し、「ベスト・オブ・ルネを作ろう」と言ってくれた。
流音は、このCDが完成したら「ラスト・オブ・ルネ」にしようと考えていた。
今後も演奏活動は続けるかもしれない。楽譜への理解も、感情の深みも、さらに増していけるかもしれない。
けれど、技術的な面と、それ以上に「やる気」が自分の中から少しずつ失われているのを感じていた。
「これを最後にしよう」
そんな覚悟で、ミュンヘン・フィルとの共演に臨んだ。
流音の指が最初の和音を叩くと、オーケストラが柔らかく応え、会話が始まった。
第一楽章の冒頭では、情熱的な旋律がホールを満たし、流音の心の葛藤と希望が音に乗って流れ出した。観客は、彼女の感情が音楽を通して語られていくのを感じた。
第二楽章では、その指先はまるで恋人に触れるように優しく、音は夢のように漂った。過去の記憶が音に溶け込み、自然と涙が頬を伝った。
そして第三楽章。
その目には決意が宿り、指は力強く鍵盤を駆け抜けた。オーケストラと一体となり、やがて歓喜の渦となって観客を包み込む。
この演奏は、流音自身の物語そのものだった。最後の和音が響き渡ると、ホールは一瞬の沈黙の後、嵐のような拍手に包まれた。
演奏中は夢中だったため、涙を流したことにも気づかなかった。
終わった瞬間、出来栄えに不安がよぎったが、カーテン横のプロデューサーが力強くうなずいてくれたことで、胸をなで下ろした。
気がつくと、観客は総立ちとなり、盛大な拍手がホールを包んでいた。流音は何度もカーテンコールに応じ、その熱気に身を委ねた。
「これで終わった」
これ以上の演奏は、もうできない、そう思った。
楽屋の椅子に腰を下ろし、余韻にぼんやり浸っていると、ドアがノックされた。
「Wer ist da?(ヴェア・イスト・ダー・どなたですか?)」
ドアの前には人がいた。だが、なぜかためらっている様子だった。
「Who is it?」
「……ハロー、ベルダよ」
ええっ。
流音が慌ててドアを開けると、懐かしい人が立っていた。
「ベルダさん!」
「ルネさん、覚えていてくれたのね?」
「もちろん、忘れるわけがないです」
ベルダはハンカチを握りしめ、流音に抱きついた。
「コンサート、メロディが切なくて、心に深く突き刺さったわ」
「ありがとうございます」
「あの頃の小さな女の子が、こんなにも胸を締めつける哀愁を奏でるなんて……」
「……あの、エドガーさんは今どちらにおられるかわかりますか?」
「あなたたち、連絡を取っていないの? 私も知らないの。だから、それを聞きたくて楽屋まで来たのよ」
「エドガーさんとは、なぜか連絡が途絶えてしまって。私の公式サイトやインスタグラムもあるので、連絡しようと思えばできるはずなんですが……」
「私も伝えたいことがあって、ずっと探しているの。でも、見つからないの。ブラックソーン・メモリアル・メディカルセンターも辞めてしまったし」
「病院にも、もういらっしゃらないのですか?」
「流行病がまん延していた頃にはいたけれど、その後は……」
「私、一度、夏にプラハで演奏会があった時、彼のお屋敷を訪ねたのです。でも誰もいなくて」
「そう……あの頃、悲劇が起きたのよ」
「あの流行病にかかったのですか?」
「いいえ、そうじゃないの」
「じゃあ、何があったのですか?」
「ここでは話せないから、外に出ませんか?」
「はい。ちょうどお腹が空いていたところです」




