36. 塔の上で
深夜を過ぎた頃、流音から真に連絡が入った。
エドガーがマントを羽織り、ホテルの横に舞い降りると、灰色のセーターにジーンズ姿の流音が勢いよく駆け寄ってきた。
「エドガーさん、奇跡の優勝者、ルネの登場です」
彼女は彼の首に腕を回し、強く抱きついた。
「おめでとう。本当に優勝したね」
「とても会いたかったわ。パーティに来てくれたらよかったのに」
「人が多い場所は苦手なんだ」
「私ね……」
*
言いかけた流音を遮るように、エドガーは「場所を変えよう」と言い、彼女を抱き上げて旧市街の橋塔の上に舞い降りた。
「すごい……ここ、ずっと登ってみたかったのよ」
流音は身を乗り出して下を見下ろした。
塔の上から見える旧市街は、夜の闇に沈んだ迷宮のようだった。街灯の光は星のように散らばり、夜空は深い群青に染まっている。雲の切れ間から、わずかな星が瞬いていた。ヴルタヴァ川は黒い絹のように流れ、橋のランプが細い金糸のようにその上を照らしていた。
昼間は観光客で賑わうカレル橋も、今は誰もいない。両脇に並ぶ聖人像たちは、夜の静けさの中で黙って見守っているようだった。
遠くにプラハ城のシルエットが浮かび、好奇心旺盛なルドルフ二世が現れそうな気配すらある。聖ヴィート大聖堂の尖塔は淡く光を帯び、ゴシックのアーチは何か重大な秘密を宿しているかのようにそびえていた。
冷たい夜風が塔を吹き抜け、エドガーのマントを揺らす。彼はそのマントを流音の肩にそっとかけた。
「この三週間、人生で一番多くのことを学んだ気がします」
「どんなことを学んだんだい?」
「言葉にできないくらい、たくさんのこと。たとえばファイナルの前、マギーが怖がっているように見えたの。あの曲は十三歳には難しすぎたわ。彼女は会場の空気に飲まれていた。それでも演奏は完璧だったけど、いつものマギーじゃなかった。それを見て、私は思ったの。堂々としていようって。いつもは会場に押されていたけど、今度は、自分がみんなを包み込むように弾こうって」
流音は両手を広げるようにして言った。
「今夜のパーティでもね、みんなが私に話しかけてきた。本当は怖かったけど、逃げずに、一つ一つ丁寧に答えようとしたの」
「ルネは、本当に、よくがんばった」
「『場数が大事』っていう意味が、やっとわかりました。でも、これでおしまい。本当におしまい。こんなにがんじがらめになったこと、今までなかったです。私、これ以上はもうできません」
「そんなことはないよ」
エドガーは彼女の肩を抱いた。
「ここからが始まりだ。ルネはもっと大きくなっていく」
「ピアノはもういいの。私はこれがいい」
流音は薬指の指輪を見せた。
「この三週間、幸せだったのかい?」
エドガーがほほ笑む。
「人生で一番大変だったけど、一番幸せだったわ」
「ピアノがあったからだよ」
「違います。あなたがいたからよ。……エドガーさんは?」
「ルネがいて、幸せだった。昨晩ここで眠りながらずっと考えていた。結論は……ルネにはピアノを続けてほしい」
「ここで寝ていたの?でも、もし私がいなくなったら、寂しくない?」
「寂しくなる。でも、寂しさと向き合うことから、何でも始まるんだから。それから、……」
「それから?」
「先日の夜中、デリオンが突然、屋敷を飛び出して、プラハにぼくを探してやって来た。まだ子供だと思っていたけれど、彼の苦しみや悲しみはとても深くて、何とかして助けやりたい。だから、ぼくは、デリオンを引き取ろうと思うんだ。そばにいて、勉強を教えてやりたい。話を聞いてやりたい。彼はひとりの友達もいないし、学校に行ったこともない」
「そうよね。このままでは、かわいそうすぎるわね」
「ぼくが人間にならないでそばにいれば、彼が暴れても、なんとかなる。そのうちに、治療法も見つかると思うんだ」
「そうね。きっと見つかるわよね」
流音の目から涙がこぼれた。
「今ね、事務所が凱旋公演を考えていて、日本のSホールが取れそうなんですって。一年以上前から予約しないと無理なのに、取れそうなんですって。私の夢だった場所だから、その公演が終わったら、戻ってきてもいい?」
「他からも招待があるんじゃないか?」
「あるらしいけど、それはもういいの。コンクールで奇跡的に優勝できて、Sホールでリサイタルができたら、それ以上望むことはないの」
「奇跡じゃない。ルネが自分の手で掴んだんだよ」
エドガーは塔の上を歩きながら言った。
「ぼくは一晩中考えたんだけど、ルネはピアノを続けるべきだ」
「優勝してしまったから、そんなことを言うの? 約束したのに」
「ぼくは人間になれないだろうし、『神の手の医者』でいたほうが、人のためにもなるだろう。たくさんの苦しんでいる人を救える」
「エドガーさんはそれでいいの? ずっとひとりでいいの?」
「これがぼくの運命なんだ」
「そんな運命、いや」
「ぼくもいやだ。でも、時にはいやなことを選ばなきゃいけない時もある」
エドガーは流音の指から指輪を外し、彼女の手のひらに乗せた。
「これはもう約束の指輪じゃない。でも思い出として、ルネに贈るよ」
流音はその指輪を見つめ、自分の指に戻した。
「贈り物なら、私が勝手にはめていてもいいのよね?」
エドガーは黙って頷いた。
「今夜は屋敷に帰るの?」
「いや。明日ルネを空港に送ったら、デリオンを連れてロンドンに戻る。それに、患者が待っているからね」
「……わかりました」
そう言って、流音は彼のマントを床に敷いた。
「最後の夜だもの。私、ここで寝ます。いいですか?」
「いいよ。ルネは、本当に変わったところで寝るのが好きだね。ハンモックに、棺おけに、塔の上」
塔の下から、馬車のひづめの音が静かに響いてきた。
「そうなの」
流音が体の向きを変えて、エドガーを見上げた。
「あのう、私、寒いんですけど」




