37. 七年後
プラハの空港で手を振って別れたあの日から、七年の歳月が過ぎた。
それ以来、流音とエドガーは一度も再会していない。
*
日本に戻った流音は、Sホールでの凱旋公演を成功させ、追加公演に加えて大阪・福岡でのステージも決まり、息つく間もない日々を送っていた。舞台の上では音楽に没頭しているものの、演奏を終えて控室に戻ると、ふと彼の笑顔が脳裏に浮かぶ。胸の奥に温もりが広がる一方で、「こんなに会いたいのに、なぜ会えないのだろう」と言いようのない寂しさが押し寄せた。
それでも当時は、エドガーとのメールのやり取りが続いていた。彼は流音の活躍を心から喜び、近況を伝え合う日々があった。
「非常勤になって、デリオンに勉強を教えているよ」──彼はそう書いてきた。
「デリオンは覚えが早くて、来年には普通の高校に進学できるかもしれない」
翌年、クレール・デュポンから招待を受け、パリのサル・プレイエルでのリサイタルにゲスト出演することになった。うれしくなって、流音は「ロンドンにも寄ります」とメールを送った。
「待っています。こちらにも、良い知らせがあります。デリオンが寄宿舎制の私立男子校に入学できることになりました。彼もルネに会えるのを楽しみにしています」
だが、その冬頃から世界的に流行病が広がり、パリでのコンサートは中止となり、渡航も禁止された。エドガーからのメールも次第に途絶えたが、流音は理解していた。彼は病院に呼び戻され、医師としてアパートに帰れない日々が続いているのだろうと。
流音の父もその流行病にかかり、病院に隔離された。ほどなくして、母が玄関で転倒して頭を打ち、入院した。見舞いも許されない状況の中、父は亡くなり、母は夫の死と怪我のショックで鬱を患った。
流音も、そんな混乱の渦中にいた。
「自分だけじゃない、世界中の人が耐える時なのだ」
そう思いながら日々を乗り越え、レッスンは欠かさなかった。
三年目の秋、エドガーから一通のメールが届いた。
「毎日、仕事に追われている。ぼくは考えた末、『神の手』を失うわけにはいかないという結論に達した。ルネはぼくのことなど気にせず、自分の道を進んでほしい」
それが、最後の言葉だった。以降、彼からの連絡は途絶え、メールも電話も通じなくなった。
こんな苦しい時期に、突然拒絶されるなんて信じられなかった。世の中に冷酷な男性がいることは知っている。でも、エドガーだけは違うはずだった。説明もなくこんな仕打ちをするなんて。世界中の誰がそうしたとしても、彼だけはそんなことはしないと思いたかった。
流音は青ざめ、眠れず、体重はみるみる落ちていった。何を見ても悲しく、胸の奥にぽっかり空いた穴は埋まらなかった。責めることもできず、ただ現実を受け入れるしかなかった。
それでも、彼に想いを伝えたくて、夜想曲やリストの「愛の夢」を弾き、自身のサイトにアップした。指先で紡ぐ旋律は、言葉にできない感情を映し出す。低音の響きが沈んだ悲しみを重ね、高音の跳ねる音が、過ぎ去った日の微かな温もりを呼び覚ました。
反響は予想以上だったが、彼からの「いいね」もコメントもなかった。
その頃、クラシック専門レーベルのドイツ・グラモフォンとの契約が決まり、三枚のCDをリリースした。
彼女のサイトを見ていたドイツ人プロデューサーが「哀愁のピアノ曲」という二枚組アルバムを企画し、ショパン、ラフマニノフ、リスト、シューマン、スクリャービン、ドビュッシー、サティの作品を収録した。そのアルバムは二十万枚のヒットとなった。プロデューサーはその成功に乗じて、「クラシック編」に加え「ポップ編」「ジャズ編」の三部作を提案したが、流音はまだ迷っていた。自分にそれができるとは思えなかったのだ。
けれど、よく考えてみれば、「できないと思うこと」こそが、いつも自分の出発点だった。その階段を上がると、ドアが開いた。無謀かもしれない。でも、やってみようかな。そんな気持ちが芽生えていた。
流音がプラハ国際ピアノコンクールで優勝した次の大会は、流行病の影響で中止になった。しかしその年の夏、四年ぶりに大会が開催され、前回の優勝者として招かれた。久しぶりに、ドヴォルザークの「ピアノ協奏曲 ト短調 作品33」を演奏することになった。
当時を思い出しながら、エドガーの母から贈られた赤いドレスを身にまとい、髪には星型のクリップをつけて舞台に立った。弾いていると、彼とボヘミアに行った日の記憶が蘇った。演奏が終わると、観客は総立ちとなった。
控室に戻ると、またあの日の彼の笑顔が浮かんだ。あの日が、私の原点だった。その原点をくれたのは、エドガー。胸に温もりが広がると同時に、どうしようもなく深い寂しさが押し寄せた。
運転免許を取得できるようになっていた流音は、翌日、プラハ郊外の森の奥にある屋敷を訪ねた。けれど、屋敷には誰もいなかった。ハンモックがあった場所は見つかったが、そこには何も残っていなかった。
ハンモックから起き上がれず、恥をかいたあの日を思い出した。彼はそんな自分を見て、苦笑していたっけ。ものすごく懐かしくて、めまいがする。
幸福は、いつも駆け足で過ぎ去る。足音が聞こえていたとしても、振り返った時にはもう遠くへ行ってしまい、姿は見えない。
流音は枯草の上に座り込み、大声で泣いた。けれど、いくら泣いても、何も戻ってはこない。
目を閉じれば、彼の姿が見え、声も聞こえる。
でも目を開けると、そこには何もないのだった。




